第25話

「あっつー……」

俺が汗を腕で拭い、そうぼやく。普段ならこのくそ暑い日に出かけることなどなかったので、暑さに慣れない。

七月の終わり、夏休みの始まり。

中学時代と違う、彼女がいる夏休み。その当の彼女はというと。

「……晴我くんの汗……」

獲物を見る猛獣の目で、俺を見ていた。さっきまでの暑さはどこへやら、なぜか寒気がする。

俺たちは今、海にいる。更衣室へ行く途中なのだが、なぜ貞操の危機を感じないといけないんでしょうか……。

不安を振り払うように、汗をぐいっ、と拭うと、あっ……、と残念そうな声が隣から聞こえてきた。




海に来た経緯だが、俺から愛菜之を誘ったわけじゃない。俺が愛菜之に、海に行こうと誘われたのだ。

別に断るつもりもなかったが、断ったらどうなるか……分かるな? みたいな目で見られてちょっと怖かった。本人、そんなつもりはないんだろうけどかなり怖い。

それで、海に行くならもちろん泳ぐわけだ。泳ぐなら水着も必要になる。

そういうわけで、俺は水着選びをさせられた。

正直言おう。かなり辛かった。

彼女のいろんな水着姿が見られるのに? と思うだろうが、それはとても良い。本当にとても良い。

だがしかしっ!

水着選びの間、女性用の水着が立ち並ぶ場所にずっといたのだ。そして周りには、恥ずかしそうにしている俺をあたたか〜い目で見守る店員。恥ずかしいことこの上ねぇな。精神がかなりすり減らされた。

だが愛菜之の水着姿は眼福だった。スタイルがいいし、なにより、俺に見せるたびに恥ずかしそうに、どうかな……? と聞いてくる姿といったら。

しかも全て俺が好むようなものばかり選んできた。さすが愛菜之である。




俺は、別にこれといって水着を選んだりはしていない。海パンでどうオシャレすればいいんだって話だ。

……モテる男ってのは海パンでもオシャレするんですかね。いや、モテる男はなにしてもかっこいいらしいし……結局素材か!? 負け確定だな! はは!


更衣室の外で待っていること数分。愛菜之が出てきた。

「晴我くん、おまたせ!」

「…………」

俺が黙ったまま愛菜之を見つめていると、愛菜之が困ったように首を傾げた。

「な、なにか変だったかな?」

そういって自分の体を見る。

その度に、一つにまとめられた髪がふるんふるんと揺れる。長い黒髪を三つ編みで一つにまとめていた。

そして水着だが……愛菜之に聞いたがこれはホルターネックのオーリングビキニ、というらしい。

愛菜之は白色のホルターネックの水着を着ている。俺はこの水着がいい! と、一つに絞りきれず、候補をいくつか上げただけだ。にも関わらず、俺が一番興奮……もとい、良いと思ったものを着てくるあたり、本当に俺のことを知っているんだな、と思った。……もしや、性癖まで網羅されてたり?


「はぁ……」

思わずため息を吐くと、愛菜之がさらに焦り出した。

「ご、ごめんなさい! 変なところがあったら教えて? 晴我くん、ね? お願い!」

なにをそんなに焦ってるかは分からないが、俺は思ったままのことを伝えた。

「え? なにも変なところはないぞ? 可愛すぎてため息出ちゃっただけだ」

「可愛すぎ……!?」

愛菜之がショート寸前になっている。白い肌の顔が赤に染まっていって可愛い。

「あんまり可愛いから、これ着といて」

そう言って、俺が着ていたパーカーを着せる。

愛菜之はスタイルも良ければ顔も良い。そんなのナンパされるに決まってるじゃない!

その暴力的な体を他の男に見られるのが嫌だったのでパーカーを着せた。

布面積が少なすぎるわけでもないが、一応ね?

「あ、俺の体温残ってて気持ち悪いだろうし、嫌なら着ないでいいけど」

「う、ううん! ……嬉しい。晴我くんの匂い……晴我くんの体温がまだ残ってる……」

そんな喜ばれると良心がね、痛むんで……。

ふと思ったが、俺、独占欲強いのか……? 海で水着姿見られるなんて普通のことだしなぁ……。

「俺って独占欲強いのか……?」

ため息と一緒に漏れ出た言葉。

独占欲強いと嫌われるらしいし、愛菜之に嫌われるって考えただけで嫌になる。独り言でも言って吐き出してないと、心が潰れそうだった。弱小メンタル化しているのは、布一枚だけという格好をしているせいなのかもしれない。

「え? なんていったの?」

「なんでもない」

悲観的になっても仕方ない。今はこの時を楽しまなきゃ。愛菜之の水着姿でも拝んでおくか。

……パーカー着せたから俺も見れねぇじゃねぇかよ。頭まで回らないのか自分はぁ!?

