第12話 スラム街の逃走劇

「とうとう見つけましたね」

 浜本が、段ボール箱のフラップ(蓋)を指で開いて中を見た。

「ああ。しかし、なぜ森林地帯に捨てられていたんだ?」

 竜崎が不思議そうにあたりを見回す。

 警察は、ついに行方不明となっていたアンドロイドの首を見つけることができた。

 いつも森林地帯を散歩している例のホビットが第一発見者だ。

「マリー、ここまであれを運んだ者がいるはずだ。車の使用履歴からトレースできないか?」

 発見者と話をしていたマリーに竜崎が大声で尋ねた。

「第一発見者の溝辺さんはいつも昼頃にここを訪れているそうです。それを除外すると、6月3日の夕方4時頃に車が1台、ここまで来ています」

 竜崎は、マリーが話を続けるのを待った。

「残念ながら、その車に乗車したのが誰かは特定できませんでした。C-3エリアの3フロアで乗車していますね」

「スラム街に近いな」

「森林地帯で車を待たせておいて、あの箱を設置した後、同じ車で移動しています。その行き先はF-2エリアの商業スペースです」

「ドライブレコーダーには・・・映っていないよな」

「はい、映っていません。それから、もう一つ、6月3日の夜10時頃にも車が1台来ていますね」

「誰だ?」

「おそらく鬼神さんかと」

 竜崎は片側の眉を上げた。

「翌朝、車が呼び出されています。森林地帯で一夜を明かした後、車で移動した模様です」

「どこまで?」

「C-3エリアの3フロアです」

 マリーの言葉を聞いて竜崎は右手で顎をさすった。

「スラム街に何かありますね」

 竜崎は、ただうなずくだけだった。


 麻子は、チャイムの音に体をピクリと動かした。

 朝食を作っているとき、その日の最初のチャイムが鳴った。モニタを見ると、見知らぬ男が2人、ドアの前に立っている。

 それが誰なのか、麻子には見当がついていた。マスコミ関係に違いない。無視することに決めた。

 しかし、相手はあきらめない。モニタに映る男は3パターン。それが交代でやってきてはチャイムを鳴らす。

 タブレットを見ると、紫龍匠のことではなく、自分のほうが話題になっていた。

『悲劇の美少女! 父はなぜ殺人犯となったのか?』

『死亡した殺人犯に娘が! 今、何を思うのか?』

『動機解明の鍵になるか? 連続殺人犯に娘が』

 顔は伏せてあったが、家の近くで撮られた画像が掲載されている。いつまでこんな騒ぎに巻き込まれることになるのかと、麻子はうんざりした顔でその画像を眺めていた。

 またチャイムの音が鳴り、麻子は耳を押さえた。

 まだ子供の麻子に、このような仕打ちは耐えられるはずがなかった。


 モニタの前に座り、彩は真剣な顔で画面を見ていた。

 そこには、何枚かの写真が並んで表示されている。モデルがきれいな服を着てポーズをとっている写真ばかりだ。

 今、彼女は編集作業をしていた。公開する写真をどれにするか、選別していたのだ。

 周りでは他にも、たくさんの男女が彩と同じようにモニタにかじりついている。その間を慌てて走る者や、テーブルを囲んで立ったままミーティングをしている姿もあった。

 そんな中で、彩の電話の着信音が鳴った。

 モニタを凝視したまま、机の上の電話を手に持ち、耳に当てる。

「もしもし、葉月です」

「あの・・・麻子です」

 彩の目がモニタから離れた。

「あら、麻子さん・・・どうしたの? 元気がないみたいだけど」

「いえ、あの、今日はお会いすることはできますか?」

「それなら、昼頃には暇になるから、いっしょに昼食でもどう?」

「はい、それじゃあ、昼前にそちらにお邪魔します」

「じゃあ、会社のロビーで待ってて・・・でも、今日は学校はどうしたの?」

「休みをとったんです。ちょっと、授業を受けられる状態じゃなくて」

「そう・・・わかった。あとは、会ってお話しましょう」

 電話が切れた後も、彩はしばらくの間、耳から電話を離さなかった。


「スラム街に入る方法はひとつ。3フロアから非常階段を使うしかない」

 竜崎は、端末を操作しながら口を開いた。

