第51話 記憶の固執
彩の姿は消えてしまったが、意識はまだ、かすかに残っていた。
ほとんどの記憶は失われた。しかし、わずかに残った記憶がある。鬼神が彩に語った明日香と咲紀の話である。
明日香は、鬼神への愛を貫いた。鬼神が感染しても、一緒になることを決してあきらめなかった。鬼神がスリーパーになっても、子供を持つ夢を決して捨てなかった。
自分は、そこまで強い意志を持つことはできるだろうか?
「でも、彩がその奥さんの代わりになる必要はないでしょ?」
母親の言葉を思い出した。では、自分は鬼神のために何ができるのだろうか?
かつて、休憩時間に明日香としていた他愛もない会話が頭に浮かんだ。
「私は、彩さんがうらやましいわ」
「えっ、どうしてですか?」
「私って、人を萎縮させてしまうみたいなの。この間も、茜さんの原稿を校正していたとき、彼女すごく緊張していたみたいでね」
「茜さんは元々そういうタイプですし、大先輩の前ですから、萎縮するのも当然じゃないですか?」
「でも、彩さんの前では、そんなことないでしょ?」
「それは、私がなめられているからです」
彩は照れ笑いしながら率直に答えた。
「そんなことないわよ。彩さんの前では、皆すごく明るくて楽しそうに見えるの。きっと、あなたの持って生まれた資質ね」
「資質ですか・・・」
「あなたをお嫁さんにしたいって人、結構いるのよ」
「本当ですか? 例えば誰が?」
「企画部の桜井君とか」
「ああ、あいつ、いつも私をからかうから嫌いです」
「それって、好きの裏返しで意地悪するのよ、きっと」
「そんな、子供じゃあるまいし」
彩の言葉に、明日香は口に手を当てて笑った。
「ふふっ、でも、あなた、いいお嫁さんになれるわよ、きっと」
自分は、明日香の代わりにはなれない。彼女ほどの強い意志を持つこともできない。しかし、自分には明日香にはない資質を持っている。鬼神は、彩のそんなところに惹かれたのだろうか。
鬼神の顔が記憶に蘇る。今はただ、鬼神にもう一度逢いたかった。このまま消え去りたくはない。
麻子やドナ、両親の顔を思い出す。桜や八千代、白鳥、モニカとフィオナ、そして竜崎の顔。次々と、頭の中に浮かんでは消えていく人々の姿。
なくなったと思っていた自分の姿が元に戻っている。あの黒い塊はもはやどこにもいない。記憶は完全に復活した。今は、白く光る暖かい空間の中を漂っている。
少し離れた場所に、誰かが立っている。大人の姿と子供の姿の2人だ。彩は、その姿を見て思わず叫んだ。
「木魂先輩!」
それは明日香の姿だった。しかし、服装が高校生の制服である。顔もまだ幼い。高校生時代の明日香だろうか。
隣にいる女の子は、今まで会ったことがないが、すぐに明日香の娘、咲紀だと彩には分かった。顔は明日香そっくりだが、瞳の色は鬼神と同じ赤銅色。その目で彩を見て微笑んでいる。
「彩さん、これから鬼神君をよろしくね」
明日香が彩に話しかけた。彩は、明日香が生きて目の前にいることに驚いて、声を出すことができない。
「鬼神君は、ずっと私達の亡霊に悩まされてきたの。それが心配で、私達はずっと旅立つことができませんでした。でも、これからは、あなたが鬼神君を癒やしてくれるわ」
「木魂先輩、行ってしまうのですか?」
彩は涙を流した。
「それが定めだもの。別れるのは辛いけど、またいつか、会うことができるから。鬼神君には、生きている間、すごく幸せでしたと伝えておいてね」
「彩お姉さん、お父さんをよろしくね」
咲紀がそう言って微笑んだ。自分が亡くなっていることに気づいていないような、屈託のない笑顔だった。今は明日香と一緒にいて、安心しているのかも知れない。
彩は、2人に向かってうなずいた。2人が光に包まれ、やがて姿が見えなくなっても、彩は2人がいた方向をじっと見つめていた。
「木魂先輩、ありがとうございました」
「葉月さん、分かりますか? 鬼神です」
どこからともなく、鬼神の声が聞こえる。彩は眠るように目を閉じた。