自虐ネタを誰に披露するわけでもないのにしていると、愛菜之が前のめりに否定する。

「なんでもなくないよ。晴我くんの言葉は聞き逃したくないの」

俺の一言一句を聞き逃したくない、らしい。愛菜之も独占欲が強いほうなのかもしれない。いや、強いほうだろう。たぶん。

「いや、その……俺って独占欲強いのかなって……独占欲強いと嫌われるし、愛菜之も嫌だろうなと……」

悪いことをしたわけでもないのに声が小さくなって、申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。

「……私は、独占欲強いほうが嬉しいよ」

そう言ってふわりと笑い、俺の腕に抱きつく。

肌の感触が、胸の感触がダイレクトに伝わってかなりまずい。海パンだけじゃ隠すもんも隠せないんですよ。

「そ、そうか。……じゃ、じゃあ場所取りするか」

「うんっ」

恥ずかしさに少し声が上ずる。愛菜之がそれを聞いてまた楽しそうに笑った。




「じゃあ晴我くん、日焼け止め塗って」

場所取りをしてシートを敷いた後、ウキウキとした様子で俺に日焼け止めを渡してきた。

まるで当たり前のように渡してくるので一瞬言われるままやろうとしてしまった。策士愛菜之よ、騙されんぞ。

「いや、自分で塗ったほうが……」

「背中とかは届かないし、他の人に塗ってもらったほうが塗り残しとかもなくなるから、ね?」

俺の言葉を遮ってずいっと詰め寄る。男の性のせいか、自然とその豊満な胸に視線がいく。……思ったより揺れない。

「……わかったよ」

こうなると愛菜之は聞かないだろう。覚悟を決めてやるしかない。

「じゃあお願い。晴我くん」

そう言ってパーカーを脱ぎ、うつ伏せに寝転がる。愛菜之の胸がぐにゅうっ、と潰れていく。

柔らかいんだろうな……。

「塗るぞ」

手にしっかりと日焼け止めをつけ、愛菜之の柔肌に手を伸ばす。

日焼け止めのおかげで隙間なく俺の手と愛菜之の肌が重なる。

「んっ……」

俺の手が背中に触れると、くすぐったそうに声を漏らした。

「あ、ご、ごめんね。続けて?」

「あ、ああ」

そんな声を出されると意識してしまうんでやめていただきたい。わざとじゃないんでしょうけどね? ただでさえギリギリなんでね。


ぎこちなく日焼け止めを塗っていき、どうにか塗り終わった。

「終わったぞ……」

この時点でかなり精神的に疲れた。手にまだ愛菜之の感触が残っている。もちもちすべすべでたまらな……うん、これ以上はやめとかなきゃ。

これで終わりかと思われた日焼け止め塗り。白い肌のキャンバスには塗り残しはない。

「次は前の方もお願い」

そっちはキャンバスじゃないと思うんですよね僕。管轄外、管轄外です。

「前の方はさすがに自分で塗ったほうが……」

背中はまだ良い。でもね、前の方にはその凶暴なお胸がありますよね?

「晴我くんに塗ってほしいの」

そんなことを言われるとやらざるをえない。つくづく、愛菜之に弱いな俺……。

「んしょ」

「……」

仰向けになった愛菜之を見て黙ってしまう。

やはり魅力的で、視線が捕われる。どことは具体的には言わないが、男なら……分かるな?

「……晴我くん、どこ見てるの?」

「……え? あ、いや」

「胸、そんなに興味あるの?」

ぎゅっ、と腕で胸を寄せる。うおぉ……壮観立派雄大。

そこにはきっと男の夢が詰まってると、おじいちゃんが教えてくれたんだ……。

俺のおじいちゃん、こんなこと言わないが。

「晴我くんになら、触られてもいいよ」

でも、と、伸ばした人差し指を自分の唇に当てた。

「後で、ね?」

…………。

今すぐはダメなんでしょうか。まぁこんなとこで揉みしだ……触ったりしたら、それこそバカップルのそれだ。

もうバカップルだろ、っていうツッコみはいらないからな。バカップルじゃないし!

