第10話 ♯6

「ターゲットが枝に引っかかった」


 ガスランプに薄暗く照らされたエイダは出始めにそう言った。枝とはつまり監視の網。我々、秘密警察の優秀な諜報員がついにあのオートマタの動向を掴んだらしい。だが、どうにも喜ぶ状況ではないように思える。


 あの手紙。


 オートマタから受け取った手紙には、私を指名している節がある。それが何を意味するのかは分からないが、このままあのオートマタを捕えて全てを終わらせてもいい。だが、明かされていない事実を残したまま、短絡的に解決へ急ぐことはプロの諜報員のすることではない。事態はあくまで紳士的に運ぶことが好ましい。


「・・・」


 私が沈黙していることを察して、エイダは静かにため息を吐く。肩をいからせ、目を閉じてからヤレヤレというジェスチャー。


「何か事情が変わったのかしら」


 手紙の件を説明すると、エイダは開いた目をまた閉じて、今度はさっきよりも深くため息を吐いた。


「それで、私はどうしたらいいの」


 話が早くて助かる。私がエイダを信用する大きなポイントだ。


「会いに行ってみようと思う。君は私とオートマタを監視、援護を頼みたい」


「デートの申し出を受けるのね。ほんと、見境いのない男」


「あくまで紳士的にだよ、ミス・エイダ。相手がオートマタでも女性であるならエスコートしないとね」


 エイダは額に手を当てた。彼女は私のわがままに嫌な素振りはすれど、決して断らない。私が無駄なことはしないと彼女は知っている。


「ハイライン卿は知っているのかしら」


「できる限り内密に頼む。そのために2つばかり、保険が必要になりそうなんだ」


「その一つが監視と援護ね。それで、もう一つは?」


「ある時期をもって、ジャケドロー博士を連れてきてくれ」



 ※




 ひしめく雑踏と大悪臭。ロンドンは今日も変わらず混沌の渦中にある。灰色に霞がかった街の裏では絶え間なく歯車が回り続け、蒸気の熱と石炭の煙が立ち上る。その都度ごとにテムズ川では不要な工場廃液が垂れ流され、環境の悪化は止まることを知らない。人々の足並みも、汚染が深刻化してから随分減ったように思う。金のある人間は既にロンドンから立ち去り、自前の別荘に移り住んでいる。まだロンドンにいる人は、ここに残らなければならない理由のある人間か、移住する金など持っていない者だけだ。どうしようもないほどの汚染の濃霧が街に立ち込めたとき、ロンドンは昼間といえどいよいよ人が出歩かなくなる。皆、怪しげなマスクで口周りを覆い、霧が晴れるまで家の中でやり過ごすのだ。今日は幾分マシではあるが、空気が喉に引っかかるような嫌な気分は拭えない。今日とて人は少ない。だから容易に彼女を見つけた。

 ワーテルローブリッジの差し掛かりにあのオートマタはいた。側から見れば待ち合わせをしている淑女にも思えるが、日傘も差さず、身じろぎ一つしない姿はどうしようもなくオートマタのそれであり、彼女が人間を模した歯車であることを忘れさせてくれない。やれやれ。彼女が人間であれば素敵な1日にできただろうに。たとえそれが任務であっても、私には女性を満足させられる自信があった。いつでも引き抜ける位置にリボルバーを忍ばせて、私は彼女の前に立つ。


「こんにちは、ミス。少しばかり待たせてしまったかな」


 と、知り合いとの待ち合わせを装ってみる。勿論、彼女はオートマタだから私の声は聞こえないし、彼女も言葉を発しない。意思の疎通はできないと、ジャケドロー博士は言っていた。


「・・・」


 彼女は何も言わない代わりに手に持つ紙切れを私に渡した。それを受け取って広げて見ると、新聞の切れ端がまるで切り絵のようにして貼り付けられている。新聞紙のスペルを一文字ずつ切り取り、メッセージを作ったようだ。気の遠くなる作業を思い浮かべてしまい、思わず立ちくらみを覚える。なるほど、オートマタに執筆や会話の機能はない。だからこうして一方的な会話をするのか。私は素直に驚き、感激していた。その涙ぐましい努力の結晶でできたメッセージを眼で拾っていく。


