第44話 亡者の誘惑

 動かなくなった八千代を前に、鬼神はただ呆然と、その死体を見下ろしていた。

 肩をポンと叩かれ、振り向くと立花が立っていた。

「ご苦労さん。さあ、ご遺体をベッドに寝かせてあげようじゃないか」

 鬼神は、八千代の体を抱きかかえてベッドにそっと乗せ、開いたまぶたを手のひらで閉じた。

「やっぱり・・・苦手だな、この仕事は」

 今は苦しみから解放され、穏やかな顔をした八千代の亡骸を見て、鬼神はポツリとつぶやいた。

「そんなもんだよ。好きでやる人間なんて、誰もいないさ」

 立花にそう言われ、鬼神は少しだけ笑ったが、その表情は悲しげだ。

「さて、もう一つ辛い仕事が残ってるな。フィオナ、ここの処置は任せるよ。俺は外で待っている皆に、蘭くんが亡くなったことを伝えてくる」

 後方で様子を見ていたフィオナは軽くうなずき、八千代の体を調べ始める。鬼神は一人、病室を抜け出した。


 病室の外では、麻子と桜が2人とも床に座り込んで泣いていた。ドナが麻子のそばに寄り添い、様子を伺っている。あの咆哮が外にも聞こえたのだろう。彩は顔が青ざめ、呆然と立ち尽くしていた。

「残念だが、蘭くんは亡くなったよ」

 鬼神がそう告げると、鳴き声が一層、激しくなる。微動だにしない彩を見て、鬼神は不安になり、声を掛けた。

「葉月さん、大丈夫かい?」

 鬼神の声を聞いて、彩は目を向ける。たちまち、目から大粒の涙が流れた。

「今朝まで、あんなに元気だったのに・・・あっという間に・・・」

「葉月さん、気をしっかり!」

「私も、いつか、あんな・・・」

 彩は、鬼神にすがりついてきた。恐怖で体が震えている。鬼神は、彩の体をしっかりと抱きしめた。

 激しく泣き叫ぶ彩に、鬼神はどんな声を掛けていいか分からなかった。八千代の変わりゆく姿に、未来の自分を重ねてしまったのだろう。その恐怖が耐えられないものであることは、鬼神もよく知っていた。

 立花が病室から出てきた。外の様子を見て、大きくため息をつく。鬼神が、立花に気づいて声を掛けた。

「どうした?」

「医師の診断が終わった。すぐに焼却されてしまうから、最期のお別れをするなら今のうちだよ」

 鬼神は、立花の言葉にうなずいて、麻子や桜のほうを見た。

「麻子さん、桜さん、蘭くんと最期のお別れをしてやってくれないか。ドナ、2人を頼むよ」

 彩はまだ泣いている。鬼神は、肩に手を添えて支えながら

「病室に入って、少し座ったほうがいい」

 と彩に話しかけ、一緒に病室へと入っていった。


 麻子と桜は、八千代の遺体が置かれているベッドの近くで、じっと八千代の顔を眺めていた。

「よく、がんばったね」

 桜は、そう言いながら八千代の頭を撫でてやった。麻子は八千代の手を握りしめる。その手は、まだ温かかった。

 彩は少し離れたところで椅子に座っていた。鬼神がそばに付き添っている。

「ごめんなさい、鬼神さん。ご心配をおかけしちゃって」

 涙を拭いながら、彩は鬼神に頭を下げた。

「気持ちのほうは落ち着いたかな?」

 鬼神が彩に問いかけてみる。

「はい、だいぶ落ち着きました。もう大丈夫です」

「じゃあ、蘭くんと最期のお別れをしようか」

 鬼神が立ち上がるのを見て、彩も席を立った。しかし、少し足元がふらついている。鬼神が、背後から肩にそっと手を添えて支えた。彩はゆっくりと八千代の遺体へ近づき、その顔を眺めた。

 八千代は目を閉じ、まるで眠っているかのようだった。桜はずっと、八千代の頭や顔に触れている。麻子も手を握りしめたままだ。かけがえのない人が、一瞬でいなくなったのだから当然だろう。おそらく麻子の初めてのボーイフレンドであり、桜にとっては自分の子供同然だったに違いない。