ていうか、愛菜之の胸にしか興味がない男みたいになってる。俺は愛菜之の胸が好きなんじゃなくて全身好きなんだよ。全身好きとかなんか気持ち悪いけど。なんかじゃなくて確実に気持ち悪いですね、はい……。

「……愛菜之の全部に興味がある」

「ふぇ?」

俺がぼそっ、と言うと、愛菜之が恥ずかしそうに顔を赤くした。

ほんの少しの間ができた。その間に、俺たちは見つめ合う。ほんの数秒、それだけでお互いの感情が大体わかる。

二人とも、恥ずかしさと照れが混じっていて困ったような顔でいた。

「……なんでもない。ほら、塗るぞ」

「で、でも、私に興味あるって……ひゃ」

照れ隠しにさっさと塗ると、また声を上げた。愛菜之のお腹に、日焼け止め特有の照りが広がっていく。

「少し……くすぐったいかも」

「……我慢して」

仏頂面で言い、塗るのを続けた。仏頂面じゃないと、顔がニヤついてしまいそうだ。

わぁ、小さい子がこっち見てる。やめて、指ささないで。ああお母さん、教育に悪いもの見せてしまってすみません、すみません……。

やっと塗り終わった頃には、周りの視線や愛菜之の漏らすくすぐったそうな声のせいで、精神的な体力は全部持っていかれた。


俺にも日焼け止めを塗ろうとしてくれたが、丁重にお断りした。

たぶん愛菜之のことだから、日焼けしない部分にも塗ってきそうだし。

まぁ、そんなの言い訳で、単に俺が恥ずかしいだけだ。

あと抑えられなさそう。男子高校生はいつだって旺盛なんだよ。



「ふぅー……」

「疲れたね」

二人で海に入って、ひとしきりはしゃいだ。

やっぱり揺れない。そんな揺れるもんじゃないんだと、今日学びました。

けど、はしゃいでる愛菜之(水着バージョン)はとびきり可愛かった。ピックアップされてたら石の限りガチャ回してでも手に入れたくなるぐらいには可愛かった。

「じゃあ私、飲み物買ってくるね」

「ん、じゃあ俺もついていくよ」

そう言って立ち上がるが、愛菜之が止めてきた。

「晴我くんは疲れてるでしょ? それに、一人残らないと荷物危ないから、晴我くんはお留守番、ね?」

男の俺の方がスタミナはあるし、愛菜之が休んでいたほうがいいと思ったが、そんな小さい子に言い聞かせるような言い方だと、なんだか聞かないとダメな気がしてしまう。

俺の方がスタミナある、とは言ったが、俺は結構へとへとだ。

愛菜之は疲れてないのか? 見る限りだと全く疲れていないように見えるが。

…………体力作ろう。




「お待た……」

「ねぇほらほらー、彼女さんはどこよー? んー?」

「いや、ほんとやめてください……」

女子のクラスメイト二人にたじたじになっている俺と、たじたじの俺を見て楽しんでいるクラスメイト。

そして、それを見て立ち尽くしている愛菜之。

「あ、愛菜之……」

助けて、と言いたい。

言いたいけどそんなこと言うのはこの女子達に失礼すぎる。

勝手に絡んできたコイツらが悪いんだけどな!


