第24話 2つのミラクル

 鬼神と小谷は、立花・大城のチームが到着するのを待っていた。

「大変だったそうじゃないか?」

 顔を見るなり、立花が尋ねる。

「2度とこんなのはごめんだよ」

 小谷が立花に言葉を返した。

「途中、インフェクターは現れなかったが、この先は出そうなのか?」

 大城の問いに、鬼神は

「行ってみないとわからんな。まあ、用心はしたほうがいい」

 と肩をすくめた。

 こうして全員体制で奥へと進んでいったわけだが、途中、インフェクターが現れることはなく、拍子抜けするほどあっさりと、最深部の袋小路へ到達した。

「なんだ、ここは?」

 大城が思わずうなったのも無理はない。床には例の不気味な模様が描かれていた。至るところ人骨が散らばり、溶けた赤いろうそくが点々と置かれている。

 目の前には巨大な汚れた布が掛けられていた。元々、白かったのだろうが、今は茶色く変色し、ところどころに黒いシミもある。

 人工太陽の下で、全てをさらけ出したその場所は、以前の暗闇の中ではさらに不気味に見えたことだろう。

 まるで、人の闇の中を覗いているような気がして、ハンターたち4人は一同に言葉を失ってしまった。

「ここも、祭壇として使われていたのでしょうか?」

 マリーの声で、鬼神は我に返った。

「そのようだな。ここには、あの拷問台はないみたいだが」

 鬼神の言う通り、鉄柱は立っていない。

 祭壇の奥に進むと、そこには台が置かれていた。金属製の皿は黒く変色し、中には干しぶどうのような黒い塊が入っている。その横にある背の高い壺を手に取り、振ってみるが、当然のごとく中身は空だ。

 布の向こう側は瓦礫の山があるだけだった。完全にふさがっていて、反対側に出ることはできない。ここは、完全な袋小路らしい。

 この後の作業は大変だ。たくさんの白骨はできるだけ回収し、インフェクターの死体はカプセルに入れて運ぶ。破壊されたアンドロイドも、修理のために拾わなければならない。

 アンドロイドたちが作業をしている間、鬼神を除く3人のハンターは、インフェクターの出現に備えて護衛役をすることになった。

 そして鬼神は一人、他に隠された通路や部屋がないかチェックする仕事を担当した。マリーは全体の指揮をとるため、損傷がひどく力仕事の困難なイヴがサポート役だ。

「大丈夫なのか?」

 イヴの状態はかなりひどいように見えた。右腕や顔だけではない。衣服はボロボロにされ、上半身は完全に裸の状態である。腹部の皮膚もめくれ、その下にある人工筋肉がむき出しになっていた。背中の肩甲骨にあたる箇所は、両側ともへこんでいる。上から強い力で圧迫されたからであろう。人間ならば、おそらく絶対安静の状態だ。いや、右腕を引き抜かれているのだから、下手すれば死んでいる。

「幸い、内部の機器に大きな異常はありません。外部の損傷だけで済みましたから」

 イヴは冷静に答えた。

「じゃあ、何も見つからないと思うが、調査を開始するか」

 まずは祭壇の中を調べてみる。鬼神にはひとつだけ、気になる場所があった。壁にあった亀裂である。人が横になれば入れるくらいの幅で、その周りには例の不気味な模様が彫られている。いかにも何かがありそうな雰囲気だ。

「俺一人で入ってみよう」

「気をつけて下さい」

 そう言って見送るイヴに、鬼神は片手を挙げながらウィンクして見せた。亀裂へ目をやると、中にライトで光を当ててみる。どうやら、すぐに通り抜けられそうだ。その奥には広い空間が広がっている。

