第29話 鬼神の過去

 彩は、昼食を食べ終えたところだった。

 朝から母親が付き添い、2人で歓談しながら食事をしていたのだ。

 いつも朝食は一杯のスムージーだけ、昼と夜は職場で食べていたので、前回こうして母親と食事をしたのはいつ頃だったのか、彩も覚えていなかった。

「それにしても、仕事がないと、こんなにも暇になるのね」

「あなたも、あの男性のようにトレーニングしたら? こうして食べてばかりだと太るわよ」

「心配しなくても、私は前から自己流のトレーニングをしてるわ」

「そうなの? でも、一人でするのも退屈でしょ。あの男性といっしょにするといいわよ」

「嫌よ、そんなの」

「どうして? なかなか、いい男だったじゃない」

「よしてよ、お母さん」

「もっと積極的になりなさいよ。せっかくのチャンスじゃない」

「私、ああいうタイプは好みじゃないの」

「じゃあ、やっぱりお見舞いに来ていたあの男性みたいなのがいいのね」

「もう、いい加減にして!」

 腹を立てる彩を見て、母親は吹き出した。

 笑っている母親に、さらに文句を言おうとした時である。ノックの音がした。

「はい?」

 彩が慌てて返事をする。

「鬼神です。今は大丈夫ですか?」

 鬼神の声が聞こえ、彩は慌てて車椅子から立ち上がろうとした。その様子を見た母親が、また声を押し殺して笑っている。

 そんな母親の様子を横目で見ながら

「大丈夫です。鍵は開いていますから、どうぞ入って下さい」

 と彩は応えた。

 鬼神とドナが部屋に入った後、代わりに母親は部屋を出ようとした。

「私は、そろそろ戻るわね」

 母親の言葉に

「えっ、今日は夕方までいる予定じゃなかったの?」

 と彩が尋ねると

「ちょっと用事を思い出してね。それじゃあ、彩、がんばってね」

 そう言い残して、母親は立ち去っていった。

「ごめんなさい、ちょうどお昼を食べ終わったところなの」

 彩が慌てて食器を片付けようとするのを見て、ドナが

「食器なら私が片付けるから、少し屋上へ散歩でもしてきたら?」

 と言いながら手伝い始めた。

「でも・・・」

 彩の言葉を

「鬼神さんは、屋上の庭園をまだ見てないのよね。ぜひ、案内してあげて」

 と遮る。

「庭園か。どんなものか、ちょっと見てみたいな」

 鬼神が興味を示すのを見て

「それじゃあ彩さん、よろしくね」

 と、ドナが彩にウィンクした。


 結局、彩は鬼神と屋上の庭園へ行くことにした。

「これは立派な庭だな」

 様々な色彩で飾られた緑の絨毯からは、ほのかに花の芳香が漂う。中央には真っ直ぐに伸びたナツメヤシが一本、植えられていた。

 庭に向かい合うように木のベンチがあり、鬼神は、車椅子の彩と隣り合うように腰掛けた。

 しばらくは花を眺めていたが、やがて鬼神のほうから彩に話しかけた。

「気持ちはだいぶ落ち着きましたか?」

 彩は

「はい、もう大丈夫です」

 とうなずいた。

「それなら、まずは一安心だ。しかし、これからも辛い思いをすることはあるかも知れない。そんな時は、遠慮せずに泣きなさい」

「えっ?」

 彩は、予想していなかった言葉に少し戸惑った。

「恥ずかしい話だが、俺も何度も涙を流した経験がある。不思議なことに、その後は気分がスッキリするんだ。怖さも少し和らぐ」

 今の鬼神からは、一人で涙を流している姿を想像することはできない。彩は驚いて鬼神のほうを向き

「鬼神さんが涙を?」

 と思わず口にした。その彩の顔をじっと見つめて、鬼神は話を続けた。

「決して諦めちゃダメだ。最後まで闘うんだ。そして、毎日を悔いの残らないように生きること。俺ができるアドバイスはこれくらいさ」

「悔いの残らないようにですか・・・」

 鬼神は、微笑んでいた。

「人はね、いつかは死ぬ。健康な人も、明日には命を落とす可能性はあるんだ。君は感染してしまったが、命を落とす可能性が一つ増えただけだ。誰もが、明日のことはわからないんだ。だから、今日を精一杯生きる。それが人間にとって、一番大事なことだと思うよ」

