第3話「逃亡」

「さて、小枝さえ御前、駒王丸こまおうまる様、準備なされ。夜が深いうちに、人の目から離れたいのでね」


 齋藤は源氏げんしの影響がない、木曾きその地に、駒王丸と小枝さえを逃がすことに決めていた。


 齋藤は二人に視線を移す。

 人の生き死にに慣れていない小枝は、くちびるを震わせ動けないでいる。


ともえは行かないのか」

 駒王丸は齋藤にそう尋ねた。


「ふむ……」

 齋藤はともえを見る。

 齋藤の見る限り、なんにもないよう振る舞ってはいるが、ともえは手負いだ。

 蹴りを食らう瞬間、体をよじるなりして上手く急所をずらしたのだろうが、肋骨の数本は折れているだろう。


 箱入りで育った女ひとり、よわいわずかな子どもをひとり。

 そこに手負いの女児が一人増えて、木曽までのみちを自分一人で守り切れるのかと齋藤は考えた。

 木曽路はすべて山の中である。

 敵は人ではなく、獣と大自然である。


駒王丸こまおうまる様。ともえは貴方を守るという役目を終えました。休ませてあげましょう。ここから貴方を守るのは、某の役目になりますゆえ」


 齋藤の言葉に、駒王丸こまおうまるは頷く。


「わたしも行く」

 ともえがそう口を開く。

「わたしが駒王丸こまおうまる様を守る」


「子どもが無茶を言うものではない。呼吸をするだけで痛いはずだ。山道は無理だ。心配せんでも某がお前の役目を」

「行く」

 齋藤の言葉を遮り、ともえがそう繰り返す。


「なにゆえ、童女のお前がそこまでの使命感をもつ」


 そう尋ねる齋藤に、ともえは黒々しい瞳を向け、こう言った。


「この身、駒王丸こまおうまる様に捧げたがゆえに」


 見た目にも若干5歳ほどの少女である。

 斎藤は、何がそこまでともえに覚悟をさせているのか、巴の瞳からは何もうかがえなかった。


 しかし、斎藤はのちに知ることになる。

 巴が負った使命を。

 そこにある運命を。

 それは、実に10年ものちのことだ。


………………


齋藤の言うとおり、木曽路きそじは山の中にあった。

だが、木曽路に続く秩父ちちぶの道すらもまた、山の中にある。


 昼は青々した緑の葉も、すみをたらしたように黒く染まる。

その葉が、三日月から放たれるわずかな月明かりをさえぎり、4人の体は黒と同化してしまっている。


 その4人とはもちろん、木曽義仲きそよしなか駒王丸こまおうまる)、その母である小枝さえ、幼い女中のともえ、それを手引きする齋藤実盛さいとうさねもりである。


 しかしこの闇が、この4人の逃走を、追っ手から守っている。


「齋藤どの、あの動物はなんだ。不思議な声で鳴く」


 駒王丸は、齋藤の胸に抱かれながら、指をさし質問している。

 幼児は本能的に暗闇を恐れるものだ。

 駒王丸は、恐れるどころか好奇心を隠しきれない様子で、齋藤に尋ねる。


「ほう、あれが見えなさるか」

 齋藤が顔を上げ、感心してそう答える。

 淡い三日月が、フクロウの輪郭を薄く示す。

 

「あれはフクロウという鳥。おもに夜に活動いたす」

「あのような姿で、空を飛ぶのか」

「ずんぐりな姿ですが、あれでなかなかの翼を持っているのです。獲物をとらえる力は驚嘆に値します」

「そうか。見てみたい」


 そう言うやいなや、ふくろうが翼を広げ滑空した。

 駒王丸の見てみたいと口にした瞬間であったため、不思議なことがあるものだと齋藤は思った。


 しかし、驚くべきことはこのあとにあった。


 ふくろうが、こちらに向かってくる。

 齋藤はとっさに剣を抜こうとした。

 野鳥が人を襲うことはままある。


「齋藤どの。大丈夫だ」

 駒王丸に言われ、齋藤の手が止まる。

 その間に、フクロウが肩に止まった。

 フクロウの口には、すずめの幼鳥が加えられている。


「くれるそうだ」

 駒王丸が両手を差し出すと、フクロウがその中に雀を離した。

 フクロウはすぐに飛び立っていった。


「駒王丸様は、動物と会話することができるのか?」

 齋藤が驚きを隠せず、そう尋ねる。

「会話はできぬが、伝わってくるだろう?」

 長らく馬の世話をしていると、馬の言わんとすることが分かるということはある。

 それが野生の動物で、初見でそのようなことをする。

 幼児特有の能力と片付けるには、あまりに希有けうな例に見えた。




「あっ」

 小さい叫び声が聞こえた。

 小枝の声だ。


「小枝御前、どうなされた!?」

 後ろからついてきてるはずの小枝に、斎藤が呼びかける。

 声からすると、斎藤が思っていたよりも離れていた。



「なんでもありません。少し、踏み外しました」

 息が切れた声で、そう答える。



 月明りが出ているが、鬱蒼うっそうと茂る枝葉が、足下を隠す。

 小枝さえは恐怖を感じ、力強く足を踏み出せない。

 

