第45話 忌むべき行い

 ジャフェスは、両手、両足を何本もの太い鎖で縛られ、大の字になりながら仰向けの状態で床に寝かされていた。服は何も身に着けず、完全に裸の状態だ。

 その上から、2m四方くらいの石の板が何重にも乗せられている。板の表面には波状の加工がされているため、その苦痛は想像を絶するものであろう。

 今、ジャフェスは石の板に視界を塞がれ、外の様子が全く分からない。時々、誰かの足音が聞こえてくるだけだ。

 床は金属製で、体の熱を容赦なく奪っていく。寒さと苦痛、そして息苦しさがジャフェスを襲ったが、以前の拷問に比べれば大したものではない。ジャフェスは、この程度で終わってくれることを願っていた。

 しかし、その考えは甘かった。肉体的な苦痛ではなく、精神面での恐怖を与えるという、今までとは異なる手段で、ジャフェスは追い詰められることになる。

 突然、自分の足の近くで金属同士がぶつかる甲高い音が響いた。その音を聞いた途端、ジャフェスは過去の忌まわしい記憶が蘇り、思わず大きな悲鳴を上げた。

 その音はなおも続く。振動が自分の股間あたりに伝わり、ジャフェスは身をよじって逃げようとするが、身動きをとることは全くできなかった。

 明らかに、ハンマーか何かで床を打ち付ける音であった。もし、自分の体に打ち付けられれば、その部分は激しく損傷するだろう。音が響くたび、叫び声が室内にこだました。

「この音が、貴様にとっては恐怖だろう。せいぜい泣き叫ぶがいいさ。悲鳴が聞こえなくなったら、もう一度潰してやるからな。覚悟しておけ」

 ハムの声が聞こえる。また、床が打ち付けられる音が響き、ジャフェスは甲高い悲鳴を上げた。


 ジャフェスにとって忘れられない地獄の拷問は、2度めの罪を犯した後のことだ。

「命令を守らず、木魂明日香を殺害した上、その娘に乱暴するとは、なんと愚かな男だ。生半可な苦痛では済まないと思え」

 『ノア』の怒りの声が聞こえる。しかし、その顔を見ることはできない。ジャフェスは裸にされ、鎖で縛られて、石の板を乗せられた状態だったのだ。

 足は大きく開かれ、股間が露出している。その性器は、血で赤く染められていた。行為に及んですぐに見つかったのだろう。

 板に挟まれ、横を向いているジャフェスの口に、布切れを丸めて筒状にしたものをセムが突っ込んだ。

「しばらく、これをくわえてろ。今から、お前は耐えられないほどの苦痛に襲われることになる」

 ハムが、大きなハンマーを手に現れた。そのハンマーは、片側が平らなのに対して、もう片側は先端が鋭く尖っていた。ハムはジャフェスの足側に立ち、じっと股間を眺めている。

「本当にいいのですか、長老?」

「構わん。2度と愚行を働かないためには、やむを得ぬ」

「どちら側で叩きますか?」

「無論、先の尖ったほうだ」

 ハムは、ゆっくりとハンマーを持ち上げる。そして、それを一気に振り下ろした。

 水の入った革袋に杭を打ち込むと、このような音がするのだろうか。なんとも形容し難い鈍い音があたりに響く。同時に、獣の咆哮のような叫び声が聞こえてきた。ジャフェスは何度も叫び、体をくねらせようとする。しかし、鎖と石の板で身動きがとれない。

 耐えられないほどの鈍痛は徐々に下半身全体に伝わり、全身の筋肉は電気が流れたようにしびれる。頭から血の気が引き、目の前が真っ暗になる。脂汗が一気に噴き出し、体温が急激に下がったように感じる。

 股間からは、血が噴水のように噴き出していた。ジャフェスの睾丸の片側に、大きな穴が開けられている。

「続けろ。跡形もなくなるまで、何度も叩くのだ」

 『ノア』に命じられ、ハムはハンマーで股間を叩き続けた。ハンマーの先端が肉に突き刺さる鈍い音と、それに呼応するかのような悲鳴が何度も室内に響き渡る。鎖に繋がれた箇所の皮がめくれ、肉が見えてもなお、両手と両足につながれた鎖を引きちぎろうとする。やがて、手足のほうが耐えられず、骨が折れてしまったが、それでもジャフェスは逃れようと手足をばたつかせた。