で、なにがあったかだが……簡単に説明すると、お留守番していた俺はめでたく、クラスの女子に発見された。そんで絡まれた。

たぶんSNSとかにクラスの男子に絡んじゃったー(笑)とか載っけちゃうんだろうな……。

早々に立ち去ってもらわないと。こんなところ愛菜之に見られたらやばいと思っていたが、こういう時ってだいたい悪い方向に物事は進むんですねー……。

ちょうど愛菜之が帰ってきてしまった。

場面はそこまで戻る。

「あ、噂の彼女ちゃんじゃん!」

「へー、可愛いじゃん! ウケるんですけど!」

この人たちはなにに対して笑ってるんだ……。

「彼女さんとお幸せに〜」

くっそ……ほんと暇だな、アイツら。

俺らは有名人なのか? 俺はアイツらの顔を知らないんだが。

……まぁ有名だろうな。学校内で四六時中イチャついてるんだからそりゃ有名になるだろうな。クラスメイトの顔を未だ覚えてない俺がおかしいんだろうけど。

うちらクラスメイトじゃーん、て言われなきゃ気付いてなかった。

「……晴我くん」

「……あ、お帰り……」

女子二人が俺から離れたタイミングで、愛菜之が話しかけてきた。

片手に持っていた、缶のジュースをマットの上に置いて、愛菜之も座る。俯いているので、表情がわからない。

「ねぇ、晴我くん。本当はね、海には来ないほうが良かったかなって、私思うの」

「え? なんでそんな……」

二人で楽しんでいたと俺は思うんだが……。もしかして、俺だけ楽しんでたとか? それは申し訳なさすぎて腹切っちゃうぞ。

「ごめん、つまんなかったか?」

「ううん。晴我くんと一緒ならどこだって楽しいよ」

「……? なら」

「でもね」

コツン、と缶の上を爪の先で叩く。

ゆっくりと顔を上げて、缶を俺の脛に当てる。その冷たさに声を上げそうになるが、愛菜之の迫力に気圧されて、声が出ない。

「他の女に目移りするなら、もう出かけるのはやめた方がいいのかなって思うの」

「……は?」

吐息と混じり合って消えそうな、弱い声が漏れる。

出かけるのをやめる? 目移り?

なにか、勘違いしてないか?

「私以外の女の体を見たり、私以外の女と話をしてる晴我くんを見るとね。すごく苦しいの」

愛菜之は俺の手を取ると、自分の胸に押し当てた。俺の手を上から押さえつけて、離させようとしない。

あまりの驚きに声さえ出ない。周りの視線だとか、手の内のものの感触だとか、そんなものも頭にないほどに、今起こっていることで頭がいっぱいだ。

愛菜之は、苦しいと言っているのに、笑っている。

合っていない感情と表情。脛が冷たいはずなのに、背筋がひどく冷えている。

手だけ、彼女の温もりで温まっている。

「これからは……私と二人っきりになれる場所だけで、二人の時間を過ごそうね」

あ、それと、と、愛菜之は笑顔のままに、俺に語りかける。

「あの二人、殺すね」

「ダメだ」

絶対に、それだけはさせない。

「……なんで? あの女達が大事なの?」

「いや別に。俺にとって大事な女の子は愛菜之だけだ」

「っ……、なら、どうして……?」

俺は、愛菜之が大事で、二人で居たい。

あんな顔も覚えてない女子二人のせい……かどうかは分からないけど、そのせいで愛菜之が枷をつけられてしまうのは俺が嫌だ。

「愛菜之と二人でいるためにも、愛菜之には犯罪を犯して欲しくない。あんな二人にかまけてないで、俺と一緒に居てくれ」

「……でも、晴我くんは他の女を見た。汚されたんだよ」

なにを言ってくるかと思えば、簡単なことじゃないか。

「なら、上書きしてくれりゃいい」

至極簡単だ。単純に、上から塗りつぶせばいい。もう十分塗りつぶされているけど。

「……そっか。じゃあそうするね」

心からの笑顔を浮かべて、彼女は俺の手を解放する。

思ったよりすぐに解放されて良かった。

脛に当てられていた缶を受け取り、礼を言ってからそれを飲む。

ちょうどいい涼しさを体に感じてから、俺たちはまた、二人で海を楽しんだ。




「うーし、帰るかぁ……」

疲れから出たあくびまじりにそう言い、伸びをする。

今は着替え終わって、更衣室を出たところだ。やっぱり泳ぐっていうのは疲れる。けどいい運動になったな。

「あ、待って。晴我くん」

呼び止める言葉に振り返り、あくびを引っ込める。

「近くにホテルがあったの」

日帰りのつもりだったので持ち合わせがない。ていうか、泊まるつもりだったのかよ。そもそも、俺はこの近くにホテルがあることさえ知らなかった。

「俺、泊まるつもりはないんだけど……ていうか、今からじゃ部屋、取れないんじゃないか?」

「ううん、とっちゃった。部屋」

………………え?