「有名ですからね、あの場所は」

 浜本が横で端末を覗きながら相槌を打つ。

「世捨て人が、あの場所に集まってくる。どうやって生活しているのかは分からんが」

「それを取り締まらないのもどうかと思いますけどね」

 竜崎が浜本へと目を向けた。

「誰も文句は言わないからな。自分の利益にならないことは避けるのさ、お偉いさんは」

 竜崎は浜本に対して笑みを送り、そばで2人の様子を見ていたマリーの方へ顔を向けた。

「相手はスリーパーだ。それに汚染地帯にも近いから、ハンターとアンドロイドを送り込むか」

 マリーは無表情なまま

「すでにハンターを3人確保しています。アンドロイドは50名ほど」

 と竜崎に説明した。

「気合いが入ってるな」

「相手は集団感染事件の首謀者です。なんとしても捕らえたいですから」

「おい、あれは俺の勘でしかないぞ」

「私は、竜崎さんの勘を信じます」

 マリーの表情に決意のようなものを感じ、竜崎は少し面食らった様子でマリーの顔を見つめた。

「許可が下り次第、出動します。指揮は私がとります」

 力強いマリーの声に、竜崎は

「わかった、いい知らせを待っているよ」

 と笑みをこぼした。


 彩がロビーを見渡すと、麻子が窓際にあるソファに腰掛けているのが見えた。うつむいたまま、暗い表情をしていた。

「お待たせ」

 わざと明るい口調で彩は麻子に声を掛けた。

 麻子は、口を半開きにしたまま彩の顔をじっと見た。何かを言おうとしたようだが、声にならない。たちまち目に涙を浮かべる様子をみて、彩は

「どうしたの? 大丈夫?」

 と麻子の横に腰掛けた。

「ごめんなさい」

「何も謝ることはないのよ。なにか辛いことでもあったの?」

 涙のしずくが、ひざの上に置いた手に落ちる。彩は、麻子が落ち着くまでじっと待つしかなかった。


「どう、落ち着いた?」

 彩は麻子にそっと問いかけた。

「はい、あの、ごめんなさい」

「気にしないで。それより、何があったのか聞かせて」

「その、マスコミに追い掛けられて」

「えっ!?」

 彩は、他に麻子を勧誘している連中でもいるのかと思った。

「家にも押しかけてくるようになって」

「それはひどいわね」

「家から車に乗ろうとしたときも、後ろから追い掛けてきて・・・」

「そんなにしつこく勧誘してくるの?」

「いえ、勧誘じゃないんです」

「じゃあ、どうして?」

「私、紫龍匠の娘なんです」

「紫龍匠・・・」

 彩は、その名前を思い出し、目を丸くした。

「あなたが、あの犯人の娘さん?」

 麻子は、小さくうなずいた。

 彩にとっては思いがけない話だった。そして、自分の会社のメンバーが、まさに今、彼女を追っていることを思い出した。

 うつむいたまま、不安そうな顔をした麻子を見て、彩は

「ごめんね。つらい思いをさせてしまったわね」

 と謝ることしかできなかった。


 鬼神が気づいたときには、すでに『ノア』も『ハイエナ』たちも消えていた。

 ゆっくりと立ち上がってみたが、まるで酒に酔っているような気分だ。

 目の焦点が定まらず、あらゆるものが二重に見える。カウンターに手をついて、治まるのを待った。

 皿の上に、燃えカスが残っている。何の成分が入っているのかは検討もつかない。

 奥の棚に、様々な瓶が並べられているのがぼんやりと見えた。どれも、ドラッグの類であろう。

 とりあえず、外の空気を吸おうと、扉を開けて店から出た。何度か深呼吸をしているうちに、頭のふらつきは治まっていった。

 店の外に、なぜか奪われたプラズマガンが捨てられていた。必要ないと判断したのだろうか。鬼神はプラズマガンを拾い、ホルダーにしまった。

 気を失ってからどれくらい経ったのか、確認しようと鬼神は腕時計を見て唖然とした。時刻は夕方の5時。考えてみれば、頭を殴られてからどれくらい経過していたのかも、はっきりとは分からない。『ノア』たちがこの場を立ち去ってから、どれくらい時間が過ぎたのか定かではないが、今はとにかく彼らを追跡することしか考えていなかった。

