第3話「逃亡」
「さて、
齋藤は
齋藤は二人に視線を移す。
人の生き死にに慣れていない小枝は、くちびるを震わせ動けないでいる。
「
駒王丸は齋藤にそう尋ねた。
「ふむ……」
齋藤は
齋藤の見る限り、なんにもないよう振る舞ってはいるが、
蹴りを食らう瞬間、体をよじるなりして上手く急所をずらしたのだろうが、肋骨の数本は折れているだろう。
箱入りで育った女ひとり、
そこに手負いの女児が一人増えて、木曽までの
木曽路はすべて山の中である。
敵は人ではなく、獣と大自然である。
「
齋藤の言葉に、
「わたしも行く」
「わたしが
「子どもが無茶を言うものではない。呼吸をするだけで痛いはずだ。山道は無理だ。心配せんでも某がお前の役目を」
「行く」
齋藤の言葉を遮り、
「なにゆえ、童女のお前がそこまでの使命感をもつ」
そう尋ねる齋藤に、
「この身、
見た目にも若干5歳ほどの少女である。
斎藤は、何がそこまで
しかし、斎藤は
巴が負った使命を。
そこにある運命を。
それは、実に10年も
………………
齋藤の言うとおり、
だが、木曽路に続く
昼は青々した緑の葉も、
その葉が、三日月から放たれるわずかな月明かりを
その4人とはもちろん、
しかしこの闇が、この4人の逃走を、追っ手から守っている。
「齋藤どの、あの動物はなんだ。不思議な声で鳴く」
駒王丸は、齋藤の胸に抱かれながら、指をさし質問している。
幼児は本能的に暗闇を恐れるものだ。
駒王丸は、恐れるどころか好奇心を隠しきれない様子で、齋藤に尋ねる。
「ほう、あれが見えなさるか」
齋藤が顔を上げ、感心してそう答える。
淡い三日月が、フクロウの輪郭を薄く示す。
「あれはフクロウという鳥。おもに夜に活動いたす」
「あのような姿で、空を飛ぶのか」
「ずんぐりな姿ですが、あれでなかなかの翼を持っているのです。獲物をとらえる力は驚嘆に値します」
「そうか。見てみたい」
そう言うやいなや、ふくろうが翼を広げ滑空した。
駒王丸の見てみたいと口にした瞬間であったため、不思議なことがあるものだと齋藤は思った。
しかし、驚くべきことはこのあとにあった。
ふくろうが、こちらに向かってくる。
齋藤はとっさに剣を抜こうとした。
野鳥が人を襲うことはままある。
「齋藤どの。大丈夫だ」
駒王丸に言われ、齋藤の手が止まる。
その間に、フクロウが肩に止まった。
フクロウの口には、
「くれるそうだ」
駒王丸が両手を差し出すと、フクロウがその中に雀を離した。
フクロウはすぐに飛び立っていった。
「駒王丸様は、動物と会話することができるのか?」
齋藤が驚きを隠せず、そう尋ねる。
「会話はできぬが、伝わってくるだろう?」
長らく馬の世話をしていると、馬の言わんとすることが分かるということはある。
それが野生の動物で、初見でそのようなことをする。
幼児特有の能力と片付けるには、あまりに
「あっ」
小さい叫び声が聞こえた。
小枝の声だ。
「小枝御前、どうなされた!?」
後ろからついてきてるはずの小枝に、斎藤が呼びかける。
声からすると、斎藤が思っていたよりも離れていた。
「なんでもありません。少し、踏み外しました」
息が切れた声で、そう答える。
月明りが出ているが、
当然だ。
道とはいえ、獣道。
落石などそのまま岩がむき出しであるし、そこら辺に木の根っこが張り出している。
下手に踏み込めば転ぶ、足をくじく、最悪の場合は
滑落すれば、ただでは済まないだろう。
恐怖は地形に留まらない。
野鳥の鳴き声が聞こえる。
獣の息遣いが聞こえる。
たまに訪れる静寂も、それがより一層想像を掻き立てさせてしまう。
かわいげのあるフクロウの声も、夜目が効かない小枝にとっては、恐怖でしかない。