倒置法を使いながら、彼女はとんでもないことを言うのだった。




「愛菜之」

「どうしたの? 晴我くん」

「……ホテルって、ここのことじゃないよな?」

俺が指を指したホテルは、一見すると普通のホテルに見えたが、

「ここのことだよ」

俗に言う、ラブホテルというやつだった。


「俺たちの年齢じゃ入れないぞ?」

「ここ、フロントに人いないって」

なんでそんなこと知っているんだ、と疑問を抱いたが、それよりも別の問題が多々ある。

「家族に連絡は?」

「私はもうしてあるよ。晴我くんは今日と明日、お母さんお家にいないよね?」

「なんで知ってるんだ……」

私は晴我くんのことはなんでも知ってるよ、と子供のように笑いながら言う。

俺の母さんは現在出張中。昨日からいなかったのだが、なんで俺の家族の事情までご存知なんですか……。

「でも持ち合わせが……」

「私が払うよ」

「それはダメだから後で返すよ……」

俺がダメな理由を言えば、愛菜之は分かっていたかのように解決案を出してくる。解決案と言えるかはわからないが。

「ほら、入ろ?」

にっこり笑って、俺の手を取った。

どうやら入るという選択肢しかないらしい。

周りに知った顔がいないかを確認しながら、顔を伏せて俺は愛菜之と一緒に、そこへ入っていった。




入ってみると驚くことばかりだった。

俺たちでも簡単に入れたこと。思ったより普通の内装だったこと。本当にフロントに人がいないこと。他の客は俺たちのことなんてまるで興味がなくて、気にするだけ無駄だということ。

彼女のことを、いつも以上に意識してしまうこと。

そういうことで、いいのだろうか。

胸に期待と不安、言い表せない焦りがうずまく。

向こうは、そういうことをしたいわけじゃないんじゃないか。ただ単に、今日一日中、一緒に居たくて、誘っただけなんじゃないのか。

だかここに誘ってきた以上、そういうことを期待していいのだろうか。

思考が目まぐるしく動く。

当の彼女はというと、俺の腕にしっかりと抱きついていた。赤面してるわけでもなく、真顔になるでもなく、いつものように微笑を浮かべていた。




そうこうしているうちに着いてしまった。

ここに来るまでのエレベーター内でのなんとも言えない空気感が胃を痛めてきたが、今はその比じゃない。

今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。

けれど現実は優しくない。逃げることもできず、部屋に荷物を置く。

着替えやらを持ってきていた金で先に買った。コンビニに居るだけであんなに安心するとは思わなかった。

「先にお風呂、入って」

「いや、愛菜之が先でいいよ」

愛菜之の好意を断る。こういう時は女子の方が先に入ったほうがいいだろう。俺の残り湯なんて嫌だろうし……愛菜之なら喜ぶのか? 流石に無いか。……無いよな?

それに今日は、海に入って汗をかいた。

シャワー室で大方洗ったとは言え、やっぱり女子は早くお風呂に入りたいだろうし。

けれど愛菜之は、首を横に振る。

「晴我くんが先に入って」

「え? でも……」

「入って」

笑顔で、もう一度静かにそう言う。

入っていいよ、ではなく、入って。

それは命令じゃない。ただのお願いだ。断ることだってできる。

けど、できない。その笑顔の圧がなんだか無性に怖かった。




言われたとおりに風呂に入る。ていうか、風呂がかなり綺麗で、これもまた驚いた。浴槽は泡が出てくるし……普通のホテルよりいいんじゃないか? これ。

ボタン式で出てくるシャワーに新鮮さを感じながら浴びていると、風呂の扉が開かれる音がした。

聞き間違いか、幻聴であって欲しかった。

「晴我くん。背中、流しにきたよ」

デジャヴを感じる。いつだったか、愛菜兎騒動の時か。

あの時は、一度入っていいか聞いていたっけ……いや、聞いてなかったな。あの時も確認なしに入ってきた。けれど遠慮がちだった。

遠慮がなくなるのはいいけど、無くなりすぎるのも困り物だな……。

なんてそんなことを感じてないで、今はどうやって愛菜之をここから出すかだ。

「駄目だ」

しっかりとした口調で、愛菜之のほうを見ずに言う。振り返ればきっと彼女の裸を見ることになるんだろう。見たいけど、見たら俺の中のなにかが暴れ出しそうで怖い。

「……前にも一緒に入ったよね? なんでそんなこと言うの?」

「いや、前のは……」

前は……あの時は、愛菜兎のことがあって、愛菜之が弱っていたからオーケーを出した。けれど今は、オーケーを出していい理由がない。オーケーを出せば、俺は欲に負けてしまう。オーケーを出した時点で負けていると思うが。

