第28話 死神の選択

 病棟の中には、上に昇るためだけのエレベーターが設置されていた。

「このエレベーターは、自由に御利用になって結構です」

 そう言いながら、モニカは屋上を意味するRボタンを押した。

 しばらくしてエレベーターの扉が開く。屋上の景色を見た一同は、思わず感嘆の声を上げた。

 赤、紫、黄など色とりどりの花が咲き乱れる大きな庭が中央にあり、その周囲は広い歩道になっている。上空には透明なドームが張り巡らされ、外からの風を感じることはできないが、周囲の景色を眺めることはできた。

「素敵なお庭ですね」

 麻子が思わず声を出す。

「本当ね。ここなら、ずっといたいくらいよ」

 彩もそう言って麻子の顔を見た。

「普段は、この場所に皆さんいるのですが・・・」

 モニカはしばらく、あたりを見渡していたが、やがて

「あそこにいました」

 と言って指差した。その先には、一人の男性がトレーニングをしている。

「トレーニング中にすみません、白鳥さん。ご紹介したい人がいまして」

 モニカが一礼して男性に話しかけた。

「ああ、モニカさんか。今日は大勢でどうしたの?」

 白鳥と呼ばれたその男性は、細身ながら、かなり鍛えられた筋肉質の体つきで、アッシュグレーの髪を刈り上げ、細いあごにはひげを蓄えている。

「こちら、今日からこの病棟に入ることになった葉月彩さんです。葉月さん、こちらが白鳥風月さんです」

 爽やかな笑みを浮かべ、白鳥は彩に近づいた。

「はじめまして、白鳥です。こんなにかわいい方が来てくれるなんて、うれしいな」

 そう言って差し出された手を見て、彩も手を伸ばしながら

「はじめまして、葉月です。よろしくお願いします」

 とあいさつする。2人を見ていた父親は、少し落ち着かない様子で咳払いをした。

「すごく体を鍛えていらっしゃるのですね」

 彩の言葉に、少し照れながら

「感染してから、トレーニングするようになったんですよ。体を鍛えたほうが、発症も抑えられるんじゃないかと思ってね」

 と白鳥は言葉を返す。

「今日はお一人なのですね。体調に問題はありませんか?」

 フィオナが尋ねた。

「僕はいつも通りですよ。他の2人は今日は見てないですね。蘭くんはお昼寝かな?」

 白鳥は、そう言ってあたりを見回してみる。

「いつもはお勉強があるから、今日みたいな休みの日じゃないと、蘭くんにはなかなか会えないかも知れませんね」

 モニカは彩にそう話しかけた。

「蘭くんというのが、男の子なんですね」

「そうです。ここへ来て8年になるので、実は一番の古株なんですよ」

 そう聞いて、彩は驚いた。

「8年ですか・・・もしかして、生まれたときから?」

「そうですよ。両親もここにいたらしいが、僕が来るより前に、2人とも発症して亡くなったらしいね」

 モニカの代わりに、白鳥が彩に説明する。

 彩は、それ以上のことを聞くのをためらい、話題を変えることにした。

「あなたは、ここへ来てどれくらいに?」

 白鳥に尋ねてみる。

「もう3年経ったかな? 美雪さんという女性がいるんだけど、彼女が1年半くらいだね」

 長年経つと、恐怖が薄らぐのだろうか。深刻に考えているようには見えない。

「怖くないですか?」

 思わず尋ねてしまい、彩は慌てて口を押さえた。