 まずは、出口を探さなければならない。今のところ、出られそうな場所は見つからなかったからだ。鬼神は、通路のさらに奥へと進んでみた。

 つきあたりはT字路であり、左右の道の先はシャッターで塞がれている。外へと出られそうな場所は見つからなかった。

 来た道を引き返し、『アベル』の前を通り過ぎる。しばらく進んだところで壁にくぼみがあるのを見つけた。中を覗き込むと、そこはエレベーターホールだった。

 エレベーターの呼び出しボタンが点灯している。白く塗られた扉は3つあり、その上には階数が表示されている。それぞれの階数は1、5、20だ。試しに呼び出しボタンを押してみた。

 チンというベルの音とともに扉のひとつがすぐ開いた。エレベーターはまだ正常に稼働しているようだ。

 中へ入り、操作パネルを眺めると、1から20までの番号が並んでいる。鬼神は、5のボタンを押した。

 エレベーターは、上昇を始めた。


「なぜ、あの男をガイドに選んだのですか?」

 ジャフェスは『ノア』に尋ねた。

「彼と私が出会ったのは偶然ではない。彼が我々の進化、再生への鍵になるだろう」

 『ノア』はジャフェスに答えた。

 2人は、道の上を並んで歩いていた。光はほとんどなく、周囲の建物は紺青色に染まっていた。

「お前は、なぜ自分が選ばれないのか不満なのだな」

 『ノア』はまっすぐに前を向いたまま、ジャフェスに問いただした。

「私は、たしかに罪を犯しました」

「そう、しかも2つだ。お前は、許されることはないだろう」

「しかし、木魂明日香は裏切り者です。罪深い女です」

「私は生きたまま連れてこいと言ったはずだ」

「天に召されることに変わりはありません」

「違う。苦痛の中で罪は浄化される。そのチャンスをお前はふいにしたのだ」

 ジャフェスは口をつぐんでしまった。『ノア』は話を続ける。

「そして、お前は何の罪もない娘を連れてきた。それだけではない。お前は自らの血をあの娘に注いだのだ」

「私は罰を受けました。三日三晩、あらゆる責苦に耐えました」

「あれだけで許されると思うのか」

「私は、あなたの教えに従い、血を受け入れました。そして、私は選ばれた。その私をなぜ、これほどまでに苦しめるのですか?」

「苦しみの中で、人は罪を許されるのだ。お前は、これからも苦しみを背負わねばならない」

 『ノア』は立ち止まり、ジャフェスをじっと見た。ジャフェスには、『ノア』の黒い目が怒りを宿していることを悟った。

「自由などを望んではならぬ。お前は一生、我が手足となり労役に服すのだ」

 ジャフェスは、『ノア』に対して深々と頭を下げた。


 鬼神は、天井を仰ぎ見た。

 そこは非常に大きなホールであった。3階まで席があり、広い舞台が薄明かりに照らされている。

 鬼神は、ゆっくりと舞台へと近づいた。

 足下は暗く、ところどころで段になっているため気をつけて進む必要があった。目の前の段を降りようと足を踏み出したときである。

 段に隠れて細いロープが張られていたことに鬼神は気づかなかった。そのロープを踏んだ瞬間、仕掛けられた輪縄に足をとられた。

 縄が足を引っ張り、鬼神はその場に倒れてしまった。慌てて縄をほどこうとするが、固く結ばれて簡単には外せない。

 どこに隠れていたのか、手に棒のようなものを持った何者かが現れた。それも一人ではない。複数の人間だ。