「葉月さん、目を覚まして下さい」
そう言われて、彩は目を開けた。
そこは、病室の中だった。彩はベッドの上に寝ている。鬼神が自分の顔を覗き込んでいるのがぼんやりと見えた。
そっと上半身を起こす。鬼神は、信じられないというような顔つきで彩を見ていた。
「鬼神さん・・・」
彩が鬼神の名を呼んだ瞬間、鬼神は彩の体を強く抱きしめた。
「よかった・・・」
鬼神は、絞り出すように一言発した後、涙をこぼした。彩には、まだ自分がどうなったのか理解できない。
彩は、スリーパーへと変化したのである。
彩が抱きしめられた状態で、どれくらい時間が過ぎただろうか。突然、自分の今の状況を理解した彩は顔が真っ赤になり
「鬼神さん、もう大丈夫ですから」
と慌てて叫んだ。自分の腕をどうすればいいか分からず、バタバタさせている彩の様子を見て、立花は思わず吹き出した。
やっと鬼神から解放され、彩は両手で自分の頬を押さえた。顔が熱くなっているのが分かる。
「すみません、葉月さん」
鬼神は、涙を拭いながら謝った。
「あの、私、どうなったんですか?」
「昨日の夜、発症したのは覚えていますか?」
「ええ、なんとなく」
「それから、ずっと昏睡状態になっていたんです。今はもう、夕方になります」
「そんなに時間が経ったのですか」
「そうです。どうですか? 体が軽くなった感じがしませんか?」
彩は、そう言われて肩を揺らしてみた。
「そう言われると、なんだかそんな感じがします」
「あなたは、スリーパーになれたんです。もう、発症することを恐れる必要はないんですよ」
鬼神の話を聞いて、ようやく彩は、自分がスリーパーになれたことが自覚できた。あまりの嬉しさに、彩は思わず鬼神に抱きつく。鬼神は、ちょっと驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて彩を抱きしめ、背中を軽く叩いてやった。
病室から彩が出てきた途端、母親が真っ先に飛びついた。
「もう大丈夫だから」
と彩が言っても、母親は涙を流したまま彩にすがりついている。父親はその場に座り込み、彩の姿を見ていた。
母親が落ち着きを取り戻し、ようやく彩から離れた後、竜崎が彩に近づき、一礼した。
「刑事さん、この間は取り乱してしまってごめんなさい。私、いろいろとひどいことを言ってしまって」
彩が竜崎に対して謝ったが、竜崎は
「お気になさらないで下さい。私は、そう言われても仕方のないことをしたのです」
と言って頭を下げた。
「お顔をお上げ下さい。結果として、私は無事だったのですから」
「しかし、あなたが感染している事実は変わりません」
「感染して学んだことも、いろいろありました。今、私には後悔はありませんわ」
そう言われて竜崎は彩の顔を見た。彩は屈託ない微笑みを浮かべている。思わず、竜崎も笑顔になった。
周囲を見渡した彩が、麻子のいないことに気づいた。
「麻子さんは学校かな?」
その声を聞いて、鬼神が慌てて電話をとった。
「麻子さんは、誘拐されたのです。今、マリーが犯人を追っていると思います」
そう言いながら、鬼神はマリーに電話を掛けた。
「サラさん、いろいろとありがとうございました」
「あら、礼を言うのは私のほうです。私を守ろうと盾になってくれた時、すごく嬉しかったわ」
麻子とサラは言葉を交わし、お互いの手を取り合った。サラは通常業務に戻るため、アンドロイドのメンテナンス室に残るのだ。
「いつになるか分からないけど、地下都市で働くこともあるから、その時にまた会いましょう」
そう言って、サラは自分の持ち場へと戻っていった。
「さあ、紫龍さん、病院へと急ぎましょう」
マリーに促され、麻子は大きくうなずいた。
扉を抜け、通路を渡り、エレベーターホールにたどり着く。呼び出しボタンを押すと、すぐにドアの一つが開いた。麻子とマリーは急いでエレベーターの中に入る。
「今、鬼神さんから電話がありました。麻子さんが無事であることは伝えてあります。それから、葉月さんはスリーパーになったそうですよ」