 狭い亀裂をすり抜け、中に侵入した鬼神は、奥の方にゆっくりと点滅する赤い光を見つけた。

「なんだ、あれは?」

 そうつぶやきながらライトの光を当てる。何かの装置らしい。

 鬼神は、よく調べようと考え、近づいていった。金属製の筒のようなもので、その上部に発光体が付いているらしい。

 もう少しで、手に触れられるあたりまで来たところで、発光体の点滅が早くなった。点滅に合わせて、電子音が鳴り響く。

 嫌な予感がした。すぐに出口まで走り、光の漏れている亀裂をすり抜ける。

「イヴ、伏せろ!」

 鬼神はそう叫びながら、イヴの頭を抱えて倒れ込んだ。イヴはなすすべもなく、仰向けに転がった。

 その瞬間、低い爆発音とともに地響きが起こり、細かく砕かれた石が2人に降り注いだ。

「何があったのですか?」

 両手を上げて寝そべったまま、イヴは鬼神に尋ねた。

「爆薬が仕掛けられていたらしいな。センサーに反応して爆発する仕組みだったのだろう」

 鬼神は起き上がり、イヴの手を引いて起こしてあげた。

 しかし、危機が去ったわけではない。

 岩が崩れ落ちるような低く唸る音があたりに響いた後、床のあちこちに亀裂が入り始めた。

「やばい、崩壊するぞ!」

 すぐに祭壇から外へと駆け始めながら、周囲に

「ここからすぐに逃げろ」

 と大きな声で叫ぶ。

 背後では、すでに床が崩壊を始めていた。その下は何もない空洞だ。どこまで落ちるのか検討もつかない。

 遺体などの回収をしていたアンドロイドたちは、作業を中断して逃げ始めている。

 3人のハンターは、祭壇からだいぶ離れた場所にいた。

 しかし、床が崩壊する音とともに、地面が揺れるのをそこからも感じていた。

「何の騒ぎ?」

 立花が、祭壇の方向へ目をやりながら、怪訝な顔でつぶやいた。

「すぐにここから避難して下さい。崩壊が始まっているようです」

 マリーの声を聞いて、3人はすぐに走り出した。

 周囲のアンドロイドも避難を始める中、マリーは一人、祭壇のほうを眺めていた。


 純白のレースのカーテンが、どこからともなく流れる風に揺れている。表面は、まるで宝石でも散りばめたようにキラキラと輝き、何の飾り気もない真っ白な部屋のアクセントとなっていた。

 チェロの深く柔らかな音色があたりを包む。バッハの『無伴奏チェロ組曲』だ。椅子に座り、膝の上で手を組んで、『ノア』は一人、目を閉じ、静かに聞き入っていた。

 その部屋に、ジャフェスがゆっくりと入ってきた。

「どうした・・・ジャフェスよ」

 穏やかな声で、『ノア』は尋ねた。

「実験場の起爆装置が作動したようです」

「ほう・・・ついに見つけられたか」

「隠しておくことなど不可能でしょうから」

 その言葉を聞いて、『ノア』はジャフェスの顔を見た。

「その通りじゃな」

「長い期間を費やして築いたものを、一瞬で壊してしまうのは、少々もったいない気もしますが」

「あれは単なる実験の場に過ぎぬ。私の目指す作品からは程遠い。そんなものを残しておくことなど耐えられぬからな」

 ジャフェスは、それ以上は何も言わなかった。

「お前は知っているか?」

 『ノア』は視線を前方に戻し、話を続けた。

「このチェロの奏者は春岡清という。3年ほど前に亡くなったが、その直前まで精力的に活動しておった」

「名前は存じ上げております。有名な人でしたから」

「そう、私はこれほど表現豊かな音を聞いたことはない。誰もが認める素晴らしい奏者だが、世間では別の意味で有名だったな」

「たくさんのスキャンダルが報じられました」

「ふふっ、とんでもない色魔だったらしい。とてもそんな人間が奏でる音だとは思えぬだろう」

 ジャフェスはうなずいたが、『ノア』は前を向いたままだ。

「人に求められるもの、それは結果だよ。どんなに歪んでいようが、素晴らしいものを残すことができれば、こうして後世に伝えられる。だから、中途半端な作品を残すことは、私は断じて許容できぬ」