 彩は、鬼神の笑顔を見て、自分も笑っていることに気づいた。

「はい! ありがとうございます」

 鬼神は、彩の笑顔を見て安心したのか、花の咲く庭に視線を移した。

「君のお母さん、昨日とは別人のように明るかったね」

「きっと、私が心配しないように、無理に明るくしているんだと思うわ」

「それだけかな? 何か、うれしい事があったように見えたな」

「うれしい事ですか?」

「きっと、君にとっていい事に違いないよ」

 彩は、少しうつむいた。しばらくはどちらも言葉を発さなかったが、やがて彩が意を決して口を開いた。

「あの・・・鬼神さん」

「はい?」

 鬼神が、彩の顔を見る。

「えっと、もし差し支えなければ、木魂先輩と知り合ったきっかけを教えて下さいませんか?」

「明日香とですか?」

 鬼神は、少し驚いた顔をしたが、視線を庭のほうへ戻して

「彼女は、高校のときの同級生ですよ」

 と答えた。

「そんなに前から?」

「その頃、俺はいわゆる落ちこぼれでね。卒業も危うい状態だったな。彼女は学年でもトップの成績で、俺とは大違いだった」

 彩は鬼神の横顔を見つめていた。鬼神は笑顔で話を続ける。

「それに、あの頃から美人で有名だった。本当、高嶺の花だったよ」

「でも、不良に絡まれているところを助けて、それから仲良くなったとか?」

「そんなにかっこいいものじゃないよ」

 鬼神は、照れくさそうに笑った。


「また赤点だよ」

 タブレットを手に、髪を短く刈り上げた鬼神は上を向いた。周囲には、鬼神の友人らしき男が数人いる。

「お前、スポーツはすごいのに、勉強は全然ダメだな」

 友人の一人が笑いながら言った。

「違うよ、教え方の問題だよ」

「全教科、教え方が下手ってことかよ」

 別の友人が冷やかし気味に尋ねる。

「その通り。数学の安藤なんて、あいつ教える気ゼロだろ?」

「まあ、あいつは特別だけど、他はまともだぞ。歴史なんて、暗記すれば点が取れるだろ? なんで赤点なんだよ」

「ヤマが外れた。俺は中国に賭けていたんだ」

「そりゃ、絞り込み過ぎだよ」

 鬼神の隣の席に座っていた女の子がクスリと笑った。

「木魂、お前、笑ったな」

 鋭い目で鬼神が睨んだが、顔は笑っている。

「中国のことなんて、ほとんど覚えるところはなかったじゃない。それって、勉強してないのと同じでしょ」

 木魂明日香は、動じることなく反論した。

「お前はいいよな。いつも、いい点が取れるんだもんな」

「あら、私だって努力しているのよ」

「いや、何か手段があるんだろ? 教えてくれよ、勉強法を」

「じゃあ、今度の試験のお勉強、私といっしょにする?」

「えっ、お前と?」

 予想外の提案に、鬼神は驚き、目を丸くした。鬼神だけではない。周囲の友人も表情が固まっている。

「勉強法を覚えたいんでしょ? そんなに簡単に習得できると思ったら大間違いよ」

 明日香は、意地の悪そうな笑みを浮かべている。鬼神は、その顔を見て腹を立てたようだ。

「よし、わかった。いっしょに勉強するよ」

「オーケー。じゃあ、もし平均点以上が取れたら、『オッカム』のフローズン・チョコレート・パイをおごってね」

「お前、それが目当てかよ」

 鬼神の言葉に対して、明日香は舌を少し出して微笑んだ。2人が高校一年の秋の頃のことだった。


 その日の放課後、明日香が鬼神に声をかけた。

「鬼神君、今日は時間ある?」

「えっ? 特に予定はないけど・・・まさか」

「化学の試験は来週でしょ? 時間がないから、今日から勉強するわよ」

「お前、本気なのか?」

「私がデタラメを言うとでも思ったの? 絶対に平均点以上とってもらうわよ。約束も忘れないでね」

「そんなに気合を入れなくてもいいだろ? 学校でちょっと教えてくれればいいよ」

「それくらいでマスターできるわけないでしょ。私がいつも使っている図書館がいいわね。個室があるから、ゆっくり勉強できるわよ」

 そんなやり取りをしていると、明日香と親しい友人たちが、いつの間にか近くにいた。

「木魂さん、鬼神君に勉強を教えるなんて無理よ」

 一人が明日香に助言する。

「なんだよ、無理って。やってみなけりゃ分からないだろ」

 鬼神が反論するが

「分かるわよ、そんなの。まあ、赤点はなんとか免れるかもね」

 と返された。

「言ったな。やってやろうじゃないか。木魂、図書館に行くぞ」

 結局、鬼神は明日香から勉強の手ほどきを受けることになった。


 車での移動中、最初は2人とも黙って窓の外を見ていた。

 沈黙に耐えられなくなったのは鬼神のほうだ。窓の外を見たまま、それとなく明日香に尋ねてみた。

「木魂って、将来どうするか決めてるの?」

 予期せぬ質問に、明日香は鬼神の顔を見つめた。

「どうして?」

「お前、頭がいいから、大学へ進学するんだろ? その後、どんな職業に就くのかと思ってさ」

 少しの間をおいて、明日香は答えた。

「私はね、ジャーナリストになりたいと思っているの」

「ジャーナリスト?」

「いろんなところに取材に行って、それを記事にまとめて報道するの。私のお父さんね、ジャーナリストなのよ。家でも仕事ばかりしてるけど、それがすごく格好よく見えてね。私もあんな風に働きたいなって」