エレベーターの中で、マリーが麻子に話しかけた。
「本当ですか?」
「ええ、今は麻子さんの到着を皆で待っているそうです」
麻子の不安げだった顔が、喜びの表情に変わった。目が潤み、一筋の涙が頬を伝う。
これで、全ての事件は解決したように見えた。しかし、マリーにはまだ、気がかりな点が残っていた。
ジャフェスが最期に言い残した言葉である。
病室に、鬼神と彩が隣り合わせ、その対面に彩の両親がテーブルを挟んで座っている。立花は
「お幸せにね」
と言い残してすでに立ち去り、竜崎と浜本も仕事のため警察へ戻った。
「どうして、麻子さんがさらわれたのですか?」
彩が鬼神に尋ねてみる。
「それが、よく分からないんです。犯人は、麻子さんに何かを頼みたかっただけだと言っていましたが、それが何かは明かしませんでした」
地上に出られるという事実を話すことはできない。鬼神は、言葉を濁した。
「そうですか・・・でも、怪我がないなら安心だわ」
「手と足が、ちょっとかぶれたらしいですけどね」
「あら、跡が残らなければいいんだけど」
彩の母親が口を挟んだのと同じタイミングで、いきなり病室の扉が開いた。4人が一斉に扉へ目を向けると、そこには麻子が立っていた。走ってきたようで、息を弾ませている。
彩が立ち上がり、麻子に近づく。
「麻子さん?」
麻子は、下を向いたまま彩に駆け寄り、抱きついた。そのまま動かない麻子を見て、彩は戸惑い
「麻子さん、私ならもう大丈夫よ」
と声を掛けた。
「ごめんなさい。もう少しこのままで・・・」
麻子は、震える声で絞り出すように口を開く。どうやら、泣いているようだ。彩はそっと、麻子の頭を撫でてやった。
その後ろから、マリーが部屋に入ってきた。
「マリー、ありがとう。さすがだな」
笑顔で話し掛ける鬼神に
「ジャフェスは死にました」
とマリーは静かに伝えた。
「・・・そうか」
鬼神は、マリーに対して一言、そうつぶやいただけだった。
「本当は、いろいろとお聞きしたいことがあるのですが、今日はゆっくりとお休み下さい。明日、紫龍さんと一緒に警察まで来ていただけますか」
「葉月さんの護衛はどうするんだい?」
「代理を派遣しますから、ご心配なく」
「分かったよ。かならず行く」
鬼神の返答を聞いたマリーは、笑みを浮かべながら、その場を去った。
今度は、彩と麻子が隣り合わせ、その対面に鬼神がテーブルを挟んで座っていた。彩の両親は、昨晩の徹夜疲れもあり、ひとまず家に帰ることにしたのだ。
麻子は、彩に体を預け、目を閉じていた。眠っているようだ。
「疲れて眠っているようね。かわいいわ」
彩は、なるべく体を動かさないようにした。
「恐ろしい奴に捕まっていたんだから、怖かったのだろう。ここへ来て安心したのかな」
まるで我が子を見るような目で、鬼神は麻子のことを見つめている。その時、彩から
「そう言えば、私が気を失いそうになっていたとき、鬼神さんから何か話しかけられた気がするのですが・・・」
と尋ねられ、鬼神は
「もしかして、覚えていないのですか?」
と大声を上げてしまった。麻子が目を覚まし、鬼神の驚いた顔を寝ぼけ眼で見る。
「どうしたんですか、鬼神さん?」
「あっ、いや、ごめん。起こしてしまったようだね」
鬼神が、キョトンとしている麻子の顔を見て、申し訳なさそうに謝った。
「いえ、ごめんなさい。いつの間にか眠ってしまったみたい」
「じゃあ、そろそろ我々も帰るとしようか。葉月さん、さっきの件は今度改めて話すよ。今日は疲れているだろうから、ゆっくり眠るといい」
鬼神はそう言って慌てて立ち上がる。そのとき、麻子が恥ずかしそうに下を向きながら
「あの・・・家に一人で寝るのは、ちょっと怖いです」
と、小さな声で言った。家で寝ていて襲われたわけだから、大人でも怖いと感じるだろう。
「それなら、ここで一緒に寝ようか?」
彩の提案に、麻子は目を輝かせた。
「いいんですか?」