「作品・・・ですか」

 ジャフェスの言葉を聞いて、『ノア』は再び視線を向けた。黒い目が異様に光る。

「ジャフェスよ。人はな、汚れておる。その汚れを心の奥底へ沈殿させ、きれいな上澄みだけを使って作品は作られるのだ。ものを生み出すというのは、それだけ多くのエネルギーが必要になる」

「私は・・・作品を生み出すなんてしたことはありません。破壊のみです」

「ふむ・・・しかしな、ジャフェスよ。時には破壊も必要なのだ。その中から、新たに生まれるものもあるからな」

 不気味な笑みを浮かべる『ノア』の顔を、ジャフェスは黙って見つめていた。

「お前は将来、何かを破壊する運命にあるようだ。それが何かは分からぬが・・・そのおかげで、生まれるものもあるようだな」

 『ノア』の予言を聞き、ジャフェスは自分が何を破壊するのか疑問に思った。

「何を破壊するのかは分からないのですか?」

「残念ながら、そこまでは見えぬのだ。しかし、お前にとって大切なものらしい」

 『ノア』の顔から突然、笑みが消えた。

「未来は、変えられる。失いたくなければ、抗うことだ」

 ジャフェスが気づいた時には、『ノア』は前を向き、目を閉じていた。その顔には、穏やかな笑みが戻っていた。


 今、彩の目の前にはインフェクターの顔が見える。2人を隔てているのは、一面に生えたツタだけであった。

 彩は、体の震えが止まらず、歯をカチカチと鳴らしながら相手の顔を見ていた。インフェクターは、横を向いたまま、まるで蝋人形のように微動だにしない。

 しばらくして、ゆっくりと、インフェクターはツタのほうへと顔を向ける。彩は、インフェクターが自分の顔を捉えたように思い、目を固く閉じた。しかし、インフェクターはそのまま反対方向へ向き、歩き出した。

 その時、彩は耐えられずに

「ヒィー」

 と声を出してしまった。

 麻子は、子犬の悲鳴のような声に体をビクッとさせ、ドナは慌ててインフェクターの姿を確認した。

 インフェクターは、声に反応してツタのほうへと体を向けていた。唸り声を上げ、そのまま中へと侵入してくる。

 そこはちょうど、麻子とドナの間の空間だった。2人はツタの中から飛び出し、お互いに反対方向へ逃げていく。

 インフェクターは、それに気づいて外に飛び出した。麻子の姿を捉え、すぐに追い掛け始める。

「麻子ちゃん、逃げて!」

 その様子を見ていたドナが叫んだ。麻子は、インフェクターが自分を追い掛けてくるのを見て、一気に加速した。

 信じられなかった。体が浮いたかのように軽く感じた。今まで、危険だからと力をセーブしてきた。だから、こんなに速く走ることができるとは思ってもいなかったのだ。

 あまりの速さに、ブレーキをうまく掛けることができない。あっという間にエレベータの扉に近づき、そのまま激突してしまった。

 思い切り肩をぶつけてしまい顔をしかめたが、インフェクターはすぐ近くまで迫っている。痛みをこらえ、草むらの中へと足を踏み入れた。


 ドナは、東屋まで戻り、そこで彩を下ろした。

「あなたはここで待っていて。麻子ちゃんを助けに行ってくるわ」

「ごめんなさい、私のせいでこんな・・・」

 彩は、両手で顔を覆い、泣きじゃくっていた。

「今は悔やんでも仕方ないわ。まずは、全員が助かるよう努力しましょう。あなたは、ここで静かに待っていてちょうだい」

 その言葉に、彩はただ何度もうなずくだけだった。ドナは、それを見届けてすぐにエレベーターのある場所へと走っていった。


 草木の間を縫いながら、麻子はひたすら走った。その背後から、インフェクターが追いかける。

 植物の生い茂る場所はすぐに途絶え、道が横切っている場所へとたどり着いた。今度は道沿いに逃げていく。そしてしばらく進んでから、背の高い草の生えている場所を見つけてその中へと入り込んだ。

