第10話

「……」

風呂の鏡で自分の体を見る。

体の痣は、前よりかは幾分マシになっていた。

「……」

次に首元を見る。手形がついている。はっきりとした手形が。

「ひどいな……」

他人事のように言うが、まだ現実を受け止めきれていないのだろうか。

まだ夢のように思える。同級生の、それも彼女の妹に殺されかけたなんて。

その時のことを思い出していると、風呂の扉がコンコンと叩かれた。

「……晴我くん」

「愛菜之?」

顔だけ振り返って扉の方を向き、返事をする。

「……大丈夫?」

心配してくれてるいるようだ。労わるような声は俺の心に染みた。

「大丈夫だよ。心配かけてごめんな」

実際この体じゃ大丈夫かは怪しいが。

一人でツッコミを入れて気を紛らわしていると、風呂の扉に映る人影がごそごそ動き出した。

「……愛菜之?」

名前を呼ぶが、返事はこない。

人影は動き続け、そしてシュルシュルと衣擦れの音が聴こえてきた。

うそだろ?うそだと言ってくれ……。

「……」

嘘であってほしかった。

愛菜之が、顔を赤くしながら入ってきた。タオルが前の方をかろうじて隠している。

急いで目を閉じて、ついでに手で目を覆う。

「ご、ごめんなさい。タオル、勝手に使っちゃって」

「いや、タオルはいいんだけど……」

なんで入ってきた。それが一番気になる。

「その、お泊まりさせてもらうから、なにかできないかなって、それで……」

「……それで?」

「それで、背中を流そうかなって」

晴我くんの、と顔を俯かせて言う。

「……」

なんも言えねぇ。

こっちは男子高校生だ。そりゃ洗って欲しい。いっそ全身洗って欲しい。こんなチャンス滅多にないのだから。けど今、洗ってもらったら絶対に理性が飛ぶ自身がある。確信している。

「……あー……遠慮、してお」

「なんで……?」

せめて最後まで言わせてください。

まるで俺がどう言うかわかってたように食い気味でいうじゃないか。

「やっぱり、あの女がいいの?」

「なわけないだろ」

即答した。これは間違いなく、自信を持って言える。

正直なところ、愛菜兎には恐怖心しかない。

「じゃあ、なんで遠慮なんてするの?」

正直に言いたくない。言えば恥ずかしさで死ねる自信がある。

「ねえ、教えてよ晴我くん。ねえ」

「いや、これはその、ほんとに言えない……」

「……」

今度は黙ってしまった。黙られるのが一番キツイんだけど。

「ほあっ!?」

情けない叫び声をあげてしまった。

愛菜之の胸がタオル越しに、背中に押しつけられたからだ。

「なにしてんのなにしてんのなにしてんの!?」

パニックになる俺に構わず、愛菜之はもっと強く押しつけてくる。

「……」

なんで黙ってんだよ!?どうすればいいかわかんないだろ!

焦りに焦り、体温が急激に上がるのがわかる。風呂に入ってるからってわけじゃない。

「……これでも私よりあの女のほうがいいの?」

「だから違うって!」

わかってくれ!察してくれ!

「わかんない。言ってくれなきゃわかんない」

俺の願いは虚しく、届かなかったようだ。

正直に言うか……?いや、言うしかないのか、この状況を脱するには。

「前にも、言ったよな」

「……なにを?」

言います、はい。もう諦めよう。

「俺は、お前が好きなんだよ!だから、こんなことされたら、お前にひどいことしそうになるんだってば!」

……ああーっ!

言った!言ったよ!言っちゃったよ!

この後このこと思い出してベッドの上で転げ回るやつだよ!

「ひどいことってどんなこと?」

そこを聞くのか!?俺に言わせるのか!?

殺す気!?愛菜之になら殺されてもいいけど!

「ねえ、どんなこと?」

目が怖い。見えてないけど怖いことに絶対なってる。

言うしかないのか……。

「……押し倒して、色々と、します……」

……あああああああっ!

