第9話 夕暮れに浮かぶロンドン

「なるほど。機械の愛ですか」


 クラウディアはロンドンの地平線に焼ける夕日に眼を細めた。夕暮れに燃えるロンドンの街は昼間にピークを迎えるテムズ川の大悪臭も多少の収まりを見せていた。

 コインをかき集める大道芸人。乗馬したボウストリートの警官たち。街娼達がちらほらと姿を見せ初め、遠くから品定めをする者。ロンドンは今日も活気がある。


「オキタ様はどうお考えで」


 クラウディアは少し後ろを歩くオキタに尋ねた。その絶妙な位置は流石“さむらう者”といったところだ。


「特にはありません。女王陛下、ハイライン家に仇なすのであれば斬るだけです」


「立派な心がけです。貴方はあくまで戦士として生きるのですね」


 クラウディアの発言にオキタは言葉を詰まらせた。


「そうなのでしょうか。あまり深く考えたことがありません故、何卒」


 オキタを街に連れ出そうと言ったのはクラウディアだった。人を、街を、食事を、大悪臭も含めて等身大のロンドンを感じて欲しいらしい。産業革命の先に待っているめざましい発展と、空気とテムズ川の汚染。もし日本がブリテンの後を追うのならば、起こりうる弊害も知るべきだと判断したのだろう。


「ジェイ、貴方は機械の愛を受け入れるかしら」


「想像できませんね。なに分、機械の乙女に口説かれたことはありませんので」


「あら、では今のうちに口説かれたときの言い訳を考えておきませんとね」


 クラウのイタズラめいた笑顔が夕日に溶けて美しい。後ろを歩いていたオキタはいつのまにか露店の前で立ち止まっていた。どうやら洋菓子が珍しいらい。


「科学が我々の生活、宗教すらも変化させていくなか、我々の愛もまた、科学によって変化していくことに何の疑いがあろうか」


 唐突にクラウディアはそんな言葉を放った。


「何ですそれは」


「とある書物の言葉よ、ジェイ。科学は私たち生活を、価値基準すらも変えていくわ。愛だけが変わらずにいられる保証なんてどこにもないでしょ」


 話すクラウディアの姿が美しくも朧げで、手で掴もうとするとそれは蜃気楼で、今にも消えてなくなりそうになる。


「ジェイ、私のこの想いもいつか変わってしまうのかしら」


「・・・」


 私は答えられず、沈黙した。女性を待たせるのは私の性分ではない。だがそれがハイライン家のお嬢様となると話は別だ。


「百戦錬磨のジェイムスン・ドウセットでも、私のお相手は難しくて?」


「クラウ、あまり私をいじめないでほしいのですが」


「そうね。今日はこの辺りで許してあげましょう」


 いったい何を許してくれるというのか。そう言うクラウディアは嬉しそうだ。彼女が上機嫌なのは私としても喜ばしい。オキタはまだ洋菓子と睨めっこをしていた。仕方なく彼女の後を今度は私が追っていく。

 背中に突然の振動。振り返ると私の背中にぶつかった反動で少女が尻もちをついていた。なにを急いでいるのやら、私は至って紳士的に手を差し伸べる。しかし少女は何も言わずに走り去っていった。やれやれ、無言でフラれたのは久しぶりだ。少女が尻もちをついたところには一枚のカーチーフが落ちていた。さっきの衝撃で落としたのだろう。それを拾うとはらりと紙切れがカーチーフから滑り落ちた。紙も拾い上げ、他には何も落ちていないか確認するために紙を広げる。


“ワーテルローブリッジで待つ”


 切り絵のように紙で組み合わされたアルファベットはそう綴られていた。

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