 すぐに身をかがめ、息をひそめる。間髪を入れずにインフェクターがやって来た。麻子は、そのまま通り過ぎてくれることを祈った。

 しかし、インフェクターは麻子の近くまで来たところでピタリと進行を止めた。そのまま、じっと動かない。麻子が隠れていることに勘づいたのか、単なる気まぐれなのか、顔を見ても判断ができなかった。

 麻子は、相手が動き出すのを辛抱強く待った。恐怖で心臓が波打つのを嫌でも意識してしまう。その音が相手に聞こえでもしないかと不安になるのだ。

 こんな時に、麻子はなぜか子供の頃を思い出した。近所の子供達と一度だけ、かくれんぼをして遊んだことがある。鬼が近くまで来た時、なんとかして心臓の鼓動を抑えようとした。そんなことを考えているうちに、鬼に見つかってしまったのだ。次の日もいっしょに遊ぼうと約束した。しかし、それは果たされなかった。その時は、どうして仲間に入れてもらえないのか理解できず、泣いて父親に訴えたのを記憶している。

 父親のことを思い出し、不思議と勇気が湧いてきた。麻子には、自分のやるべきことが明確になった気がした。それを達成するまでは死ぬわけにはいかない。

 ふと気がつくと、インフェクターの姿がない。いつの間にか、どこかへ行ってしまったらしい。

 草むらからそっと頭だけを出し、行方を探してみる。しかし、インフェクターは見当たらなかった。麻子は、道に向かって静かに移動を始めた。

 道へ出ると、遠くにドナと、もうひとり見知らぬ男がいた。2人が自分に気づいたのが分かり、麻子は少し安心することができた。

「大丈夫、麻子ちゃん?」

 ドナの問いかけに、麻子は大きくうなずいた。

「インフェクターはどこへ?」

 男が尋ねる。救助に来たハンターだと麻子は気がついた。

「わかりません。気づいた時には、もう姿が見えなくて」

 その言葉を聞いて、ハンターはあたりを見回した。

「もうひとり、隠れている子がいるの。まずは、そこまで行きましょう」

 ドナがハンターに訴えかける。3人は、彩のいる東屋へと移動を開始した。


 彩は一人、膝を抱えて座っていた。その表情は暗く沈んでいた。

 もし、麻子の身に何かあれば、その責任は自分にある。そう考えると、彩自身も麻子を助けに行きたかった。しかし、恐怖で足がすくむ。たとえ怪我を負っていなくても、この場を離れる勇気はなかった。

 麻子やドナへの申し訳ないという気持ちと、自分の勇気のなさに対する嫌悪感で、今は誰にも会いたくはなかった。一人でいることは心細いが、2人に顔を合わせるのが怖くもあったのだ。

 そのことに気を取られ、周囲の警戒をおろそかにしてしまった。突然、近くで物音がして、ハッと我に返る。顔を上げると、近くにインフェクターが立っているのが見えた。

 インフェクターの体は、彩の方を向いているが、その目は彩ではなく、もっと遠くのほうを見ているようだった。しかし、今動けば勘付かれるかもしれない。彩は、とっさに動くことができなかった。

 どちらも、ゼンマイの切れた人形のように、動きを停止している。インフェクターの顔の表面は、鼻や口から出た血が固まって、網の目のような模様になっていた。口の中が切れているのか、端から新たな血が唾液と一緒に流れ出て、あごのあたりから糸を引きながらポタポタと落ちている。

 彩は、一人でこの危機を乗り越えなければならない。そう思った時、ほんの少しだけ勇気が得られた気がした。ゆっくりと、ほとんど気が付かないと思えるくらいのスピードで、囲いに隠れるように移動を始めた。その間も、インフェクターの顔から視線は外さない。