なんと答えるべきか考えていると、愛菜之から話し出した。

「……私って、そんなに魅力ないの?」

なにを言い出しているんだろうか。前にも聞かれたが、ないわけがない。

あるから入らないで欲しいと、前にも言ったっていうのに。

「あるよ、愛菜之には魅力がある。なかったら、付き合ったりなんかしてない」

「それなら───」

「けど、駄目だ」

「なん、で……」

俺の答えに愛菜之が言葉に詰まる。

「けどっていうか、だから、ダメなんだよ。……俺もさ、一応男なんだよ。好きな子と一緒に風呂入るってなると、我慢の在庫もつきるんだよ」

「……」

愛菜之が黙ったまま俺の言葉を聞く。愛菜之の方を見ていない、見れないから表情は分からないけど、きっと良い表情はしていないだろう。

「……そういうつもりで誘ったなら、いいけど……」

「ねぇ、晴我くん」

俺の言葉を聞き終えた愛菜之が答える。

その声は、風呂に似つかわしくない、凍えるような冷たい声だった。

「私は、晴我くんのことが好きだし、前からえっちなことは晴我くんにならされてもいいし、晴我くんにならしたいって言ってるよね?」

確かにそう言っていたが、だからと言ってはいそうですかと、手を出すわけがないだろ。

それに、出す勇気も、度胸もなかった。

「それに、女の子がこういうところに誘うってことは、晴我くんが言ってるそういうこと以外になにがあるの?」

愛菜之が俺を後ろから抱きしめる。バスタオル越しでもなく、肌と肌との密着。

柔らかいものが二つ押し付けられて、愛菜之のしなやかな腕が、俺を抱いて、締めつける。

「晴我くんの、ヘタレ」

ほんのりと殺意のこもった声で、俺の耳に囁く。

「そういうことしたいの。晴我くんと」

そう言って俺から離れる。ガチガチに固まった俺の体が、ようやく解けていく。

けれど、心臓だけは動きを緩めなかった。

「晴我くんのどんなところも、私は好きだけど、もっと私に積極的になってほしい」

もっと、積極的に、か。

愛菜之は腕を俺から離す時、震えていた。俺はそれをしっかりと感じていた。

愛菜之だって、勇気を出しているんだ。俺が出さないでどうする。

「……わかった」

俺も一歩を踏み出すんだ。小さくでもいいから、前に進んで、積極的になるんだ。

「背中、流してくれないか?」




「なぁ、なんで手で洗ってるんだ……?」

「洗う用のタオルとかなかったし、晴我くんに触れたいんだもん」

愛菜之の手の感触が、背中にしっかりと伝わってくる。泡のせいで離れている部分がない。手の指先から平まで、しっかり密着している。

「うあっ」

情けない声を出してしまったのは、愛菜之が背中を指でなぞったからだ。

くっくっ、と悪戯が成功した子供のように、愛菜之は笑う。

「かわいい声出しちゃダメだよ晴我くん、食べたくなっちゃう」

捕食と被食の関係になってしまっている。言うまでもないが、俺が喰われる側だ。

「はい、終わったよ」

そう言ってシャワーで俺の背中を流す。サラサラと流れていく泡を見ながら、ほっと息を吐く。

実はかなりギリギリだったりする。我慢はやっぱり体に毒なんだなと感じた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