「そうか・・・もう何になるか、決めているんだな」

「鬼神君はどうするの?」

「俺は、なんにも決めてないよ。大学なんて、入れるわけないし、就きたい職業もない」

「鬼神君、スポーツが得意じゃない。何かの選手でも目指したら?」

「体を動かすのは好きだけど、しんどいのはパス」

「えー、もったいないわよ。ほら、少し前にケビン先生とテニスの試合したでしょ? あの人、もともとプロのテニス選手よ。もう少しで勝てそうだったじゃない」

「でも、結局負けたよ」

「先生、すごく褒めてたじゃない」

「あの後、テニス部に入れって、しつこかったよ」

「女の子のファンが増えたの知ってる?」

「なにそれ?」

「鬼神君、意外に女の子のファンが多いのよ。あのテニスの試合で、さらに人数が増えたの」

「そんなの、初耳だよ。あと、意外というのは余分だ」

 明日香が、鬼神の言葉に吹き出した。

「ごめんね。でも、うちのクラスの若菜さんも、鬼神君のファンなの、知ってた?」

 若菜といえば、明日香と人気を二分するクラスのマドンナ的存在だった。

「ふーん、そうなの」

「あら、うれしくないの?」

「若菜、彼氏持ちって聞いたことあるけどな。しかも相手は大学生とか」

「ああ、それね。どうやらお兄さんといっしょに歩いているところを誰かに見られたみたい」

「そうなんだ」

「どうする? 付き合っちゃう?」

 鬼神は、照れくさそうに笑った。

「やめておくよ。クラスの男全員を敵に回すことになる」

「あら、もったいない。もしかして、もう付き合ってる人がいるの?」

「そんなの、いるわけないだろ。俺みたいなのと付き合いたいなんて、よほど風変わりな奴だぜ」

「そうなのかな?」

「そういうお前はどうなの?」

「えっ、私?」

「木魂こそ、恋人がいるんじゃないの?」

 鬼神は笑みを浮かべる。

「さあ、どうかしらね」

 明日香も意味ありげに微笑んだ。

「ふふん、いるみたいだな。誰だよ、いったい?」

 鬼神の問いかけを

「ほら、図書館に着いたわよ」

 とはぐらかし、明日香は先に車を降りた。


「じゃあ、ベンゼンにメタンがくっつくと、何になる?」

「えっと、トルエン」

「正解。じゃあ、ヒドロキシ基がくっつくと?」

「ヒドロキシ基って何だったっけ?」

「OHよ」

「ああ、フェノールか」

「ちゃんと覚えてるじゃない」

「化学式になると、数を覚えるのが大変なんだよな」

「元素の持っている手の数は覚えてるの?」

「手の数?」

「炭素は4本で水素は1本。だから水素が炭素に4つ付いてメタンよ」

「それでメタンはCH4か。じゃあ、エタンになると?」

「エタンは炭素2つでしょ? 炭素同士が1本の手でくっついて、残りの手は6本だから・・・」

「それでC2H6になるのか。でも、炭素同士はどうして1本なんだろ? 2本でもよさそうだけど」

「へえ、鋭いわね。2本の手でくっついた化合物もあるのよ。それがC2H4でエチレン」

 明日香は、ノートに構造式を書きながら鬼神に説明をする。意外にも、鬼神は飲み込みが早く、明日香の説明をすべて理解することができた。

「授業でも、こうやって説明してくれればな」

「あら、私は授業の内容通りに説明しているだけよ。いつもは真面目に聞いてないんじゃないの?」

「そんなことはない。いつの間にか分からなくなるんだよな」

「だって、居眠りしてるじゃない。それじゃあ、分からなくなるのは当然でしょ?」

「ははっ、こうしてマンツーマンで教えてもらえれば、眠ることはないからな」

「眠くならない方法があるわよ」

「どんな方法?」

「アロマオイルを使うの。ほら、これ」

 明日香が、小瓶を取り出してティッシュペーパーに数滴垂らし、鬼神の鼻に近づけた。柑橘系の爽やかな香りがする。

「これはレモンの香りよ。あと、グレープフルーツなんかもおすすめかな」

「そういえば、この香り嗅いだことがあるな。木魂だったのか」

「私だって、眠くなるときはあるもん。こうやってティッシュに垂らして近くに置くの。案外、目が覚めるものよ」

「効果あるかな?」

「あるわよ」

「でも、前に嗅いだ時も、ぐっすり眠ってたからね」

 鬼神がそう答えた瞬間、明日香は目を丸くして口を少しすぼめた。そして次の瞬間、プッと吹き出し、笑い出した。

 その時の顔は、鬼神が大人になっても忘れることはなかった。思えばこの時が、彼女のことを本気で好きになった瞬間なのだろう。

 館内に、閉館を告げる放送が流れた。

「おっと、もうそんな時間なんだな」

「じゃあ、今日はここまでね。明日もここで勉強しようか?」

「俺はいいけど、お前、自分の勉強はいいのか?」

「へえ、心配してくれるの?」

「当たり前だろ。俺のせいで点が悪かったなんて言われたくないからな」

「大丈夫じゃなきゃ、こんなおせっかい焼かないって」

「そうか・・・じゃあ、明日もよろしくな」

 2人は、明日もいっしょに勉強することを約束して、別々の車に乗って家へと帰った。

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