 ”こんにちは、ドウセット卿。私は♯6よ。私が何なのかは既にご存知のはず。私の目的は、一度だけでいい。安全にグレッグに会いたい。けど貴方は私がグレッグに危害を加えるんじゃないかと心配しているはず。だから今日一日、私を近くで見て、私が安全なオートマタか、危険な存在かを見極めて欲しいの。もし危険だと判断したなら、破壊してくれて構わない。でももし安全だと感じたなら、私をグレッグに会わせて。なぜ貴方を選んだのか。それは貴方がとっても紳士だから。貴方は私をオートマタじゃなく、一人の女性として扱ってくれるはず。だから私も精一杯、可憐な乙女として振る舞うわ。だって私はそのように作られているのだから。準備が良かったら私の手をとって“


 目を上げれば、やはりそこには物言わぬ彼女。私の紳士的な精神を見抜いた彼女にはそれ相応の敬意を表さなくては。あまりにも童話めいた出来事に、自然と笑みがこぼれてしまう。手紙には彼女からジャケドロー博士への想いが綴られていた。女性の想いを端々まで見通すような趣味はない。早々に手紙から眼を逸らし、私はそっと彼女の手をとった。


「参りましょうかミス。美味しい紅茶をご馳走いたしましょう」


 そんな言葉や紅茶が届くはずもないのだが、無言で手を引いてしまえば、周りから奇異の目で見られかねない。ともあれ、私と彼女を監視しているエイダが寄越した諜報員は、このやり取りを見て心底不気味に思っただろう。やれやれ。あとで誤解を解かないと。

 手を取ることが合図だったのか、彼女はおもむろに歩き始めた。どうやらエスコートは彼女がしてくれるらしい。いったいどこへエスコートしてくれるのか。と思ったのもつかの間、彼女は急にその場にしゃがみ込んだ。突然の出来事につい足をとられそうになる。物珍しげに視線を落とす彼女の先には一匹の猫。その訝しげな眼は、私が彼女へと向ける好奇心に似ていた。とはいえこれも、そう見えるようにパンチカードに刻まれた、リアルタイムに読み込まれ続けている演算結果に過ぎないということを忘れてはいけない。これを組み上げたジャケドローには賞賛を与えたい。彼女ははまさに、猫を愛でる淑女の振る舞いだった。ジャケドローが費やした、人の行動や反応といった意識のアルゴリズムを記録し続けるという研究は、大いに成果があったと言える。


「ミス、猫がお好きで」


 私の問いかけも、雑踏と大悪臭へと溶けてゆく。物言わぬ歯車装置が見せる、昼下がりの淑女の演算結果。どうにも幻想的な光景だが、これが現実として生起しているという事実に目眩がする。ここはもう、昔ではなく今なのだ。目まぐるしく変化する、技術が噴流した変動の街。科学が宗教、生活、愛の形すらも変えていくというクラウディアの言葉を思い出した。私の眼前で猫を見るように振る舞うこのオートマタが、私とハイライン家をどう飲み込んでいくのか。


 私を、クラウディアを。ハイライン家をどう変えていくのか。


「・・・」


 ♯6は猫に指をさしてこちらを見ていた。飼いたいのか。そもそもこれは何なのか。どうした意図でこの行動をしたのか知るよしもない。そもそも意図と言っていいのだろうか。彼女の行動を私は好きに解釈するしかなかった。いや、好きに解釈することができるというべきだろうか。それがどうにも蠱惑的に私を動揺させた。ジャケドローのオートマタへの傾注ぶりはフェティシズムに近いとエイダは言っていたが、どうにもそれは私の想像以上のようだ。


「・・・」


 彼女は再度、無言で歩き始めた。露店から露店へ、色が押し合う雑貨の嵐に想いを耽れば、建物の先端にある尖り越しの陽光へと手をかざし、日傘を持たない健康的な魅力が彼女の歯車を曖昧にしていく。理想が現実へと組み込まれ、混じり、オートマタであることを忘れ、景色が、認識が、他者には見えない細かな差分の塵が積もり、やがて離れていく。