 そのうち、ハンマーで叩く音は鋭い金属音へと変わっていった。股間のあたりが血の海になり、肉片すらも見えなくなったところで、『ノア』はハムに止めるよう命じた。

 ジャフェスは足を痙攣させ、口からは泡を吹いていた。白目を向き、体中が小刻みに震えている。

「よろしい。傷口を縫合し、止血処置をしておけ。あとは三日三晩、このまま放置しておけばよい」

 『ノア』は、身にまとっていたフード付きの黒いローブを脱ぎ捨てた。ジャフェスの血液が付着するのを防ぐためだ。その下には白いローブを羽織っていた。まるで、聖者のような姿をした『ノア』に対して、ハムは頭を下げ、命令に従う態度を示した。

 陰惨な拷問が行われたその部屋に、一人の信者が入ってきた。

「木魂明日香の娘が逃げ出したようです」

 『ノア』は、信者の顔を見て

「放っておけ。すでに感染しているのは間違いない。いずれ発症して命を落とすだろう」

 と命じた。

「万が一、スラム街から外に出ると、厄介なことにならないですか?」

「この場所が知られれば、ここは捨てねばなるまいな。しかし、あの娘に罪はない。死に場所は自ら選ばせよ。すべての罪は、あの男一人が背負えばよい」

 そう言って、『ノア』はジャフェスのほうへ目を向けた。ジャフェスは気絶したらしく、もはやピクリとも動くことはなかった。


 咲紀は気丈にも歩き続けていた。服は破れ、半裸の状態だ。下腹部に鈍い痛みがあり、ひどいことをされたのは認識しているが、それが何を意味しているかは分からなかった。目からは涙がこぼれ落ちる。しかし、それでも咲紀は前へと進んだ。

 今は、あの異常な集団から少しでも離れることしか考えていなかった。とにかく、上へと進むことに決めていた。車を見つけたら、行き先を告げれば、無事に戻ることができる。そう考えていた。

 途中でエレベーターを見つけ、一番上の20階まで一気に昇る。エレベーターを抜けると、真っ暗な円形の広場に出た。目の前には、大きな丸いオブジェらしきものがぶら下がっているが、暗くてどんなものなのかは分からない。その下には噴水と思われるものもある。しかし、当然のように水は出ていない。それを見た時、咲紀は喉の乾きを覚えた。噴水に近づき、円形の槽の中を覗いてみる。やはり完全に乾いており水は一滴も残っていない。

 広場の先には広い廊下がある。咲紀は奥へ進むことにした。

 左右には、かつて店だったらしき部屋が並んでいる。廊下から覗いても、その中までは暗くてよく見えない。

 廊下の先には、少しだけ明るい空間があるようだ。入口からその場所まで、ちょうど真ん中あたりのところへたどり着いた時である。背後から、甲高い叫び声が聞こえた。咲紀は身の危険を感じて、咄嗟に部屋の一つへ駆け込み、物陰に隠れた。

 足音が聞こえる。小動物が小走りに近づいてくるような足音だ。何か得体の知れない化け物がいるのだろうか。咲紀はあまりの恐怖に、隠れているだけで精一杯だった。

 やがて現れた化け物の正体を見て、咲紀は凍りついたように動けなくなった。それは、咲紀が初めて見たインフェクターだった。手を前に垂らし、首を左右に細かく振りながら、インフェクターは咲紀のすぐ近くであたりの様子を伺っていた。咲紀がそこにいることを検知したのだろうか。なかなか移動しようとしない。

 咲紀は、勇気を振り絞って部屋の奥へ逃げることにした。ゆっくりと、インフェクターからできるだけ視線を外さずに、後ろへと下がってゆく。

 部屋の奥には出入り口があり、他の部屋へ続いていた。その部屋の中は完全な暗闇であり、何があるのか全く分からない。しかし、奥には出入り口があり、その外が少し明るくなっているのを見て、咲紀はその出入り口を目指した。

 そこは、建物の外側にある非常階段だった。その踊り場に出て下を見ると、何か白くて丸いものが落ちていた。

 それが人間の頭蓋骨であると分かった瞬間、咲紀は悲鳴を上げていた。建物の中から、甲高い叫び声が聞こえる。インフェクターに気づかれてしまったのだ。

 咲紀は慌てて口を押さえ、すぐに階段を駆け上がった。踊り場で向きを変え、さっきまでいた場所を確認すると、インフェクターが立っている。そのまま立ち止まっていたら、捕まって命を落としていただろう。