 どう考えても友好的な者たちには見えない。すぐに離れたほうがいい。鬼神は、両手で縄を持ち引きちぎった。

 その様子を見て、周りの者たちはうろたえた。

「こいつ、感染者か?」

 鬼神は、すぐに出口へと駆け出した。それを見て追い掛けてきたのは5人。手に持っている棒の先にはナイフが括られているらしい。

 ホールを飛び出し、赤い絨毯が敷かれた通路を走る。すると、前方から3人、鬼神に近づいてきた。

 3人が、手にした即席の槍を自分に向けるのを見て、鬼神は走るのを止めた。

 後ろからも追手がゆっくり近づいてくる。逃げ場はなくなってしまった。

「お前たち、何が狙いだ?」

 鬼神は、両側から近づいてくる者たちに対して体を横に向け、左右を交互に見た。


「気をつけろ。感染者だ」

 後方から鬼神に近づいてきた男たちの一人が口にした。

 感染者に接するとき、最も気をつけなければならないのは血液との接触だ。周りの男たちは、下手に鬼神を傷つけることができない。

「答えろ、何が目的だ?」

 鬼神が赤銅色の目で前方にいる男3人をにらみつけた。

 後方にいた男が一人、ゆっくりと鬼神へ近づく。手には太い鉄のパイプを持っていた。これで殴る気だろう。

 それに気づかない鬼神ではなかった。男が鉄パイプをそっと頭上に振り上げた瞬間、鬼神はその男の鼻の先まで顔を近づけ、鉄パイプを手に持った。

 思い切り引き剥がすと、あっさりと鉄パイプは鬼神の手に渡ってしまった。

 一人が慌てて槍で鬼神を突こうとした。鬼神はすんでのところでそれを避け、柄の部分をつかんで相手へ押し当てた。胸を突かれ、前かがみになったのを見て、鬼神はその相手に体当りした。

 倒れた相手を尻目に、鬼神はまた走り出した。他の連中は、追うのをあきらめたらしい。ただ呆然と、走り去る鬼神の姿を見送っていた。


 誰も追ってこないことを確認し、鬼神は走るのを止めた。

 今は、建物から抜け出して、道路の上に立っている。

 目につく場所は、だいたいチェックしたが、先ほどの妙な集団以外に誰も見つからなかった。

 エレベーターのある場所まで戻ろうとしたときである。自分に向かって歩いてくる者の姿を見つけた。

 相手は一人のようである。鬼神は、立ち止まったまましばらく相手の動向を伺った。

 向こうも鬼神の存在には気づいているらしい。まっすぐこちらへと向かっている。ポケットから何かを取り出した。耳に当てる様子から電話を掛けているようだ。

 鬼神は、持っていた鉄パイプを投げ捨てて逃げ出した。警察がここを嗅ぎつけたのだと悟った。

 相手も走り出す。恐るべきスピードだ。人間離れした者たちによる鬼ごっこが始まった。


 建物の中の通路を歩いていたマリーは、鬼神が見つかったとの報告を受けた。

 すぐに他の2人のハンターへ指示を出す。アンドロイドたちには無線で一斉にシグナルを送ればいい。

 マリーも、鬼神のいる場所へ移動しようとしたときである。突然、何者かが物陰から現れた。

 振り下ろされた鉄の棒をかろうじて避けて、マリーは相手を見た。

「女か・・・おとなしくしていれば痛い目を見なくて済む。無駄な抵抗はやめろ」

 一般的なアンドロイドは、人間の平均的な力より弱くなるように調整されている。万が一、暴走した場合の保険だ。マリーは警察に勤務するため通常より力のあるタイプだが、それでも人間とほぼ互角の力しか持たない。