優しく笑って、そして俺にこう言った。

「次は私の背中、流して?」

「それはさすがに無理だって……」

「なんで?」

俺が即答で断ると愛菜之も間髪入れずに理由を聞いてきた。

そんな超速反応しなくても……。

「いや、その……言いたくない」

「どうして? 私に言えないことなの?」

言えるわけがなかった。それなのに、愛菜之はまだ詰め寄ってくる。察して欲しいっていうのは、我儘だろうか。

「なんでなの? ねぇ、晴我くん?」

「待って、顔をそれ以上近づけないで」

俺の隣に出してくる綺麗な顔に、目を逸らしながそう言うが、愛菜之はそれを無視して顔と顔がつきそうなほどに詰め寄ってきた。

「なんでそんな突き放すようなこと言うの? ねぇ、理由を言ってよ。納得できる理由を」

半分ヤケになりながら口を開く。これ以上は耐えられない。

「言うよ! あのな! マジで爆発する! 俺の中のアレが爆発するから!」

勢いのままに振り返り、愛菜之の肩を掴む。出来る限り目線は上で、愛菜之の顔だけを見るようにしながら、俺は続ける。

「そういうこと、していいんだろ!?」

「ひゃ、ひゃい!? お、お願いします!」

突然のことに赤面しながら、謎の返しをする愛菜之。違う、そうじゃない。

今ここで、おっ始めたいわけじゃない。

「いやさ、そういうことってベッドとかでやるんじゃないのか!? 知らないけどさ! つか、ここでそういうことしたらのぼせるって!」

勢いそのままに突っ走り、息も吸わずに言い切る。

きっと幻滅されたろうな……と、目を瞑りながら返事を待っていると、愛菜之がゆっくりと口を開いた。

「そ、そうなの、かな……? わからないけど、そうしたほうがいいのかも……」

俺も、そしてなぜか愛菜之も、愛菜之自身が初めてだということを完全に忘れていた。

そしてその後は二人して初々しく、無言で体を流していた。




俺は先に風呂から上がって、愛菜之を待っていた。

待っている間が、本当に落ち着かない。スマホをいじって待とうにもどうにも気が散る。

そういうことに関してネットで検索をかけたりしたが、本番は本番で勝手が違うから頑張れとしか言えないと書かれていたりで、役に立たない。

スマホであれやこれや調べていると、風呂場の扉が開く音がした。慌ててスマホを閉じてテーブルに置く。あまりの焦りに、スマホがゴトリと音を立てて、テーブルに着地した。

愛菜之が風呂から出てきた。下着姿で、髪は若干濡れていた。

「晴我くん、お待たせ」

「あ、ああ」

愛菜之がこっちへ来て、俺の隣に座る。

全身から汗が吹き出そうだ。鼓動が早くなって、なんだか苦しい。

「は、晴我くん……」

俺の手を握り、俺の名前を愛おしそうに呼ぶ。目と目が合う。艶のある頬は、赤みがかっていて、色気、というものを感じた。

俺もしっかりと握り返し、二人の手が絡み合う。

「いいよね……?」

頰を赤らめながらそう聞き、優しい目で俺を見る。彼女の背中に手を回し、こちらへと引き寄せる。

彼女は、一言一言を、優しく紡いだ。

「晴我くん……一つに、なろ……?」




晴我くんが、私と一つになってくれた。

初めてだったから、不安に心が塗りつぶされそうだったけど、相手が晴我くんだから、不安なんて消えていった。

私の初めてをあげたとき、話には聞いてたけど、やっぱり痛かった。

けど、知らなかった。

こんなに幸せな痛みがあるなんて。


晴我くんは、私を熱い視線で見てた。理性を失ってても、私が痛そうにした時に、大丈夫か? って心配してくれた。

優しい晴我くん。大好きな晴我くん。大好きで、離したくない。離さないでほしい。

今、この時が永遠になればいいのに。

離さないで欲しいから、離れないで欲しいから。

私は、避妊具に穴を空けた。

そうすれば、私の中に、晴我くんとの子供ができるかもしれない。

そんなことになれば、晴我くんは優しいから、責任を取ってくれるはず。

ずっと、一緒にいてくれるよね。




行為の後、二人でまた風呂に入った。

浴槽に、俺の足の間に愛菜之が座る形で、二人で入る。二人で入っても狭くない広さの浴槽に、狭いと感じるぐらい密着して入った。

髪を纏めている愛菜之の、うなじが見える。お湯に濡れる首筋が、妙に色っぽい。

「……愛菜之」

「なぁに? 晴我くん」

幸せそうな声で前を向いたまま聞いてくる愛菜之。

その幸せそうな様子を壊したくはなかったが、仕方ない。これは言うべきだろう。重々しく、苦々しく、口を開いた。

「避妊具に穴、あけてたろ?」

「……どういうこと?」

いつもの口調だったが、含まれている感情はよくないものだった。

「そんなことはないと思ったけどさ、万が一があるから確認したんだよ。そしたら小さく、本当に小さく、穴があいてた」