 現に道行く人々はこのオートマタを奇異な目で見ていなかった。警戒心を解いていない私にはこの光景が酷く歪に感じていたが、ロンドンを歩く彼女を見続けているとそれも消えた。

 歯車装置の見せる夢。彼女は現実としてそこにあり、私に理想を見せている。



 ※



 日も傾きはじめたころ、私は彼女とオープンカフェの椅子に座りながら西日に照らされていた。机の上には紅茶。紅い水面に揺れる太陽。機械の乙女は空に浮かぶ太陽と、紅茶に沈む太陽を交互に見つめては、空っぽな表情を携えるだけだった。そして初めて会ったときと同じように、メッセージを記した紙切れを私へと寄越した。デート中に新聞紙からスペルを切り抜くことはしていないところをみると、どうやら私と会う前から全て準備済みだったらしい。


“今日は本当にありがとう。まだ私が破壊されていないということは、あなたはやっぱり私が思った通りの紳士だったのね。私の望みは変わらない。グレッグに会わせて。そしてこの手紙を直接わたしたいの。それが叶ったら、あとはどうしてくれても構わない。破壊されてもいい。だから、ね。お願いよ”


 彼女はグレッグにわたすための手紙を私へ差し出した。


 政治の陰謀、企業の策略。


 そんな世界の裏側ばかりを見てきた私にとって、目の前で起きているこれはあまりに摩訶不思議。歯車が織り成す幻想が見せる陽炎でありながら、私は心を揺さぶられていた。脳裏にチラつくのは、ハイライン家ご令嬢の安寧。つくづくジャケドローの技術が優れていることを思い知らされる。一途な彼女に、私はいつのまにか気持ちを重ねていた。彼女がジャケドローを想うように、私もまた、クラウの未来を憂いていたから。そんな機械の乙女が少しでも幸福であるように、助力してみてはどうか。かつて持っていたかもしれない青臭い正義感が、栓を吹き飛ばす腐敗したガスのように溢れ出してきた。

 くだらない。だが見てみたい。彼女の最期が、私の最期であるように感じたから。


「分かりました、ミス♯6。確かにこの手紙は、あなたが直接ジャケドロー博士に手渡すべきだ。博士の元へ案内しましょう」


 彼女の手を引いて立ち上がったときだった。4人。いや5人か。エイダが用意してくれた秘密警察の諜報員とは違う人間の監視を感じ取る。


「人気者ですね、ミス。少し急ぎましょう」


 おそらく援護してくれている同胞たちも敵に勘づいたはずだ。今頃どこから見ているのか探ってくれているだろう。一層と人が多い通りへと出たが、日が沈み始めたせいか昼間よりも人が少ない。人混みに紛れてやりすごしたかったのだが。怪しい気配はさっきよりも近くなっていた。徐々に距離を詰められている。いつ走り出すかを迷っていたとき、背後に1人、男が近づいてきた。


「秘密警察です」


 帽子を深めにかぶった男が私の耳元で囁いた。


「合言葉を」


「グレート・ブリテンに栄光を」


 味方しか知らない合言葉を確認し、ここまで引いてきた彼女の腕を諜報員に受け渡す。


「彼女の腕を引くのが了承のサインだ。急いでくれ」


「了解」


 諜報員に引っ張っていかれる彼女がこちらを見る眼は不安気に見えたが、信じてくれと言う他ない。さて、あとはどうやって時間を稼ぐかだが。

 しかしそんな思案を振り払う、強力な衝撃が不意に体中を疾った。数万の微細な衝撃の奔流が脇腹を抉り、背骨を伝って脳天へと駆け、網膜の裏側を沸騰させた。景色の色は白黒に点滅し、筋肉が硬直して立つことさえおぼつかない。私はその場に膝から崩れ落ち、傾いた街を眺めながら意識を失った。

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