なんでこんな拷問みたいなことされてんの俺。

俺なにか悪いことしたかなぁ……。

「……前に言ったよね」

「え?」

なにを言ったっけ?

ていうか、いつの時のことだ?今俺は感情の許容範囲を超えていてなにも思い出せない。

「晴我くんになら、なにをされてもいいって」

記憶が蘇る。

言ってたけど。そう言ってたけどね、俺はそんな度胸がないわけで。

「なんで?もしかして、信じてくれてないの?私の言葉」

「そういうわけじゃ、ない」

「じゃあなんで、そういうことしてくれないの?私が魅力的じゃないから?」

……ああ、もう!

怒りに内心舌打ちしながら

「お前を大切にしたいからだよ!」

そう叫んでいた。

「大切にしたいんだよお前のことを!お前との関係も!」

わかってほしいという思いを強く込めて言った。風呂では声が良く反響して、こだまするようだった。

そう言いきり、俺も黙ると、愛菜之も静かになった。

……わかってくれたのだろうか?

そう思っていると、愛菜之が腕を俺の前に回し、後ろから抱きしめた。

「……愛菜之?」

「……ごめんなさい」

わかってくれたのか、とホッと息を吐く。

「そう言ってくれて私、嬉しい。すごく、すごく嬉しい」

でも、と愛菜之が続ける。

「今は。晴我くんで、私を満たしてほしいの。お願い、晴我くん」

「……」

耐えろ、耐えるんだ俺の理性。こんなとこで飛ばされたりしないだろう。

「愛菜之……」

「晴我、くん」

縋り付くようなその声は十分俺の理性を壊すことができるものだった。だが。

感謝するよ愛菜兎。お前の顔がチラついて理性がかろうじて飛ばなかった。

「俺は、まだ、そういうことはできない。付き合って日も浅いし、それに今、その、そういうことをしたら、愛菜之の傷心につけ込むような感じがする」

それは嫌だ、と言う。

「……」

だから、と続ける。

「そういうこと以外なら、なんでもする。愛菜之が安心できるように、愛菜之が満たされるように、なんでも」

「……晴我くん」

「ごめん」

幸せな時に、もっと幸せにしてやりたい。そういう思いが強かった。

「じゃあ、体、洗わせて」

……なんでも、と言ってしまったからには、洗わせてあげないといけないのだろう。

「わかった」

ただ、条件がある。と俺はこれだけは譲れないことを愛菜之に言う。

「……俺の前に来ないでね」

さっきからとっても元気になってるんです。

俺の言いたいことを理解したのか、愛菜之は顔を少し赤らめて

「……うん」

と言ってくれた。唯一の救いである。



体を洗ってもらってる間、色々なことに耐えていた。愛菜之の裸が今すぐ目の前にあると思うと、やっぱり元気になってしまう。

だが首元を洗ってもらう時だけ、別のことを考えないといけなかったので耐える必要がなかった。

「……愛菜兎とのことだけど」

うん、と愛菜之が相槌を打つ。

「なにがあっても、俺は愛菜之と別れるつもりはないから」

……うん、と少し間を開けて返事がくる。優しい手つきが、さらに優しくなった、ように感じた。



風呂からあがった。

晩ご飯は俺が適当に作ったものを食べた。

晴我くんの手作り……!と愛菜之がなぜだか興奮してた。目を爛々と輝かせ、スマホのカメラを連写していた。

今日は色々あって疲れたので、さっさと寝ることにした。

「愛菜之は別の部屋で……」

そう言って愛菜之を俺の部屋とは別の部屋に案内しようとすると、部屋着の裾を掴まれた。

「いっしょに、寝よ?」

「……いや、でも」

たじろぐ俺に愛菜之は構わない様子で続ける。

「いっしょに、寝て?晴我くんの部屋で。言うこと、聞いてくれるんでしょ?」

「……わかりました」

今夜中、ずっと悶々とすることになるのか俺は……。

「せめて、俺は床で寝るってことには……」

「ダメ」

ですよねー……。

諦めて俺の部屋に、案内した。

「ここが、晴我くんの部屋……」

……そんなマジマジと見なくても。

あと、深呼吸しないで。

「なぁ、やっぱり俺は床で……」

寝る、と言い終わる前に俺のベッドに押し倒された。

「ぐえっ」

カエルみたいな声が出た。

そして愛菜之が馬乗りの状態で俺に覆いかぶさっている。

「……いっしょにねるの」

頰を膨らませて怒っている。少し涙目な表情はとても可愛かった。

……幼児退行してない?