 そんな様子を見て、八千代を失った悲しみよりも、自分が同じ状況に陥ることへの恐怖が勝ったことに、彩は一種の罪悪感を感じた。

「私、自分のことしか考えていなかった」

 彩がポツリとつぶやく。その声を聞いた鬼神が

「それは正常なことだ。人は、悲しみより恐怖を強く感じる。だから、今は悲しみしか感じないだろ?」

 と言った。それを聞いて初めて、彩は涙があふれてきた。それは、恐怖からではなく、八千代を失った悲しみから生じた涙だった。


 八千代の遺体は特殊なカプセルに入れられ、すぐに焼却された。遺骨は両親と同じ納骨堂に納められるらしい。

 桜は悲しみの癒えぬまま、自室へと入っていった。彩も、鬼神と麻子、ドナに付き添われ、病室へと戻るところだ。

 彩の病室には、母親が待っていた。

「どうしたの? 何かあったの?」

 鬼神が、八千代の亡くなったことを伝えると、母親は何も言葉にできず、ただ唖然としていた。

「本当に、あっという間なのね。私、覚悟が足りなかったみたい」

 彩は、自分に言い聞かせるかのように言葉を発した。

「もう、変なこと言わないで。それより、昼食はどうしたの?」

 母親にそう言われ、今何時なのか把握していないことに皆は気づいた。

「えっ、もう夕方じゃない」

「そうよ。私も、そろそろ帰らなきゃならないから、これで失礼するわね。まあ、顔が見られたから安心したわ」

「ごめんね、お母さん」

 母親が部屋を出た後、一同はテーブルを囲んで座った。

「もう、夕食にしますか?」

 ドナが3人に尋ねてみた。

「桜さん、今一人だから、私は桜さんと食べようかな」

 麻子の気遣いに、彩は

「それなら、ここに桜さんを呼んで皆で食べない?」

 と提案した。

「賛成! じゃあ、桜さんに声を掛けてきますね」

 麻子が急いで桜のいる病室へと走っていった。

「今回の件で、一番つらい思いをしているのは、桜さんかも知れないな」

 鬼神が、彩に話しかける。

「蘭くんを失ったからですか?」

「それもあるけど、葉月さんのように恐れる気持ちも多少はあったんじゃないだろうか」

 鬼神は、ズボンのポケットから箱を取り出した。

「それは、電子ペーパーですね」

「以前、桜さんが絵を描いてみたいって言ってただろ? これで少しは気が紛れるといいんだが」

 そのとき、麻子が一人で戻ってきた。

「ノックしてみたけど、応答がないの。気晴らしに屋上にでも行っているのかな?」

「まだ時間も早いから、ちょっと探しに行ってみるか」

 鬼神の号令の下、4人は屋上へ行ってみたが、桜の姿はどこにもなかった。誰もいない庭で、4人は途方に暮れてしまい

「もう一度、部屋を訪ねてみましょう」

 という彩の提案で、桜の病室に向かいドアをノックしてみるが、やはり返事がない。

 パネルをタッチしてみると、ドアはロックされていた。鬼神は不安になり、ドナに

「守衛に話をして、強制的にドアロックを解除できないか聞いてくれないか?」

 と頼んだ。ドナが無線で指示を出したらしく、すぐに守衛のアーサーがやって来た。何も聞かず、パネルに手を当てながらキーを操作する。

 ドアのロックが解除された。

「皆、ここで待っていてくれ。俺が見てくるから」

 鬼神が、アーサーとともに中へ入った。

 部屋の中は、きれいに片付けられていた。右側の壁に、壁掛け用のフックがあり、そこから紐が垂れている。その下に桜の体が、膝を伸ばして座った状態でぶら下がっていた。

 鬼神が、すぐに桜の体を抱きかかえ、ベッドに寝かせて紐を解いた。しかし、すでに息はなく、心臓も動いていない。

「すぐに医師に連絡を」

 胸骨圧迫を始めながら、鬼神が叫んだ。

 鬼神、そして医師たちの懸命の救命措置にもかかわらず、桜の息が吹き返すことはなかった。


 カプセルに入れられた桜を前にして、麻子も彩も、ただ呆然と立っていることしかできなかった。

 一日で、2人の尊い生命が失われた。全く予想できない、あまりに突然の出来事だ。2人とも、ただ悪夢を見ているとしか思えなかった。