 気づかれるのではないか。もしそうなったら、すぐに襲いかかってくるだろう。そう考えると、恐怖で涙があふれ出てきた。しかし、じっとしていても同じことである。今はこれしか方法はないと自分に言い聞かせた。

 囲いの影に入ると、インフェクターの姿は全く見えなくなる。しかし、かすかな唸り声が、まだ同じ場所にとどまっていることを示していた。

 囲いには、ベンチが取り付けられていた。その下側に、体を曲げれば入れるくらいのスペースがある。彩は、その中に素早く入り、息を潜めた。

 ちょうど、彩がベンチの下側に入り終えた時である。インフェクターが東屋の中に侵入してきた。あのままじっとしていたら、すぐに見つかって殺されていたところだ。

 しかし、なぜ、インフェクターは東屋の中に入ってきたのだろうか?

 彩は疑問に思った。

(もしかして、気づかれた?)

 その時、狼の遠吠えのような声が聞こえた。その声はどんどん高くなり、やがて消え入った。そして、背中に衝撃が走った。何かをぶつけられたように感じたが、彩には何が起こったのか分からない。

 インフェクターは、ベンチに思い切り両手をぶつけたのだ。そのせいで、板は見事に砕け散った。その破片が、彩の背中に当たったのである。

 服の背中部分をつかまれた気がして、彩は慌ててインフェクターの足にしがみついた。そのせいで、インフェクターはバランスを失い、仰向けに倒れる。

 反対側のベンチの板に後頭部をぶつけ、インフェクターは叫び声を上げながら頭を抱え、転げ回った。そのわずかな時間に、彩は四つん這いになって東屋から脱出するが、インフェクターはすぐに立ち上がり、彩の後を追った。

 彩は、何か闘うための武器がないか、あたりを探した。しかし、そんなものはどこにもなかった。あるのは、色とりどりの花だけ。今は何の役にも立たない。

 インフェクターは、すぐ後ろにまで迫っているのが気配でわかる。素手でインフェクターにかなうとは思えないが、他に手段がない。

 いや、ひとつあった。いつも持ち歩いている、いざという時のためのものがポケットの中にあった。

 彩は、それを取り出し、仰向けに転がった。目の前に、馬乗りになろうとしていたインフェクターの顔が近づく。その右腕は大きく振り上げられていた。

 その顔に、彩は手に持ったものを向けた。何かが噴射され、インフェクターの顔にかかる。たちまち、インフェクターが悲鳴を上げ、顔を押さえて倒れた。

 足をバタバタさせながら、インフェクターは顔を押さえて転げ回っていた。苦しげな声が口から漏れ、それは猿が罠にでも掛かったときのようだった。

 彩が、その姿を目で追いながら後ずさっていたとき、誰かが肩に触れるのを感じた。慌てて後ろを振り向くと、そこにはドナの美しい顔があった。

「もう大丈夫よ、彩さん」

 彩の横をすり抜け、インフェクターへと近づく者がいた。男だ。暴れまわるインフェクターの手首あたりをつかみ、軽くひねっただけで、インフェクターは顔を地面にこすりつけ、動けなくなった。そのまま、男が顔のあたりを踏みつける。骨の折れる乾いた音がして、インフェクターは絶命した。


 背後では面白いように地面が建物ごと崩れ落ちていく。轟音が鳴り響き、あたりに塵が巻き上がる。その中を、鬼神とイヴの2人はひたすら走った。鬼神のほうが速く走ることができるはずだが、イヴの手を引き、いっしょに走るのを見てイヴが