「モニカさんに一言伝えておかなきゃならないけど、麻子さんなら多分大丈夫じゃないかな」
彩がモニカを呼び出し、事情を説明したところ、了承が得られた。
「じゃあ、明日はここへ迎えに来るようにするよ」
「わかりました。よろしくお願いします」
麻子の返事を聞いた鬼神は、二人に手を振って部屋を後にした。
「ベッドは割と広めだから窮屈ではないと思うけど、大丈夫?」
彩が、隣で寝ている麻子に尋ねる。
「はい。よその家にお泊りするのって、なんだか楽しいですね」
麻子は、彩と一緒に寝るのがよほど嬉しいのか、少し興奮気味で眠気も吹き飛んだようだ。
「私も、子供の頃に友達の家に泊まりに行った時は、いつも眠れなくて夜通し話をしてたっけ」
「どんな話をするんですか?」
「女の子が集まって話をするとしたら、やっぱり恋愛関係になるわね。あとは勉強の話とか、趣味の話くらいかな?」
「いいなあ、楽しいだろうな」
麻子は、そのような経験がないから、彩の話を聞くと、うらやましいのだろう。
「じゃあ、麻子さんは今までに好きになった男の人っているかな?」
彩は試しに麻子に聞いてみた。麻子は少し考えてから、ゆっくりと答え始めた。
「最近話題の俳優さんで、『希望のジュリア』に出演していた・・・」
「柴原葵かな?」
「そうです! すごく、かっこいいですよね」
「そうね、私達の年代から見るとかわいらしいと言ったほうがいいかも」
彩は、八千代のことを思い出した。八千代は、麻子にとっても好みの男性だったのだろうか。もしかしたら将来、恋愛に発展していたかも知れないと考えると、あんなに早く別れることになったのが残念でたまらなかった。
「麻子さんにとっては、柴原葵が初恋の相手になるのかな?」
「どうだろう? 恋とはちょっと違うかも。私って、まだ恋をしたことはないのかな? これって、おかしいですか?」
麻子は、心配そうに彩の顔を見た。
「そんな事ないわ、正常よ。本当の恋は、もう少し大きくなってからね」
「彩さんの初恋はいつだったんですか?」
「私? ・・・私はね、中学生のときかな。数学の先生が、すごくかっこいい人でね。皆に優しかったから、他の女子にも人気があったな。夏休み中に補習をしてくれてね。ある日、受けに来たのが私一人だけの時があったの。すぐ隣に座って、教えてもらっていたんだけど、その時に好きになっちゃったみたい」
「告白はしたんですか?」
「まさか」
彩は目を大きく見開いて、顔に笑みを浮かべながら否定した。
「初恋なんて、そんなものよ。大抵はうまくいかない。だから余計に記憶に残るのね」
彩の話を聞いて、麻子は理解したらしく、大きくうなずいた。
「ところで、鬼神さんとはもう恋愛中なんですか?」
「えっ?」
麻子から突然問われ、彩は答えに窮してしまった。
「だって、彩さんが鬼神さんを見る時の目って、他の人を見るときと違うんですよね」
「そうかしら?」
以前、桜から、彩の鬼神に対する恋心は誰もが勘づいていると指摘されたが、それは本当のようだ。まだ子供の麻子でさえ、すでに気づいていた。
「それに鬼神さんも、彩さんを見るときはすごく優しい目をしているように思うんですよ。だから、もしかしたら、2人はもう恋人同士なのかなって」
そう言って、麻子は両手で口を押さえた。彩は何も言えず、顔が熱くなっていくのを感じる。
「彩さん、顔が真っ赤です。大丈夫ですか?」
麻子に指摘され、身体中が熱くなっていった。
「私って、そんなに分かりやすい?」
彩が尋ねると、麻子は笑顔でうなずいた。彩にとっては少々ショックだったようだ。
「もう隠しても仕方ないわね。私は鬼神さんのこと大好きなの。でも、鬼神さんが私のこと、どう思っているか・・・」
そこまで口にした後、彩は突然、両手で口を押さえた。
「どうしたんですか、彩さん?」
「どうしよう・・・」
麻子が不思議そうな顔で尋ねても、彩は一言つぶやいただけで固まっている。彩は、気を失う前に鬼神が告白した言葉を今、思い出したのだ。