 やがて、桜の親族がやって来た。両親だろうか、年配の男女が現れ、その後ろから男性が一人、病室に入ってくる。3人は、鬼神たちに軽く一礼し、カプセルの中の桜と対面した。両親らしき2人は頭を垂れ、静かに遺体と対面していたが、やがて女性がすすり泣き始めた。後ろに控えていた男性が、女性の肩を持って体を支える。父親らしき男がカプセルに軽く触れ、その手を自分の目に当てた。声を押し殺し、泣き始めたのだ。男性が声を出して泣くところを彩は初めて見た。それが自分の両親の姿に重なり、彩はそれ以上正視することができなかった。

 遺体の焼却が終わり、遺族への状況説明には鬼神も参加することになった。発症ではなく、自殺により亡くなったことが告げられると、3人は驚きを隠せなかった。

「一緒に暮らしていた患者さんが亡くなったことに悲観して、ということですか。その患者さんは蘭くんという子供では?」

 年配の男女は、予想通り桜の両親で、もう一人の男性は兄だった。魅力的な目などは、たしかに桜とよく似ている。その兄から質問を受けた鬼神は

「その通りです。今日、発症して亡くなりました。美雪さんは、蘭くんが亡くなって、非常に悲しんでおられたのです」

「そうですか・・・あの子も亡くなったんですね・・・」

 兄はうつむきながら、残念そうにつぶやいた。

「娘は、苦しまずに済んだのよね」

 母親がポツリと言ったのを聞いた父親は

「スリーパーになれたかもしれないんだぞ。どうして・・・」

 と、目を押さえたまま泣き叫んだ。

「会うといつも、発症した時を考えると怖いって言ってたじゃない。もう、怯える必要もなくなったのよ」

「だからと言って、諦める奴があるか」

「2人とも、止めなよ。何を言ったって、美雪は帰ってこないんだ」

 お互いに顔を見合わせて言い争いを始める両親を、兄が止めに入った。両親は、下を向いたまま、口を閉ざした。

「美雪が、最期に何か言い残したことはないでしょうか?」

「いいえ・・・特には」

 兄の問いかけに鬼神はこう答えたが、実際には、桜は病室に入る前に、彩に対して言葉を残していた。

「葉月さんは、幸せになってね」

 その時、桜の目は彩ではなく、鬼神の顔を見ていた。その意味については鬼神にも理解できた。しかし、何故あのタイミングでそんなことを言ったのか、それは分からなかった。


 3人で食べる遅めの夕食は、特に会話もなく静かに終わった。

「気分転換に、屋上へ行かないか?」

 鬼神の誘いに応じて、4人で屋上の庭へと行ってみることにした。すでに周囲の景色は暗くなり、歩道だけが明るく照らされていた。

 しばらく歩いた先には、以前、お茶会をした大きなテーブルがある。テーブルの周囲は庭の木々がライトアップされ、昼間とは違った雰囲気を演出していた。しかし、透明なドームを通して見える外の景色は、灰色がかった背景に暗い建物の影が見えるだけで、なんとも味気ないものであった。

 麻子が椅子に座り、テーブルを眺めながら

「蘭くんが、おいしそうにケーキを食べているのを思い出すわ。つい、3日前なのよね」

 と独り言のようにつぶやいた。

「思えば、あの時は皆が揃った最後の時間だったのね」

 彩も、麻子に応えるように話を始める。

「こんなに一度に、病棟にいた知り合いがいなくなるなんて、なんだか淋しいな」

 彩は、そう言って上を見上げた。涙をこらえているのだろうか。

「残酷だが、時を巻き戻すことはできない。俺も、何度それができたらと願ったことだろう。だが、前を向いて生きるしかないんだ」

 鬼神の言葉には重みがあった。2人とも、ただうなずくことしかできなかった。

「でも・・・桜さんの自殺は防げたかも知れない。それが残念」

 かすれた声でつぶやき、悲しい目をする彩を見つめて

「そう。だから、同じ過ちは2度と繰り返さない」

 と、鬼神は力強く言った。彩も、思わず鬼神の真剣な顔を見る。

「私は大丈夫。決してあきらめないわ」

「今はそう思っていても、心が折れる時は必ずある。その時は、必ず相談して下さい。どんな小さなことでもいいですから」

 いつもは優しく話しかけてくれる鬼神が、今は非常に険しい表情をしている。赤銅色の瞳に見つめられ、彩は金縛りにあったかのように動けなかった。

「桜さんの家族の悲しむ姿をあなたも見たはずだ。あなたがいなくなれば、たくさんの人が悲しむだろう。その人たちのためにも、あなたは可能な限り生きなければならない。たとえ、それがどんなに辛くても」