 今、咲紀はインフェクターの斜め上にいる。インフェクターは左右を探すだけで、上を見ようとはしない。咲紀は、できる限り静かに階段を上がることにした。インフェクターの姿が見えなくなり、その動向が確認できなくて不安になるが、いつまでも同じ場所にじっとしているわけにはいかないと判断したのだ。

 階段からは、上に行くに従い傾斜が急になるコーン型の建物が見える。他とは異なるその形状に、咲紀は何の建物なのか少し気になった。

 どれだけ階段を上がっただろうか。ついに最上階まで到達できた。インフェクターからは逃れることができたらしい。再び建物内に入るためのドアがある。電動ではなく、手動式のノブだ。試しに回してみたところ、簡単に開けることができた。中は暗闇で、何があるか全くわからないが、奥の方におぼろげに出入り口が見える。手探りで、その出入り口へと進んだ。しかし、途中で何かにつまずき、転んでしまった。

 咲紀は、そのまま座り込み、泣き始めた。まだ子供だというのに、全く見知らぬ場所へ突然連れ去られ、恐ろしい目に散々遭ったのだから、無理もないだろう。やがて、泣き疲れ、崩れるように眠り込んでしまった。


 どれだけ眠っただろうか。耐えられないほどの喉の乾きと空腹で、咲紀は目が覚めた。

 フラフラと起き上がり、まるで夢遊病者のように歩き始める。今は、とにかく飢えと乾きを満たすものが欲しかった。暗闇の中を進み、出入り口を通り抜ける。開けた空間が目の前に広がり、そこは正方形の大きな広場であることが分かった。

 右手には、外へ出ることのできる大きなエントランスが、左手は大きな廊下があり、その左右には仕切りだけの部屋が見える。部屋の中に、食料や水がないか、咲紀は探してみることにした。

 信じられないことに、咲紀は大量の缶詰が入った棚を発見した。しかも、シンクまで設置されている。咲紀は、水道のセンサーに手をかざしてみた。きれいな水が流れるのを見て、咲紀は夢中になってそれを飲んだ。

 乾きが癒やされると、今度は缶詰に手を伸ばす。蓋を開けて、中の食材を手づかみで口に運び、あっという間に5つの缶詰を空にしてしまった。

 もう一度、水を飲み、ようやく落ち着いたようだ。自分の置かれている状況を冷静に分析する余裕も出てきた。この先、すぐに脱出できる保証はない。ここで、水と食料を確保しておこうと考え、咲紀は手頃な容器がないか探し回った。

 麻布でできたトートバッグと、用途不明の大きめの容器を見つけ、容器には水を入れ、トートバッグに缶詰を詰め込んだ。しかし、手で持つには重すぎる。仕方なく、咲紀は缶詰の数を半分程度に減らした。

 必要なものが手に入り、部屋を出ようとした時である。廊下に女性がいるのを見つけた。その女性は、真っ直ぐ部屋のほうへ向かって歩いている。咲紀は慌てて隠れることのできる場所を探した。

 女性が部屋の中へ入ってきた。すぐに棚にある缶詰をチェックする。そして、数が足らないことに気が付いた。床には、空になった缶が無造作に捨てられている。

「誰だい、私の缶詰を食べたのは?」

 女性が大きな声で叫んだ。あたりを見回し、檻に入れられた獣のように同じ場所を行ったり来たりする。咲紀は、棚と壁の間にあった隙間に身を潜めていた。もし、女性が近づけば、簡単に見つかってしまう。

 部屋の片隅には鉄製の短いパイプのようなものが立て掛けられていた。女がそのパイプを手につかんだ瞬間、先端から光の刃が放出される。女性はそれを振り回し始めた。刃が空を切るときの低い振動音が、咲紀の耳にも届く。

「見つけたら殺してやる」

 咲紀は、体の震えを止めることができない。そのせいで、持っていた缶詰がカタカタと音を立てる。

「おや? そこに誰かいるようだね」

 見つかってしまった。このままでは、殺されてしまうだろう。咲紀は、あまりの恐ろしさに、気を失いその場に倒れてしまいそうだった。

「どうしたんだ?」

 男の声が聞こえる。他に誰かいるらしい。

「そこに盗人がいるんだよ。今から始末するところだ」

 足音が近づいてきた。咲紀は、ただ目をつむって立っていることしかできない。足音の主は男性のほうだった。咲紀の姿を見つけた男は、一瞬驚いた表情になったものの、すぐに険しい表情になり