 マリーは、銃を抜いて相手の男に向けた。

「あなたこそ、無駄な抵抗はやめなさい。抵抗すれば撃ちます」

 銃を持っていることが分かり、男は動きを止めた。

「その武器を捨てなさい。ゆっくりと」

 マリーから目をそらすことなく、男はゆっくりと鉄の棒を持った腕を下ろした。

「なあ、あんた、どうして銃なんか持っているんだ?」

 男は問いかけるが、マリーは答えようとしない。

 その様子を見て、男はフンと笑い下を向いた。

 その刹那、光の帯がマリーの銃を弾いた。男が鉄の棒を振り上げたのだ。

 銃は高く舞い、男の近くへと落ちた。

 男がそれを素早く拾い、マリーに向けて銃を向ける。

「形勢逆転だな。さて、楽しませてもらおうか」

 男が品のない笑みを浮かべた。


 鬼神は、道なりに走り続けた。

 その後をハンターが追う。

 紫龍を追っていたときのことを鬼神は思い出した。あのときの紫龍の気持ちがよく分かるような気がした。

 建物のひとつに入り、あたりを見回す。どこかに隠れる場所がないか、鬼神は必死の形相で探した。

 やがて、ハンターが建物の中に入ってきた。

 それは女性であった。顔は白く、猫のような目であたりを伺う。黒いレザースーツに身を包み、ブロンドの巻き髪が胸のあたりまで伸びている。

「隠れてないで出てきな。別にあんたを捕まえに来たんじゃない」

 女性ハンターは大声で呼びかけた。

「集団感染事件の主犯格がいるんだろ? しかも、あんたの奥さんを殺した輩かも知れない。復讐したい気持ちは分からなくもないが、少し頭を冷やしたらどうだい?」

 返事はない。女性ハンターは深くため息をついた。

 ゆっくりと、ハンターは奥へ進んだ。鋭い目は、まるで獲物を狙う獣のようだ。

 建物の奥は、シャッターで塞がれてそれ以上進めなくなっていた。隠れ場所など他にはないように見えるが、鬼神の姿はどこにもない。

 何かが落ちる音がした。その方向を見遣ると、砂ぼこりが上から落ちている。

 ハンターは上を見上げた。

 鬼神は、壁をよじ登っていた。そこは巨大な吹き抜けで、壁はまるで白い板が間を空けてはめ込まれているように見えた。板と板の間には広い空間があり、他の階へとつながっているようであった。

 かなりの高さまで登り、その空間の中へ入っていく鬼神を見て、ハンターはすぐに電話を手にとった。

「鬼神を逃した。えっと・・・12階になるかしら。座標は・・・N763のE289」

 それだけ伝えた後、ハンターは意を決して壁を登り始めた。


 鬼神は、広い通路の中を走っていた。

 両側はシャッターで閉ざされ、どこにも抜け道はない。

 まっすぐに進んだ先には暗闇があった。

 その暗闇を目指して鬼神は走り続けた。

 通路の端まで達したところで、鬼神はそれ以上進む道がないことを悟った。

 そこは、外を眺めることのできる小さなバルコニーであった。

 複雑に交差した道が目の前に広がっている。見下ろすとそこには闇が広がっていた。

 左右には、今いる場所と同じような形をした建物があり、同じ高さにバルコニーがある。そこまでの距離は15mほどであろうか。

 鬼神は、左側に見えるバルコニーを凝視した。その顔は、何かを覚悟した表情に見える。

 左の方向へ体を向け、数歩下がる。大きく息を吸いながら目を閉じる。ゆっくりと息を吐き、目を開けたと同時に、鬼神は走り出した。

 目の前に柵が近づく。鬼神は大きくジャンプした。柵の上に体が浮かぶ。両足で思い切り柵を蹴った。

 鬼神の体は宙を舞い、隣の建物のバルコニーの中へと突っ込んでいった。

 地面に着くと同時に体を丸め、一回転した。膝をつき、体を停止させる。

 大きく息をつきながら、鬼神は立ち上がった。ジャンプして届く距離であるか、自信があったわけではなかった。届いたとしても、ジャンプする方向を誤れば壁に激突するか、真っ逆さまに落ちていたかも知れない。鬼神にとっては、ほとんど賭けであった。