 白鳥の顔から一瞬、笑みが消える。しかし、すぐに元の表情に戻り

「怖くないと言ったら、嘘になるかな」

 と静かに言った。


 浜本は、一人で椅子に座り、タブレットの画像を眺めていた。

 しかし、画像を切り替えることはせず、ずっと同じ写真を映したままだ。

 浜本の目はうつろで、表情は暗い。刑事になってからずっと、竜崎の下で働いてきたのだ。浜本にとって、竜崎は頼りになる兄貴分のような存在だった。

 その大事なパートナーがいなくなる。

 この先、自分が刑事を続けられるのか、その自信さえ失いかけていた。

 マリーが部屋に入ってきたが、浜本は気が付かない。

「浜本さん、竜崎さんの勘が見事に的中しました」

 マリーの突然の報告に、浜本は面食らって

「何の話だ?」

 と問い返す。

「『ノア』とジャフェスの行方です。着ぐるみ姿の人物も鬼神さんにチェックしてもらったところ、気になる写真が見つかったのです」

 マリーは、浜本の持っていたタブレットを操作して、その写真を画面に表示させた。

「これが『ノア』の顔なのか?」

 浜本が怪訝な顔で尋ねる。

「いいえ、鬼神さんの知っている『ノア』の顔とは別人です」

「じゃあ、どうして・・・」

「鬼神さんの話では、黒い瞳が『ノア』に似ていると」

「それだけで、この男が『ノア』だって?」

 浜本は、半笑いでマリーに問いかけた。

「可能性はゼロではありません」

 無表情ながら、マリーは力強く答える。しかし、浜本は大きなため息をついて

「『ノア』は頭を取り替えできるとでもいうのか? そんなの信じられるか」

 とマリーの意見を一蹴した。

「竜崎さんにも見てもらいましょう。今はどちらに?」

 マリーの問いに

「竜崎さんは、刑事を辞めるそうだよ」

 と、そっけない様子で浜本が答えた時、不意に背後から声がした。

「その件はなしだ。マリー、詳しく教えてくれ」

「竜崎さん!」

 浜本は、思わず立ち上がった。振り向くとそこには、竜崎の姿があったのだ。

「これを見て下さい」

 マリーが、浜本の持っていたタブレットを手に取り、竜崎に見せた。

「この男、鬼神さんは『ノア』だと判断したのですが」

 竜崎は、しばらく画面をじっと見つめていたが、やがて低い声でつぶやいた。

「怪しいな。顔つきは全く別物だが、仕草なのか、それとも表情か、今までの写真の男に似たところがある気もする」

「この者たちの足取りを追ってみます」

「頼んだよ、マリー」

 竜崎は笑みを浮かべてマリーの顔を見た。


「それでは、我々がここに出入りするのは自由ということだね」

 彩の父親が尋ねた。

「はい、その通りです。私達は現在、感染者と非感染者が共存する世界におります。その中で、ここにいらっしゃる方々だけ完全に隔離するわけには参りませんから」

 フィオナは、そこまで話した後、少し間をおいて

「但し、感染の危険が全くないわけではありませんので、その点はご注意下さい。特に、血液が付着した場合は速やかに病院側へご連絡をお願いします」

 と付け足した。

 彩たちは病室に戻っていた。しばらくして、両親は、彩の荷物を運ぶためにいったん自宅へ戻り、同時にフィオナとモニカも病室を離れたので、残ったのは彩の他に、麻子とドナだけだ。