(今からでも平地を行くべきか)
斉藤がそう思案する。
このままでは、木曽に着くまでに何日もかかる。
秩父にも平地はある。
北に迂回するか。
そうは思うが、どこまで敵方が占拠しているか分からない。
今の武蔵国(埼玉、東京、神奈川の一部)は、危うい。
普通に考えれば、このような山道は、女、子どもが通る道ではない。
だがらこそ、敵の意表をつける。
それに、木曽への最短に通じる。
やはり、安全は山の中にある。
せめて
ここは、小枝御前にある、母としての強さに賭けよう。
斉藤はそう結論付けた。
「やあやあ、今日はお月様が夜道を照らしなさる。やはり、駒王丸様は神に愛されたお方だ」
齋藤はのんきにそんなことを言う。
当然、小枝を励ますためだ。
小枝はくすっと笑った。
「ええ。あの方の御子ですから」
息を切らすのを隠せないまま、小枝はそう答える。
「
駒王丸がそう答えるので、小枝と斎藤は声をあげて笑った。
「利発な子ですな」
斉藤がそう言うと、
「ありがとうございます、斎藤殿。おかげで体が軽くなりました」
小枝の返事に、強いお人だと斎藤は思った。
「なんの。
ふふ、と小枝はまた笑う。
しかし。
斎藤は思った。
驚くべきは、
それもそのはず。
巴は、斎藤の前を迷いもなく突き進んでいる。
今は、後ろを振り返り、談笑している3人をじっと見つめている。
斉藤は駒王丸を抱え、
女児であの速さは異常だ。
身長は3尺もない。
張り出した木の根を越えるにしても、大人であれば
その運動量は、斎藤らの比ではない。
その巴が、息を乱さずについてくる。
胸くらいあろうが、頭より高かろうが、猿のように手足をうまく使い、枝や岩をつたいながら移動する。
それどころか、駒王丸たちを気づかい、落ちた枝や石など、障害になりそうなものを除けているのだ。
こんな夜道で、しかも巴は手負いである。
常軌を逸していると言っても良い。
(この
斎藤にとっても、この山道は恐ろしいものである。
巴に心強さを感じるとともに、そら恐ろしさを感じた。
立ち止まりこちらを見ていた巴が、こちらに向かって引き返し始めた。
こちらを気になったのかと斎藤は思い、巴のほうに歩き出す。
それでも巴は歩みを止めず、斎藤の目の前まで来た。
「斎藤どの。
ずっと黙っていた巴が口を開く。
「なんと」
巴に言われ、斎藤は耳をすます。
はたして、猪の息遣い、足音が聞こえた。
近い。
「猪……!」
小枝は息をのむ。
猪は、田畑を荒らす害獣である。
駆除しようした人間が、猪の被害に遭い、命を落とす話はよくある。
猪は500斤(350kg)ほどあり、人の何倍もの速度で走る。
当たればひとたまりもない。
猪に当たり、太ももが破裂し失血して死ぬ者を、斎藤は見たことがある。
「大丈夫です。落ち着いて、鈴を鳴らしながら離れましょう」
斎藤がそう言うと、
「音を鳴らすのですか? こちらの場所が分かって、襲ってくるのではないですか?」
小枝は脅えながら、そう聞いてくる。
「猪が人を襲うのは追い詰められたときだけ。人間の気配を察すれば、向こうから離れていきまする。猪は、人に対して臆病な生き物なのです」
斎藤は鈴を鳴らそうとする。
その手が止まった。
「いや、今日は
斉藤はそう思い立った。
よくよく考えれば、せっかくの獲物だ。
食べられるうちに食べたほうが良い。
道中はまだ長い。
「暗いぞ、斎藤。無理だ」
巴が口を開く。
斉藤はにやりと笑った。
「神の化身である巴殿にも、ようやく子どもらしい姿が見えましたな。狩猟の先祖を持つ、この斎藤の腕をとくとご覧あれ!」
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