「誰もいないぞ」

 と女性に叫んだ。

「そんなはずはないだろう。なにか音がするぞ」

「振動かなんかで缶詰が音を鳴らしているんだろう」

 男は、女性の下へ近づく。

「そんな物騒なものはしまうんだな。それより、そろそろ食料が底をつきそうなんだ。今から取りに行くつもりなんだが、一緒に行かないか?」

 男性にそう言われ、女性の顔には徐々に笑みが浮かぶ。武器を投げ捨てて、女性は男性の後をついて部屋から出た。しばらくの間、2人は廊下で話をしていたが、そのうち、咲紀が来た方向とは反対側へ歩き始めた。

 咲紀は、2人が部屋を出たことに気づき、廊下の様子をそっと覗いた。誰もいないことを確認し、2人が進んだのとは反対の方向、自分が歩いてきた道を引き返した。

 男性が、どうして咲紀のことを助けたのか、それは分からない。ただの気まぐれかも知れないし、咲紀の姿を見て哀れに思ったのかも知れない。いずれにしても、男性のおかげで咲紀は危機を脱することができた。


 セムとハムの2人が、ジャフェスを押し潰していた石の板を一枚ずつ取り除く。鎖を外され、ようやくジャフェスは解放された。しかし、動くことはできなかった。腕や足の骨は折れたまま、下半身の痛みもまだ引かない。高熱にうなされ、ひどい頭痛とめまいに襲われていた。

 『ノア』が様子を見にやって来た。目を閉じ、指の一本も動かさないジャフェスに、『ノア』は声を掛けた。

「ジャフェスよ。お前には、この『ノア』に仕える最後のチャンスを与えよう。次に罪を犯したその時は、我らの糧としてその血肉を捧げることになると思え」

 ジャフェスは、弱々しくうなずくだけだった。

「木魂明日香がどこまで内情を知っていたのか、お前は聞いたのか?」

 『ノア』がジャフェスに問いかけても、ジャフェスは首を横に振るだけだ。

「おそらく、『分血の儀式』のことは把握しているのではないでしょうか」

 セムの言う『分血の儀式』とは、感染者の血液を受け入れることを指している。

「それくらい大したことはない。我々の重大な計画を漏らすような真似はしていないだろうな?」

「まさか」

「ジャフェス、お前はどうだ? 色香に惑わされ、秘密を暴露してはいまいな」

 ジャフェスは、また首を横に振った。

「この世界の空調システムの解析にはまだ数年はかかるようだ。これほど手強いのは初めてだな。しかし、私はやり遂げなければならぬ。この世界に変革をもたらすのだ。そのためには、この秘密は決して口外してはならない」

 『ノア』は、GCSの中にある空調システムをハッキングしようと企んでいるらしい。何年もかけて空調システムを自分の意のままに操ることができたとして、それでいったい何をしようというのか?


 咲紀は少しずつ、しかし確実に、上の階へと進んでいた。

 食料と水には限りがある。できるだけ節約し、いつ終わるかわからない逃亡生活に備えるようにした。闇雲に移動せず、一度通った場所はすぐに判別できるように目印を置く。疲れたら、人目につかない安全な場所を確保し、睡眠をとるようにもした。大人でも、普通ならパニックを起こしてしまうような状況の中で、咲紀は非常に冷静に対処する術を自然と身に付けていた。さすがは、木魂明日香の娘である。

 こうして、ついに咲紀は上のフロアへ通じる非常階段を見つけた。長い階段を上りきり、スラム街を脱出することに成功したのである。

 しかし、同時に体に異変が生じていた。階段を上っている間、だんだんと頭が痛くなってきたのである。途中、命の綱だった缶詰入りのトートバッグと水の入った容器を手放してしまった。

 スラム街を脱出した頃には、頭痛はかなりひどくなっていた。車がないか、あたりを見回してみるが、工場地帯には車は全く停まっていない。

 他のフロアへ移動するためのエレベーターを探す。真っ直ぐ歩くことができず、途中で転びそうになる。壁をつたい、なんとかエレベーターを見つけた。エレベーターの中に入り、ようやく自分がC-3エリアにいることを知った。7フロアが居住区であることを思い出し、7のボタンを押す。

 居住区にたどり着き、フラフラになりながらもエレベーターから外に出た。すぐに転倒し、しばらく頭を押さえたままうずくまる。今は夜で、あたりは暗く、人の姿もまったくない。