「わかったわかった」

俺がおとなしくベッドに入ると愛菜之も入り込んできた。

「……ほんとに寝るのか?」

この期に及んで尻込みする俺に愛菜之が

「……あと一回同じこと聞いてきたら襲う」

と言って黙らせた。とてもたくましい彼女でなによりです。

電気を消して完全に寝る体勢に入る。

……うおぉ。いい匂いがする。女の子の匂いが。耐えられるわけない。

俺が逃げるように寝返りをうち、愛菜之に背中を向けた。

「こっちむいて」

……ダメですか。

襲われたくないのでおとなしく言うことを聞く。というかさっき言うことを聞くって言ったわけだし……。

言われた通り愛菜之の方を向くと、愛菜之も俺の方へ顔を向けていた。

向かい合う形になった。顔が近い。脚も手も少し動かすだけで触れてしまうほどに近い。

バクバクと全速力で鼓動を打つ心臓。さっきまで下半身に行っていた血は顔へと集まってきた。

愛菜之が俺の手をぎゅっと握ってきた。

俺を見つめていた愛菜之が、ふっと優しく笑った。

「あったかい」

とても安心した様子で、俺の手に自分の手を絡める。

恋人つなぎ、というやつだ。

手は今まさに、その状態で繋がれている。愛菜之が、俺の胸に顔をうずめる。

「安心する」

繋がれていない右手で、愛菜之の頭を撫でる。無意識の内に撫でていた。

俺に突然頭を撫でられても、俺を信頼してくれているのだろうか。愛菜之は驚いたりすることはなかった。




白い、どこまでも白い空間にいる。

ただ不安になることはない。むしろ安心する。心地良ささえ覚える。

いつまでもここにいてもいたいと思えるほどに、安心する場所だった。

だが、そこで違和感を覚えた。まず耳に。くちゅ、ちゅ、と変な音が聞こえる。

そして次に口に違和感を覚えた。

口内をかき回されている。

「……ん!?」

目が覚めた。そして目の前に愛菜之の顔があった。

キスをされていた。それも深いほうの。

「……んんっ!!」

いきなりのことでパニックになる俺をよそに、愛菜之は余裕をもった笑みで俺を見つめる。

「ぷはっ」

愛菜之が口を離す。俺と愛菜之の口に唾液の糸の橋がかかり、朝日に照らされた。

やっと解放されたかと思うともう一度唇を重ねてきた。

「んん!!」

息が続かない。死ぬ、死んでしまう。

本気でそう思っているとやっと口が解放された。

「……ぷはっ。おはよう、晴我くん」

幸せそうな顔をして朝の挨拶をしてくる。

「朝ごはん、できてるよ」

ふふっと笑って俺の部屋から出ていく。

ええ……。ただただ困惑だ。

俺がおかしいのかとさえ思えてくる。

まぁ、愛菜之が幸せならそれでいいんだけど……。


リビングに行くとできたての料理のいい匂いがしてきた。

「ほらほら、顔洗って。一緒に食べよ」

半覚醒の俺の肩を押して、洗面所まで連れて行く。

水の刺すような冷たさに、やっと俺は完全に目を覚ました。

「ああ……おはよう」

「おはよ、晴我くん」

かわいいなぁ……うん、かわいい……。

どこから出したかは知らないけどエプロンも似合っていて、まるで新婚になったみたいた。

「ごはん、あったかいうちに食べて食べて」

「ありがたくいただきます」

食材は自由に使っていいから好きなものを食べていいと言っていたのだが、まさか作ってくれるとは思ってもみなかった。幸せもんだなぁ……。

リビングのテーブルにはハムエッグとトーストがのった皿があった。

イスに座っていただきます、と言ってからそれらを食べ始める。