 当然だ。

 道とはいえ、獣道。

 落石などそのまま岩がむき出しであるし、そこら辺に木の根っこが張り出している。

 下手に踏み込めば転ぶ、足をくじく、最悪の場合は滑落かつらくする。

 滑落すれば、ただでは済まないだろう。


 恐怖は地形に留まらない。


 野鳥の鳴き声が聞こえる。

 獣の息遣いが聞こえる。

 たまに訪れる静寂も、それがより一層想像を掻き立てさせてしまう。


 かわいげのあるフクロウの声も、夜目が効かない小枝にとっては、恐怖でしかない。


(今からでも平地を行くべきか)

 斉藤がそう思案する。


 このままでは、木曽に着くまでに何日もかかる。

秩父にも平地はある。

 北に迂回するか。


 そうは思うが、どこまで敵方が占拠しているか分からない。

今の武蔵国(埼玉、東京、神奈川の一部)は、危うい。


 普通に考えれば、このような山道は、女、子どもが通る道ではない。

 だがらこそ、敵の意表をつける。

 それに、木曽への最短に通じる。

 やはり、安全は山の中にある。

 せめて甲斐国かいのくに(山梨)まで抜ければ、敵の追っ手を気にせずに平地を移動できる。


 ここは、小枝御前にある、母としての強さに賭けよう。

 斉藤はそう結論付けた。


「やあやあ、今日はお月様が夜道を照らしなさる。やはり、駒王丸様は神に愛されたお方だ」

 齋藤はのんきにそんなことを言う。

当然、小枝を励ますためだ。

 小枝はくすっと笑った。


「ええ。あの方の御子ですから」

 息を切らすのを隠せないまま、小枝はそう答える。

は、父君と母君の子だ」

 駒王丸がそう答えるので、小枝と斎藤は声をあげて笑った。


「利発な子ですな」

 斉藤がそう言うと、

「ありがとうございます、斎藤殿。おかげで体が軽くなりました」

 小枝の返事に、強いお人だと斎藤は思った。

「なんの。それがしの言葉でお体が軽くなるのであれば、そんな光栄なことはございません」

 ふふ、と小枝はまた笑う。



 しかし。

 斎藤は思った。

 驚くべきは、ともえと呼ばれる童女わらべだ。


 それもそのはず。

 巴は、斎藤の前を迷いもなく突き進んでいる。

 

 今は、後ろを振り返り、談笑している3人をじっと見つめている。

 斉藤は駒王丸を抱え、小枝さえを気にしながら進んでいるとはいえ、まったく遅れをとらない。どころか、前を進んでいる。

女児であの速さは異常だ。


 身長は3尺もない。

 張り出した木の根を越えるにしても、大人であればまたげるくらいの高さでも、巴の胸くらいある。

 その運動量は、斎藤らの比ではない。

 

 その巴が、息を乱さずについてくる。

 胸くらいあろうが、頭より高かろうが、猿のように手足をうまく使い、枝や岩をつたいながら移動する。

 それどころか、駒王丸たちを気づかい、落ちた枝や石など、障害になりそうなものを除けているのだ。


 こんな夜道で、しかも巴は手負いである。

 常軌を逸していると言っても良い。


(この童女わらべはやはり、神の化身けしんやもしれない)

 斎藤にとっても、この山道は恐ろしいものである。

巴に心強さを感じるとともに、そら恐ろしさを感じた。


 立ち止まりこちらを見ていた巴が、こちらに向かって引き返し始めた。

 こちらを気になったのかと斎藤は思い、巴のほうに歩き出す。

 それでも巴は歩みを止めず、斎藤の目の前まで来た。


「斎藤どの。いのししの声が聞こえる」

 ずっと黙っていた巴が口を開く。


「なんと」

 巴に言われ、斎藤は耳をすます。

 はたして、猪の息遣い、足音が聞こえた。

 近い。


「猪……!」

 小枝は息をのむ。


 猪は、田畑を荒らす害獣である。

 駆除しようした人間が、猪の被害に遭い、命を落とす話はよくある。

 猪は500斤(350kg)ほどあり、人の何倍もの速度で走る。

 当たればひとたまりもない。

 猪に当たり、太ももが破裂し失血して死ぬ者を、斎藤は見たことがある。


「大丈夫です。落ち着いて、鈴を鳴らしながら離れましょう」

 斎藤がそう言うと、

「音を鳴らすのですか? こちらの場所が分かって、襲ってくるのではないですか?」

 小枝は脅えながら、そう聞いてくる。

「猪が人を襲うのは追い詰められたときだけ。人間の気配を察すれば、向こうから離れていきまする。猪は、人に対して臆病な生き物なのです」

 斎藤は鈴を鳴らそうとする。


 その手が止まった。

「いや、今日は猪鍋ししなべとしゃれこみましょう」

 斉藤はそう思い立った。


 よくよく考えれば、せっかくの獲物だ。

 食べられるうちに食べたほうが良い。

 道中はまだ長い。


「暗いぞ、斎藤。無理だ」

 巴が口を開く。

 斉藤はにやりと笑った。


「神の化身である巴殿にも、ようやく子どもらしい姿が見えましたな。狩猟の先祖を持つ、この斎藤の腕をとくとご覧あれ!」






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