「私のことはいいから、早く逃げて下さい」

 と叫んだ。

「そんな夢見の悪いことができるか。いいから黙って走れ」

 鬼神はそう言って笑う。

 床は沈み、傾いて、まるで流氷の上を走っているみたいだ。気を抜けば、たちまち落下してしまうだろう。それにしても、奥から徐々に壊れていくように最初から計算されていたらしく、仕掛けた相手は、こうして逃げ惑う姿を想像していたのかも知れない。なんとも悪趣味な輩である。それとも、助かるチャンスを与えてくれた慈悲深い者なのだろうか。

 今のところ、いっしょに逃げているアンドロイドにも脱落者はいない。鬼神とイヴが後塵を拝している状態で、最初に落下するなら、この2人になるだろう。

 わずかながら、崩れるスピードのほうが速いようだ。目の前の床に亀裂が入り、それをジャンプしながら2人は走り続ける。並の運動神経ならこんなアクロバットはできないであろう。スリーパーの鬼神だけでなく、アンドロイドの身体能力にも驚くべきものがあった。

 亀裂が入り始める位置がだんだんと前側に移動していく。落下する岩盤の傾きはどんどん大きくなり、急な上り坂になるに従って、走る速度は少しずつ落ちていく。

「このままでは落下します」

 イヴがまた叫ぶ。

「ハンターは死なない」

 危険な任務にもかかわらず、ハンターが事故で死亡したことは本当に一度もなかった。警察官でも数年に一件は死亡事故があることを考えると、これは奇跡的なことである。

 とは言え、この状況の中、鬼神が本気でそう考えていたのか、それは分からない。

 突然、目の前の床が顔のあたりの高さに迫った。

「飛ぶんだ!」

 鬼神が掛け声とともに大きくジャンプする。イヴも、その言葉に従い思い切り飛んだ。

 鬼神の体は、床の上に着地できたが、イヴは距離も高さも足りなかった。

 イヴは、右腕一本で端にぶら下がり、鬼神は素早く地面に這いつくばってイヴの右腕をつかんだ。

 幸い、崩壊はそこで終わった。床は一直線に切り離され、その下には分厚い金属がむき出しになっている。

「よし、引き上げるぞ」

 イヴの右腕を、両手で引っ張って持ち上げようとした時、イヴの右肩から腕が外れかかった。パーツが完全には一致しないため、中途半端に取り付けられていたのだ。

「いかん、左腕を伸ばせ!」

 イヴが左腕を伸ばす。その腕を右手でつかもうとするが、先にイヴの右腕が完全に外れてしまった。

 落下し始めるイヴの左手首をかろうじて右手でつかむ。鬼神は上半身まで身を乗り出していた。

 持っていたイヴの右腕は捨て去り、左手で地面を押して徐々に自分の体を持ち上げる。右腕は、闇の中に吸い込まれ、すぐに見えなくなった。

 正座の状態になって、さらに両手でイヴの左腕をしっかりとらえた。

「もう大丈夫だ」

 イヴの体をゆっくりと引き上げる。背後からマリーや他のハンターたちがやって来て、作業を手伝ってくれた。

 イヴの無事を確認すると、鬼神はその場に仰向けに寝転がった。息が荒い。

「いったい、何があったんだ?」

 小谷が鬼神に尋ねた。

「爆薬が仕掛けられていた。このあたり全て破壊するつもりだったんだろう」

 上半身だけを起こし、鬼神が答える。

 その時、イヴが鬼神に顔を近づけた。

「どうした?」

 鬼神が尋ねると、イヴは鬼神の頬にキスをした。

「ありがとう、鬼神さん。おかげで助かったわ」

 屈託のない笑顔は、たとえ顔に傷を負っていても輝いて見えた。

 鬼神が、あっけにとられてイヴの顔を見る。鬼神だけでなく、他のハンターたちも驚いた顔で2人を見つめていた。

「驚いたねえ。これは一種の愛情表現かな?」

 立花が冷やかしの言葉を放つ。

「よしてくれ、そんなわけないだろ」

 そう言いながらも、鬼神はイヴに対して笑みを返した。

 その様子を見ていたマリーの顔が、心なしかこわばっているように見えた。

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