ふわふわのたまごと普段食べているものとは思えないほどジューシーなハム。美味しい、のだが……

「ふふふっ」

そんなマジマジと正面から食事を見られるとなぁ……。

「えっと、愛菜之さん」

「なぁに?晴我くん」

……言わないほうがよかろう。こんな幸せそうにしているのに。

「いや、なんかこうしてると新婚さんみたいだなぁって」

起きたばかりの頭では思っていたことをすぐに喋ってしまうようだ。

「……新婚さん?」

ほらね、愛菜之も引いてる。

「えへへ、えへへへへ」

違った、幸せそうにしてる。ホッとした。セーフ。

「えっと、それじゃあ」

愛菜之は少し恥ずかしそうに、けれど幸せそうにはにかみながら

「……あなた」

と言った。

思わず顔を手で覆う。

……うっわ。

かなり来るな、コレ。心に。

かわいいが過ぎるぞ。

こんな幸せな時間がずっと続けばいい。

そう考えていたが、現実はそう甘くはないようだった。


玄関のドアが突然開かれた。

「……!?」

「……!!」

愛菜之と俺は驚いた。この家に今、来る人間。それは一人ぐらいしか思い浮かばない。俺を本気で殺しに来たのかもしれない。

「……愛菜之、俺の部屋に隠れてて」

「で、でも……」

「急げ」

いっそ強盗の類の方がマシな気もする。

母さんはそのまま泊まり込みで仕事をしてから帰ると言っていた。この時間には帰ってこないはずだ。

「……」

家に入ってきた奴の足音がどんどん近くなる。

嫌な汗が俺の頰を流れる。

こちらから行くべきか……?

そう考えていると、バァン!とリビングのドアが開かれた。

「っ!」

突然のことに反応しきれなかった俺は侵入者にぶつかり、しりもちをついた。

「……なんで、ここに……!?」

驚いた。相手は、本来ここにいるはずの人物ではないのに。

その人物は、床にへたり込んでいる俺を見て、

「晴我〜!!」

そう言って、抱きしめてきた。


「……なんで、ここに……!?」

晴我くんの声が聞こえる。心底驚いてる声が。

どうしたのだろう。なにか、あったのだろうか?

私から、離れないで欲しい。私は、絶対に離さない。

晴我くんの部屋から出て、侵入者と対峙する。

「え?」

驚いた。侵入者は、女性だった。

そしてその女性は床に座っている晴我くんを抱きしめている。

「……そ、そんな、晴我くん……」

やだ、やだ、離れないで、離さないで。そんな、そんな女を、選ばないで。

「……え!?愛菜之!?」

「愛菜之?誰だそいつぅ?」

私に驚く晴我くん、私の名前を聞いて疑問に思う女性。

「あなたは、誰なんですか?」

「愛菜之!違うんだって!この人は……」

「君こそ誰だ?晴我のなんなんだ?」

その女性は晴我くんの言葉を遮って話す。

「私は、晴我くんの彼女です」

それを聞いた女性は、ピクリと、彼女という単語に反応した。

「彼女、だぁ?」

「はい、彼女です。晴我くんと一緒に寝ましたし、キスもいっぱいしました。彼女ですから」

「その情報いらないよね!?」

晴我くんがなにか言っているけど、この情報は重要なことだ。

この女性に私が晴我くんの彼女であるということをしっかりと証明できるのだから。

「……キスをした?一緒に寝た?」

私が言ったことを繰り返すその女性は、怒りを含んだ表情で、晴我くんをギュッと抱きしめて、こう叫んだ。

「そんなこと、お姉ちゃんは聞いていないぞ─────!!!!」

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