そしてそれは愛菜之が、なぜか、用意していた避妊具全てにあいていた。

「だから、着替えとか買うときに買っといたんだ」

「……なんで、そんなことするの?」

こっちのセリフなんだけどな。全部に空いてるってことがわかったときは身震いしたぐらいだぞ。

「私との間に、子供ができるのが嫌なの?」

「そんなわけがない」

「……じゃあどうして?」

好きな人との間に子供ができることは嬉しいが、俺たちはまだ学生という身分だ。

そして俺はまだ学生という身分を楽しんでいたい。愛菜之と一緒に。

「まだ、俺と愛菜之で学生の時間を楽しみたいんだ。それに……」

「それに?」

頬を掻きながら、彼女から目を逸らして話す。恥ずかしいけど、言うっきゃないよなぁ……。

「……まだ、愛菜之とは恋人って関係でいたいんだよ」

「…………晴我くん」

俺の言葉を聞いた愛菜之が、嬉しそうな声で俺の名前を呼ぶ。ちゃぱっ、とお湯の跳ねる音がした。

「もういっかい、シよ」

「……え? ここで?」

「今すぐしたくなってきちゃった。ね、シよ?」

「ここでやるとのぼせそうだし、せめて上がってから……うおっ!?」

愛菜之が俺に抱きついてきた。肌と肌が、お湯のせいでぴったりと触れ合う。

お湯とは違う温かさと、肌の感触に、背筋がゾクゾクする。

「いいよね? ね」

「ちょっ、まって、まっ……」

風呂の中に、アッー、と俺の高い声が響いたのであった。




あの後、おいしくいただかれた俺と愛菜之は、ベッドに二人で寝ていた。

限界まで搾り取られ、ぐっすりと寝ていたが、寒気に目が覚めた。

どうやらクーラーが効きすぎていたらしい。暑いからと下げすぎたようだ。あんなにすりゃ、暑くも感じるがね……。

目の前で、すやすやと寝息をたてて眠る愛菜之を起こさないように、枕元に置いていたスマホでそっと時間を確認する。

朝八時と表示するスマホを見てから、愛菜之を見つめる。

変わらず寝息をたてて、そして俺の服の裾を、指で摘みながら寝ている愛菜之がとても愛おしい。

あまりの愛おしさに、寝ぼけていたからか、愛菜之を抱きかかえた。それも、抱き枕のように。

愛菜之の匂いと体温が感じられて、とてもあたたかい。

あっという間に、眠りに落ちた。




───晴我くんの、寝顔。

ずっと見ていたいぐらいに、可愛い。無防備に、私のことを信頼しきっている様子で寝ている。

時刻は朝の八時頃だろう。晴我くんより早く起きて、晴我くんを起こす。すごく幸せなことだ。

「ん……」

晴我くんが少し寝苦しそうに声を漏らす。そして、そっと目を開けた。

私はというと、なぜか反射的に寝たフリをしてしまった。

薄めを開け、晴我くんを見ると、スマホで時間を確認していた。

そして、ほんの少しの間、私を見つめてから優しく笑う。

ふわりと、布団以外の暖かさを感じた。晴我くんが、私を抱きかかえた。

私って、前世でどれぐらい徳を積んだんだろう。

晴我くんの匂いが、晴我くんの体温が、晴我くんの心臓の音が、晴我くんの寝息が、晴我くんが私を包む。

なんだか、とても安心した。まるで、お風呂に入っているみたいにあたたかくて、干したてのお布団に入ってるみたいに、ぽかぽかした。

目蓋が、落ちていく。晴我くんの夢を見たい。

現実でも夢でも晴我くんに満たされたら、幸せだろうな───。




目を覚ますと、頭の方からとても柔らかい感触を感じた。

「……あ、起きた?」

目の前には愛菜之がいるかと思ったら、愛菜之の胸と愛菜之が俺を見下ろしていた。

「……ん、おはよ……」

起きたばかりでうまく言葉が出ない。喉がパリパリと乾いている感覚がある。

「ふふっ、可愛い」

愛菜之が愛おしそうに声を出して、俺の頭を撫でる。優しいその手つきに、また眠気が刺激される。

「ん……」

「まだ、眠い?」

「うん……」

そっか、と笑いながら呟く。慈しむような優しい声は、起きたばかりの俺を包み込むようだった。

「なんか、安心する……」

「え?」

俺の言葉に、愛菜之が驚いたように声を出す。

「あったかくて、愛菜之の、匂いとか、体温、感じられて……すごい、安心する……」

「うん……うん」

俺の途切れ途切れの言葉を、幸せそうな声で相槌を打ちながら受け止める。

「でも、起きなきゃ……」

「無理しなくてもいいよ? 寝てていいんだよ?」

優しい声に、睡魔が刺激されるが起きなければいけない。せっかくの夏休みなんだから。

「でも、愛菜之と出かけたいし……」

俺の言葉を聞いた愛菜之が、首を可愛く傾げる。慈しむような笑顔は、幸せそうな笑顔に変わっていく。

「晴我くんと、こういう関係になれてよかった」

心底幸せそうにそう呟いて、俺の額にキスをした。

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