「どうしたの、2人とも?」

 麻子とドナは、彩に声を掛けることをためらっていた。彩が、2人のそんな様子に気づいたのだ。

「いや、その・・・彩さん、もう落ち着いたみたいね」

 麻子が、少し慌てながらも、そう話しかけた。

「ごめんね、取り乱してしまって。今は、落ち着いたというより、あきらめたというか・・・ヒステリーになったって、元に戻れるわけじゃないしね」

 彩は、少し笑顔を見せた。しかし、すぐに暗い表情になり、うつむいて話を続ける。

「あの刑事さんに、私、ひどいことを言ってしまった。感染すればいい、なんて・・・」

「彩さんが悪いわけじゃないわ。取り乱していたんだもの、相手もそれは承知していたはずよ」

 ドナが優しく話しかける。彩は、一度小さくうなずいた後

「でも、もう一度会って、謝りたいわ」

 と小さな声で応えた。

「大丈夫。あの人も、もう一度謝りたいと思っているはずよ。きっと、また来るわ」

 ドナは、彩にそう言って微笑みかけた。

「そうだ、好きなことに没頭できれば気分も和らぐわ。何か、趣味にできそうなものを買ってきましょうか? 絵を描くとか、詩を書いてみるとか」

 麻子が、緑青色の目を輝かせながら、彩に提案する。

「そうね・・・絵を描くのって、なんだか面白そうね。でも、詩を書くって柄じゃないから、それは止めておくわ」

 彩は笑顔で麻子の提案を受け入れた。

「じゃあ、今度の休みの日に、画材を買ってきますね」

 麻子の嬉しそうな顔を見て、彩は、少し心が落ち着いたように感じた。


 消灯の時間になった。荷物を運んできた彩の両親に、麻子とドナの2人も、最後まで病室に残っていた。

 彩の母親は、病室に残りたいと申し出たが、それは却下された。基本的に、付き添いはできないのだ。

 両親とドナが病室から出た後も、麻子は彩の手を固く握り締めていた。

「明日も来ますね。学校があるから、夜になっちゃうけど」

 麻子が話しかける。

「ありがとう。すごくうれしいけど・・・でも、無理しないでね。私なら大丈夫だから」

 彩は明るく笑ってみせた。その顔を見て安心したのか、麻子も笑顔で

「じゃあ、おやすみなさい」

 と告げて、病室から出ていった。

 静まり返った病室の中で、彩は一人、車椅子に座ってドアのほうをずっと眺めている。

 人の声がなくなり、どこかで鳴っている単調な電子音が耳につくようになった。

 突然、一人になったことで、自分の置かれた現実をはっきりと認識した気がする。

 今は、発症することに恐怖を感じない。

 この閉鎖空間の中で、外界との接触を遮断されてしまったことのほうが辛かった。

 もう二度と、行きつけの店にも行けず、たくさんの友人にも会えないことが悲しかった。

「どうして、こうなっちゃったんだろう」

 彩は一人、つぶやいた。


 車が走り出し、ドナが外を見ながら

「鬼神さんは、もう帰っているのかしら?」

 とつぶやいた。しかし、対面に座っていた麻子はうつむいたまま黙っている。

 ドナは、麻子のほうへ目を移した。光に反射して、涙のしずくが輝きながら床へと落ちていく。

 その様子を見て、ドナは麻子の横に座った。麻子は泣いていたのだ。今まで、我慢していたのだろうか。

 そっと麻子の頭を抱えて自分の方へと寄せ

「家に着くまで、思う存分泣きなさい。辛かったのよね」

 とささやく。声を押し殺し、麻子は涙を流し続けた。

 父親がいなくなり、頼れる者がいない中、彩は麻子が心を許すことのできる、数少ない大事な親友の一人だ。

 その彩が感染した。よほどの運がない限り、それは死を意味していた。

 麻子にとって、その事実がどれほど辛いものなのか、ドナの電子頭脳は理解することができた。

 ドナの頭脳が、こんな疑問を持った。もし、自分が機能を停止してしまうようなことがあったら、麻子はこうして涙を流すのだろうかと。

 質問してみたいが、今は尋ねるべき時ではない。いつか、機会がある時に聞いてみようとドナは思った。


 鬼神の家の前に着いたときには、麻子も落ち着きを取り戻していた。

 ハンカチで涙を拭い、乱れた髪を手ですいている麻子に

「どう、落ち着いたかな?」

 とドナは笑顔で尋ねた。

「はい。あの、ありがとうございました」

 麻子は恥ずかしそうに答える。

 ドアが開いてすぐに、鬼神が玄関までやって来た。

「今まで、病院にいたのか?」

 鬼神が2人に尋ねる。麻子は「はい」とうなずいた。

 部屋へ入り、鬼神が麻子に問いかける。

「先にご飯は済ませてしまったよ。麻子さんは?」

「病院で彩さんといっしょに食べることができました」