 少し離れたところに、車が何台か停車していた。最後の力を振り絞り、咲紀は立ち上がって一歩ずつ前進した。

「ああ・・・」

 もう少しで一台の車にたどり着けるというところで、咲紀はまた、しゃがみこんでしまった。頭が割れるように痛い。その頭を押さえながら、車がドアを開けたことを確認した。這うように車の中に入り、懸命に行き先を思い出そうとする。

「C-6エリアの6フロアへ・・・」

 それは明日香の家ではなく、鬼神の家のある場所だった。明日香がジャフェスに胸のあたりを刺された現場を咲紀は目撃している。すでに明日香は生きていないと悟っていたのだろうか。それとも、明日香がそうだったように、最後には鬼神を頼ったのだろうか。

 車の中で、咲紀は何かと闘っていた。

 それは、何とも形容し難い異形のものだった。巨大な生物の臓腑を無造作につなげれば、こんな化け物が生まれるのだろうか。咲紀は、その何者かに飲み込まれそうな状態だった。足を触手に絡め取られ、ズルズルと口らしき穴の中へと引きずり込まれようとしている。

 このおぞましい怪物は、バクテリアが咲紀に見せている幻影なのだろう。咲紀は怪物から逃れようと、必死になってもがいていた。しかし、触手の力は強く、どんなに咲紀が振りほどこうとしても離れない。腕を使って地面を掻き、気味の悪い口から離れようとするが、怪物との距離は近づくばかりだ。

 とうとう、足が完全に怪物の中に取り込まれる。体の中を、管のようなものが通される感覚に襲われた。足や腕の皮膚の中を、その管の先端が走っていく。やがて、その先端は顔を通って頭に集まり、脳を乗っ取ってしまった。こうして、咲紀は完全に怪物の支配下となった。

 咲紀の体は、もはや完全に怪物の中に取り込まれている。咲紀には、自分の体が怪物に同化していくのがおぼろげに理解できた。もはや、考えることもできず、思い出すのは鬼神と明日香の顔だけだ。そのまま、咲紀は消え去ってしまった。


 気がつくと、咲紀は暗闇の中に立っていた。自分の足元を、地面をじっと見ている。

 その視点が、前方に移った。その先に人がいる。何か叫んでいるが、その声を聞くことはできなかった。

 突然、自分の体がその誰かに向かって突進していった。自分の意志に関係なく、体が勝手に動いている。

 目の前の人物を見て咲紀は驚いた。それは、自分の父親だったのである。

 父親は後ずさりながら咲紀から離れようとする。

(助けて、お父さん)

 父親がプラズマガンを向けた。

(どうして?)

 咲紀は、父親に銃を向けられ困惑した。

(私が分からないの?)

 悲しくなり、涙があふれる。自分の体が再び父親に近寄ろうとしたその時、周囲が炎に包まれた。

 一瞬にして目の前が炎で見えなくなり、すぐに暗闇に包まれた。不思議なことに熱さは感じない。このとき咲紀は、父親が悪夢から自分を救ってくれたのだと悟った。これで安らかに眠ることができる。母親のいる天国へ昇ることができる。咲紀は、父親に別れを言おうとした。

(さようなら、お父さん)

 その言葉は、鬼神の耳に届くことはなかった。


「ジャフェス、よく聞け。長老からの命令だ。しばらくの間、お前はここで頭を冷やす必要がある。だが、その後は楽しみが待っているぞ。貴様のお気に入りの紫龍麻子をここへ連れて来るんだ。但し、少しも傷つけてはならぬ。彼女は、地上に進化をもたらす大事な導き手だからな」

 ハムが、石の板に押し潰されているジャフェスの顔が見えるように床に顔を付け、そう命じた。

「どうして・・・」

 ジャフェスが苦しげにつぶやいた。

「なぜかは分からんが、紫龍には地上へ出る意欲が以前よりも減っているようだ。この地下世界に満足し始めている。だから、長老自ら、紫龍を洗脳して地上へ行くように仕向けるというわけだ」