 鬼神は、ふと視線を下に向け、いつもの優しい口調に戻って

「すみません、気分転換のつもりが、また蒸し返すようなことになってしまって」

 と謝った。

 鬼神の視線の呪縛から解き放たれ、彩は近くにあった椅子に座り込んだ。麻子とドナが心配して、彩のほうへと駆け寄る。

「鬼神さん、今日はもっと彩さんをいたわってあげなくちゃ」

 ドナの忠告を聞いて、鬼神も

「そうだな。辛くなるようなことを言い過ぎてしまったようだ」

 と自分の非を認めた。

「でも、彩さんには桜さんのような真似だけはしてほしくないから、思い悩むときがあったら相談してほしいな」

 麻子も、遠慮がちに彩に話しかけるので、彩は

「分かったわ。自分だけで思い詰めるようなことはしないから、皆、心配しないで」

 と言って笑顔を見せた。


 竜崎と浜本、そしてマリーが、テーブルを囲んでソファーに座っている。テーブルには端末が一つ、その画面には、ピエロの面を被った男が映っていた。

「これがジャフェス・・・」

「まだ、その可能性があるというだけですが」

 画面を食い入るように見つめる竜崎のつぶやきに、マリーは、確定したわけではないことを指摘した。

「どっから見ても怪しい奴だ、ほぼ間違いないだろう。しかし、どうして今になって鬼神を襲うんだ?」

「鬼神さんが目的かどうかも分かりません。現在、紫龍匠の娘も鬼神さんの家にいますし」

「共犯者の娘を襲う理由など、どこにもないぞ」

「例のタグチップがまだ見つかっていません。それを狙っている可能性もあります」

「タグチップを狙う理由もないだろう。何の役にも立たないのに」

 浜本が口をはさんだ。しかし、マリーはその意見を無視して

「いずれにしても、今までの事件に関係する人物である可能性は高いです。紫龍匠と鬼神さん、両方の家の近くに見張りを立てました。監視カメラのチェックも続けていますから、いずれ網にかかるでしょう」

 と2人に説明した。

「逮捕できれば、『ノア』の死んだ理由もわかるかもしれんな」

 竜崎は、マリーの顔に目を向けて話しかけた。

「もう一つ、あのインフェクターの集団についても、何か分かるかも知れません」

「感染させることが目的だから、大量のインフェクターは説明がつくだろう?」

 浜本の意見に対して、マリーは持論を展開した。

「あの教団の目的は、スリーパーを作り出すことではないでしょうか? インフェクターは選ばれなかった人間ですから、処分するのが普通です。実際、インフェクターの死体置き場もあったわけですからね。しかし、大量のインフェクターを一箇所に集めていたということは、何か目的があるはずなのです。でも、その目的が何なのか分からない」

「そう言われると、わざわざ破壊するためにトラップを仕掛けた理由もよく分からんな」

 竜崎も、マリーの意見に納得したようだ。

「何か隠しておきたい秘密でもあったのでしょうか?」

 浜本の疑問に答えられる者はいなかった。

「ところで、鬼神は葉月さんの護衛をしているそうだな」

 竜崎が話題を変えた。

「はい、今日から始めてもらっています」

「『ノア』が死んでもハンターを続けるつもりなんだな」

「今は復讐ではなく、事件の解決を望んでいるようですね」

「心境の変化か・・・何があったのかは分からんが」

「他に生きる目的ができたのかも知れません」

「生きる目的・・・」

 竜崎は、そうつぶやいたまま、ぼんやりと前を見つめていた。その先は、暗闇の中に点々と光る明かりだけが、窓を通して見えるだけであった。

「進むべき道か・・・」

 その声はあまりにも小さく、浜本もマリーも聞き取ることができなかった。

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