「そうか。彩さんは大丈夫そうかな?」

「帰るときには元気そうでしたが、今は一人で淋しいんじゃないでしょうか」

 鬼神は、ソファに座り、腕を組んだ。

「他に人がいれば、気分も変わるだろうがな」

「18人ほどいるみたいですね」

「18人? ・・・ああ、スラム街の連中か」

「その人たち以外には会うことができるんですけど、3人しかいないみたいですね」

「3人いれば、しばらくは話し相手になるだろうさ。そのうちに、何か打ち込めるものが見つかればいいけどな」

 鬼神は、麻子と同じようなことを口にする。

「鬼神さんは、病棟にいたとき、何かされていましたか?」

 ドナが興味本位で聞いてみた。

「俺は、専らトレーニングだったな。体を鍛えると、病気にも打ち勝てそうな気がしてね」

 麻子が思わず吹き出した。

「今日、お会いした方と同じですね。白鳥さんだったかな?」

「結構、同じことを考える奴は多かったよ。案外、効果があると思うけどな」

「じゃあ明日、彩さんに会ったら、勧めてあげて下さい」

「ああ、思い出したよ。明日は検診だったな」

 憂鬱そうにつぶやく鬼神に

「明日は絶対に受診してもらいますからね」

 とドナは念押しした。


 一通りの検査を終え、最後の問診は、あの端正な顔立ちの医師が相手だ。この医師も、スリーパー相手のアンドロイドである。

 医師は、椅子に腰掛けて鬼神と相対していた。普通なら、検査結果の画像などがモニタに表示されるはずだが、モニタには一切、画像が表示されていない。画像はすべて、医師の頭の中だけにあるのだ。

「鬼神さん、率直に聞きますが、最近、大量に吐血したことがありますね」

 医師の問いに、鬼神は素直に「ある」と答えた。

「はっきり言いましょう。あなたは今、大変危険な状態にあります」

「自分の体のことは、自分が一番よく分かるさ。先生、俺はあと、どのくらい生きられる?」

 医師は、鬼神の目を真っ直ぐに見つめ

「あなたは、いつ死んでもおかしくない状態ですよ」

 と答えた。

 鬼神は、その言葉を予想していたのだろう。すぐに

「寿命を延ばす方法はないのか?」

 と尋ねた。

「スリーパーは臓器への負荷が掛かりやすい。ましてやハンターは体を酷使しますからね。あっという間に臓器が傷んでしまう。でも、あなたは丈夫な体をお持ちのようだ。肺と心臓以外はほとんど異常ないですよ。肺や心臓だって、入れ替えするほど悪いわけじゃない」

「じゃあ、何が悪いんだ?」

「血管です。血管がボロボロの状態なのです。脳や大動脈で破裂すれば、あっという間に死んでしまいますよ」

「じゃあ、どうしようもないのか?」

「いいえ、手段はあります。血管の内壁を、特殊な薬液でコーティングするのです。これで、あと数年は生きられます」

「なら、すぐにでもやってくれよ」

「もちろんです。即入院してもらいます。それから、ハンターの仕事も辞めてもらいます」

 鬼神の動きが一瞬固まった。

「仕事を辞める気はない」

「いいですか、鬼神さん。血管を強化しても、今のような無茶な動作を続けていれば、ほとんど効果は望めませんよ。普通の生活をすれば、2,3年に一度、同じ処置を続ける限り、何歳まででも生き続けることができます」

「いつかはハンターを辞めるつもりだが、今はまだ続けなければならないんだ」

「ダメです。医者として、それは受け入れられない。警察にはすでに連絡済みです。正式に通知があるでしょう」

 医師の話を聞いて、鬼神はうなだれてしまった。


 廊下に出ると、そこにはドナが待っていた。

「結果については、すでに連絡を受けています。入院中の備品は私が準備しますわ」

「その前に警察に行かねばならない。ここで辞めるわけにはいかないんだ」

 歩き出す鬼神をドナは追い掛けた。

「待って下さい。通達があるのは退院後ですから、交渉は、それからでも間に合います。今は、絶対安静にと言われているのです。お願いですから、指示に従って下さい」

 ドナが鬼神の腕を両手でつかみ、引っ張った。鬼神が、振り返ってドナの顔を見る。ドナは真剣な表情だ。

「死んでしまっては、取り返しがつかないのです。お願い、医師の指示に従って」

 鬼神は、しばらくドナの顔を見つめていた。ドナも鬼神から視線を外さない。

「・・・分かったよ。でも、葉月さんの様子を見に行くくらいはいいだろう?」

 鬼神は、そう言って笑みを浮かべた。

「もちろんです。案内します」

 ドナの顔にも、誰もが魅了されそうなほど美しい笑みがこぼれた。

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