 ハムは顔を上げ、立ち上がって、ジャフェスの周囲を回り始めた。

「いいな。紫龍には決して手を付けるなよ。今回は未遂だったから、これだけで済んだんだ。今度、長老の命に背けば、どうなるか分かっているな」

 ジャフェスは、うなずくことができない。

「それから、紫龍と一緒に住んでいるアンドロイドがいるはずだ。それは完全に破壊しろとのことだ」

「なぜ?」

 ハムは、ジャフェスの頭の近くであぐらをかいた。

「理由は分からん。長老のことだから、何か考えがおありだろうがな」

 しばらくして、ジャフェスが一言

「分かった」

 と答えた。

「まあ、今はそれを楽しみに、耐えるんだな」

 ハムは、そう言葉を残して立ち去っていった。

 その時のジャフェスの顔を見たら、ハムは呆れただろう。ジャフェスはこの苦痛の中、下品な笑みを浮かべていたのだ。


 鬼神は、リビングのソファーに寝転がり、端末を眺めていた。

 端末には、娘の、咲紀の写真が映し出されていた。まだ、10歳にも満たない頃だろう。Tシャツにショートパンツ、ひじやひざ、頭にはプロテクターを付けて、左腕にはホバーボードを抱えている。

 咲紀は、鬼神に似たのか、スポーツ万能だった。特にホバーボードが得意で、大会で優勝したこともある。

「お父さん、優勝できたよ。約束通り、犬を飼ってもいいでしょ?」

 うれしそうな顔で、咲紀は鬼神に抱きついた。

「あなた、そんな約束したの?」

 明日香がビックリして鬼神に問いただす。

「いや・・・うん」

 鬼神は曖昧に返事するだけだ。

「ダメよ咲紀。犬を飼うのは大変なのよ。ちゃんと餌をあげないと死んじゃうし、毎日散歩に連れて行って、糞の始末もしなくちゃいけないのよ」

 明日香は咲紀を説得しようとするが、咲紀は

「絶対、私がちゃんと面倒見るから、いいでしょ?」

 と言って、断固譲ろうとしない。

「じゃあ、お父さんの家で飼うのはどうだい?」

 鬼神の助け舟は

「それじゃあ、私が面倒見ることができないもん」

 と、一蹴されてしまった。

「ロボット犬ではダメなの?」

「だって、お世話ができないでしょ。私はお世話がしたいの」

「お花のお世話をしてるじゃない」

「犬は芸を覚えたりするのよ。お手とかお座りを教えるの」

 咲紀の意志は固いようである。明日香は、ため息をついて鬼神のほうを見た。

「すまない、明日香。どうしても欲しいって言うから約束してしまったんだ。自分で面倒を見るって言ってるし、飼ってみないか?」

 鬼神も咲紀の味方である。明日香は渋々ながら、うなずいた。

 大喜びする咲紀に対して、鬼神がひとつ忠告した。

「咲紀に言っておかなければならないことがある。よく聞きなさい。犬の寿命は長くても20年だ。だから、どんなに長生きしても、お前よりも先に死んでしまうんだ。いつの日か、その犬が死んでしまった時、お前はその悲しみに耐えなければならない」

「えっ? そんなのかわいそうだよ」

「かわいそうだけど、どうにもならないんだよ。もしかしたら、病気や事故でもっと早くお別れしなければならなくなるかも知れないんだ。咲紀は我慢できるかな?」

 咲紀は、しばらくの間、思案していた。まだ、死がどんなものなのか、よく分からないだろうと鬼神は思っていたが、咲紀の返答は意外なものだった。

「私、やっぱり犬を飼うの止めておく」

「どうして? 欲しいんじゃなかったの?」

 不思議に思い、明日香が聞いてみた。

「この間ね、クラスで飼っていたうさぎが死んじゃったの。クラスの友達と、ずっと一緒に泣いていたのよ。もう、あんなに悲しいのは嫌だもん」

「そっか・・・もう、うさぎさんには会えないから、辛いよね」

 明日香は娘の前にしゃがみ込み、優しく頭を撫でてあげた。

「でもね、それまで一緒に遊んだときの、楽しい思い出は残っているでしょ? 辛くて悲しいことばかりじゃないわ。犬さんと一緒に過ごせば、きっと楽しい思い出がたくさんできるわよ。お別れするときだって、楽しい思い出をありがとうって、喜んでくれるに違いないわ」