「なんてこった、全く」
竜崎は、空調システムに仕掛けられていたトラップに関する報告内容を見て身震いした。
本来、空調システムは、新鮮な空気を各エリアに送る他に、気圧を一定に調整する働きも持っている。ところが、超人症が発生したことで、病原体が外にあふれ出ないように、汚染地帯内を減圧する必要が生じ、プログラムの変更を慌てて行っていたのだ。突貫工事での作業だったため、一枚の頑丈な板のように堅牢だったシステムの中に、まるで小さな亀裂のような脆弱性が生まれてしまった。『ノア』は、その僅かな亀裂を最大限に利用して、小さなボットを無数に埋め込んでいたのだ。起動すると、逆に汚染地帯のほうが気圧は高くなる。結果として外部に病原体があふれ出すわけだ。しかも、空気の流れを細かく制御して、できるだけ広範囲に病原体が散らばるように計算されていたという徹底ぶりである。
そのプログラム群は全て、今日の日付が変わったと同時に起動するよう設定されていた。もし、マリーが指示を出していなければ、地下世界は知らないうちに病原体が拡散し、パンデミックが発生していたに違いない。
「これだけ書き換えられていて、全く気づかなかったとはな」
「少なくとも、短期間での仕事じゃあないですね。年単位で少しずつ変えたのでしょう」
浜本が、竜崎に言葉を返す。
「最期にジャフェスが明かしたそうだが」
「地下世界が崩壊するわけですからね。さすがに怖かったんでしょうか」
「自分が死のうとしている時に、世界の行く末なんてどうでもよさそうだがな」
「彼なりの償いだったんじゃないですか?」
「償いか・・・皮肉だな。罪人に助けられるなんて」
竜崎は、大きなため息をついた。
「トラップは全て解除しました。なんとか、日付が変わる前に終わらせることができましたね」
マリーが部屋に入ってきて2人に報告する。
「これで『ノア』の目的は分かったな。あとは、あのサイボーグ男の正体が分かれば、全ての謎は解決だ」
竜崎が大きく伸びをした。
「そうですね」
マリーは、そう応えるだけだった。
朝がやって来た。
しかし、彩はほとんど眠れなかったようだ。
「どうしよう・・・鬼神さんと、顔を合わせられないわ」
そわそわと落ち着かない彩を見て、昨夜に事情を聞いた麻子が
「彩さん、少し落ち着きましょう。鬼神さんは、彩さんが思い出したことは知らないのですから、普通に接していれば大丈夫です」
麻子の言葉を聞いて、彩は何度も大きくうなずいた。
その時、ノックの音がした。
「おはようございます。鬼神です」
鬼神の声を聞いた途端、彩は椅子に座り
「やっぱり無理。ごめんなさい、麻子さん、お願い」
と言って両手で頬を押さえた。顔はもう真っ赤な状態だ。
仕方ないので、麻子が代わりに返事をした。
「どうぞ、開いていますよ」
ドアからは、鬼神の他に、大柄な男も一緒に入ってきた。ハンターの小谷である。
「この子が葉月さん?」
小谷が鬼神に問いかける。
「いや、奥に座っている彼女が葉月さんだけど・・・どこか具合でも悪いのかな?」
鬼神が、心配そうな顔で麻子に尋ねた。
「いえ、あの・・・鬼神さん、少しかがんでもらってもいいですか?」
鬼神が麻子の指示通りに前かがみになると、麻子は鬼神のそばに寄って耳打ちした。それを聞いた鬼神が
「俺は近づかないほうがいいかな?」
とつぶやいたので、小谷も
「なんだ、喧嘩でもしたのか?」
と言いながら、彩のほうを眺めている。
「まあ、そんなところだ。後はお前に任せるよ」
「おい、そんな無責任な・・・」
小谷が反論する前に、鬼神が彩へ声を掛ける。
「葉月さん、俺は今から麻子さんと警察に行ってきます。戻ってくるまでは、この小谷という男が警備をします。外に出る時は、この男にひとこと声を掛けて下さい」
彩が、横を向いたままコクリとうなずくのを見て、3人は病室から出ていった。
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