 咲紀の目が輝いた。

「うん、やっぱり犬を飼いたい」

「最初は反対してたのに、どうしたんだい?」

 鬼神が、笑顔で明日香に尋ねてみた。

「前からペットは欲しいなって考えてたのよ。でも、私は猫のほうが欲しかったのに、犬を飼うことになるとはね」

 明日香は、そう言って笑顔を返した。


 麻子が、リビングで端末を見ている鬼神を見つけた。

「鬼神さん、少しいいですか?」

 声を掛けられ、鬼神は体を起こして麻子に目を向けた。

「どうしましたか?」

「あの、何を見てたのかなと思って」

「ああ、昔の咲紀の写真を見ていたんだ。犬が欲しいって駄々をこねられた頃のね」

 麻子は、鬼神が手に持っていた端末を覗き込んだ。

「わあ、かわいい。この子が咲紀さんなんですね。ホバーボードしてたなんて、格好いいな」

「親から見れば、毎回ヒヤヒヤするけどね。怪我しないかと心配で」

「分かります、その気持ち。ところで、犬を飼っていたんですか?」

「このときにね、ペットショップに行って子犬を買ったんだ。咲紀は一生懸命、世話をしていたよ。でも、一年で死んでしまったんだ」

「えっ? かわいそう」

「突然、ご飯を食べなくなってね。病院に連れて行ったけど原因が分からなくて、いろいろと餌を変えてみてもダメだった・・・」


 やせ衰え、ぐったりしている子犬の頭を撫でながら、咲紀は涙を流していた。

「やはり、食べてくれないか」

「うん。今日も栄養点滴だけで、食事は全然・・・」

「咲紀は大丈夫か?」

 そっと咲紀の様子を観察しながら、鬼神は心配そうに尋ねた。子犬の調子がよくないと聞いてから、鬼神は明日香の家に毎日訪れていた。

「ずっと、あの調子よ。咲紀もご飯を食べてくれないの」

 明日香も、咲紀を心配そうに見つめていた。

「困ったな。無理にでも食べされられないのか?」

「餌をペースト状にして注射器で与えたんだけど、すぐに吐いてしまうの」

「やっぱり、病気じゃないのか?」

「でも、いくら調べても異常が見つからないのよね。ナノマシーンまで使って検査してもらったけど、どこも正常だって」

「そうか・・・今日でちょうど一週間だな」

「お医者さんは、今日あたりが限界じゃないかって」

 鬼神は、大きなため息をついた。


「咲紀・・・」

 鬼神の声を聞いて、咲紀は振り向いた。泣いていたから、目が真っ赤に腫れている。

 咲紀の隣に座り

「咲紀もご飯を食べていないそうじゃないか。お母さんが心配してるよ」

 と話しかける鬼神に、咲紀は

「食べたくない」

 と小さな声でつぶやいた。

「そうか・・・」

 そう言ったきり、お互い言葉を交わすこともなく、2人は子犬をじっと見ていた。子犬は息が荒く、時折、弱々しく鳴き声を上げる。

「クロ、死んじゃうのかな?」

 しばらくして、咲紀が鬼神に問いかけた。『クロ』は子犬の名前で、毛がつややかな黒色だからと、咲紀が決めた。

「・・・何でもいいから、食べてくれればいいんだけどな」

 鬼神は、直接答えることは避けた。

「アイスクリームやヨーグルトも試したけど、ダメなの。どうしたらいいの?」

 クロの周りには、今までに試した食べ物が並んでいる。アイスクリームやヨーグルトの容器。バナナやりんご、梨などの果物。水でふやかした、たくさんのドッグフードもあった。

 鬼神が、溶けたアイスクリームを指にすくい、クロの鼻先に近づける。クロは匂いを嗅ぎ、舌で舐め始めた。

「あっ、食べてる」

 咲紀の声が少し明るくなる。自分もアイスクリームを指にとって、クロに与えてみた。

「アイスクリームは冷たいから、食べにくかったのかも知れないな。溶けたアイスクリームなら大丈夫みたいだ」

「うん、お父さん、ありがとう」

「さあ、クロに食べさせたら、今度は咲紀の番だ。ちゃんと食べておかないと、咲紀のほうが参ってしまうぞ」

 咲紀は、大きくうなずいた。


 咲紀は、目の前の料理を次々と口の中へ運んだ。

「慌てて食べると、喉を詰まらせるぞ」

 少し元気の出てきた咲紀にホッとしながらも、鬼神は、慌てて食べ終えようとする咲紀に言い聞かせる。

「だって、クロのことが気になるんだもん」

「お母さんが見ているから心配しなくても大丈夫だよ。何かあれば呼んでくれるから、もっとゆっくり食べなさい」

 そんな話をしていた時に、明日香がダイニングへ駆け込んできた。

「大変よ。クロがひきつけを起こしたの」

 鬼神と咲紀が顔を見合わせ、同時に立ち上がってクロの下へ駆けつけた。クロは、甲高い鳴き声を上げながら足をばたつかせていた。

「食べたものを吐いたと思ったら、突然けいれんを始めたの。すぐに病院に行ったほうが・・・」

 明日香がそう話している間に、クロが動かなくなった。3人はその様子を見て立ちすくんでしまう。

 咲紀が、すぐにクロの近くに座り込み、両手でクロを抱え込んだ。クロはもはや力なく、首や足はだらりと下がったままだ。その体を抱きしめ、咲紀は泣き始めた。今、クロが死んだということを理解したのだ。

 かわいがっていたペットが死んでいく様子を目の当たりにして、まだ子供の咲紀にとって、その衝撃は計り知れないものがあるだろう。鬼神も明日香も、咲紀に声を掛けることができなかった。

 長い間、咲紀は涙を流し、鬼神と明日香はその様子を見ていた。鬼神も明日香も、犬を買ったことを、咲紀の心に深い傷を付けてしまったことを後悔していた。しかし、その後の咲紀の行動を見て、その後悔は吹き飛んでしまった。

「短い間だったけど、楽しい思い出を作ってくれて、ありがとうね」

 咲紀は、クロの亡骸にそう囁いて、ベッドに横たえた。

「お父さん、お母さん、私、一生懸命お世話したけど、何がダメだったのかな?」

 涙を拭いながら、咲紀は尋ねた。

「ダメなところなんてないわよ。咲紀は最後まで立派にお世話したわ。残念だけど、これがクロの寿命だったの。誰も、それを変えることはできないのよ」

 そう諭されて、咲紀はまた涙を流し、明日香に抱きついた。

「クロ、楽しい思い出、できたかな?」

「もちろん。クロもありがとうって言ってるわよ」

 明日香はひざまずいて咲紀を抱きしめた。明日香の目からも涙がこぼれていた。


「あのときの咲紀は、すごく辛かっただろうね。こんなに早く別れることになるなんて、思ってもいなかっただろうから。でも、ちゃんと自分なりに受け入れることができたから、立ち直るのも早かったな。また、犬を飼いたいとは言わなくなったけどね」

 鬼神は、笑みを浮かべていたが、その表情はどこか寂しげだった。

「咲紀さんは強いんですね。私が同じ立場だったら、耐えられないかも知れない」

「俺より強いかも知れないな。俺は、立ち直るのに時間が掛かったから・・・」

 麻子は、鬼神に対して何の言葉も返すことができなかった。鬼神は、そんな麻子の様子を見て

「いや、話が長くなりすぎたね。もうこんな時間だから、そろそろ寝よう」

 と言って立ち上がった。

「あ、ごめんなさい。実は別の要件があって・・・」

 麻子はそう言いながら、リングケースを鬼神に差し出した。

「この中に、あのチップが入っています。鬼神さんに、これを預かってほしいんです」

 麻子の申し出に、鬼神は

「どうしてですか?」

 と尋ねた。

「私、父の望みを叶えてあげたくて、今までは外の世界へ出ることだけを考えてました。地上に出れば幸せが手に入るって、漠然と思っていたんです」

 鬼神は、うなずくだけだった。麻子は、話を続ける。

「でも、自分が変わらなきゃ、地上に出たって同じなんですよね。自分が心を閉ざしている限り、信頼できる人は現れない」

「今は、心を閉ざしているようには見えないよ」

「それは、鬼神さんや彩さん、ドナさんのおかげです。それに、蘭くんや桜さんとも親しくなることができて、この世界でも仲間を作ることはできるって気づいたんです。だから、今は外の世界に行きたいという思いはありません」

 鬼神は、麻子の話をじっと聞いている。

「このチップ、本当なら警察の手に渡るべきですよね。鬼神さんなら、どうすればいいか、判断してくれるかなと思ったんです」

 鬼神は、麻子からリングケースを受け取り、中を開けた。そこには、指輪とチップが入っていた。チップだけを抜き取り、麻子に返す。

「チップだけ預かっておくよ。指輪は君のものだ。大切にしなさい」

「はい、ありがとうございました」

「よし、じゃあ、明日に備えて寝よう」

 2人はリビングを出て、それぞれの部屋に戻った。

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