 奥を見ると、さっきの場所と似たような通路が続いていた。しかし、両側はシャッターが開いていて、中の様子が確認できた。

 鬼神は、奥へと進んでいった。


「その上着を脱いでもらおうか」

 男はマリーに命じた。

 マリーは表情を変えることなく、しばらく男の顔を眺めていたが、やがて着ていた上着を脱いで地面に落とした。

「次はそのブラウスだ」

 マリーは、ブラウスのボタンを外し始めた。男は薄笑いを浮かべながらその様子をじっと見ている。マリーは、その男の顔を見つめたまま、ブラウスを脱ぎ捨てた。

 マリーの裸体を見た瞬間、男が驚いたような表情になった。

「お前・・・」

 男は、次の言葉を発する前に、突然、痙攣を始めた。何かに感電しているかのように見える。銃を持った腕がブルブルと震えた。指が動いてしまったのだろうか。銃弾が一発、発射された。

 マリーはその瞬間、胸のあたりを押さえた。銃弾がマリーに命中したのだ。

 男はその場で崩れるように倒れた。痙攣はまだ収まらない。少し離れたところから、男がひとり駆けてきた。

「大丈夫か、マリー?」

 その問いかけに

「冷却ユニットの片側が動作しなくなっただけ。激しい動きをしなければ大丈夫」

 と冷静な声で答えながら服を着始めた。

 男が驚いたのは、マリーがアンドロイドだと気づいたからだ。マリーは見事なプロポーションの持ち主であったが、胸に乳房はなく、鎖骨の下あたりに黒いプレートが埋め込まれていた。スラム街にアンドロイドなどいるはずがないため、意表を突かれたのだろう。そこへ、マリーが無線で呼び出した別のアンドロイドがスタンガンで男の動きを封じたのだ。

 意識を失った男の手から銃をもぎ取ってホルダーに戻すと、マリーはハンターへ電話をした。

「鬼神さんの行方はどうなりましたか? ・・・そうですか。分かりました」

 鬼神がまた行方をくらましたと聞き、マリーは目を閉じて思考モードに入った。


 車の中で、麻子と彩は向かい合わせに座っていた。

「お腹も満たされたから、少しは気分もよくなったかな?」

 彩が笑みを浮かべながら尋ねた。

「はい。今日は楽しかったです」

 彩は午前中で仕事を終えていたので、昼食後も2人でショッピングモールを散策していた。夜は、ビルの最上階にある展望レストランで豪華な食事を楽しみ、麻子も朝の憂鬱な気分は吹き飛んでしまったようだ。

「さて、明日からが問題だけど・・・」

 彩が額に手を当てて、じっと考え始めた。

「うちの連中には釘を刺しておくから、そんなにしつこく追ってこなくなるとは思うけど、他の奴らは私も止めようがないわ」

「まだ、家の近くに潜んでいるんでしょうか?」

 麻子が不安げに尋ねた。

「この時間なら大丈夫。昔、夜にアポなしで取材しようとして訴えられた会社があってね。とんでもない額の賠償金を支払うことになったの。夜に押しかけたことが非常識だと判断されたみたいね。それからは、事前の連絡なしで17時以降に取材するのは禁止というのが慣例になっているわ。まあ、朝から押しかけるのも非常識だとは思うけど・・・」

 表情が曇り始めた麻子の様子を見て、彩が予想外の提案をした。

「ねえ、取材を受けてみる?」

「えっ?」

「もちろん、顔は伏せてね。取材陣を一同に集めて、まとめて取材を受けるの。その代わり、今後は一切取材には来ないという条件付きで。お膳立ては私の方でできるから、あなたはその場に出席して質問に答えるだけ。もちろん、答えたくない質問はパスすればいいし、私もそばでフォローするから」

 麻子は、すぐに返事をすることはできなかった。それは彩も理解していたので

「今すぐ返事する必要はないわよ。でも、これからもしつこく追いかけ回されるんだったら、そういう手もあるから、もし必要だったら声を掛けて」

 と説明し、麻子も黙ってうなずいた。

「間もなく、目的地です」

 ナビゲーターの声を聞いて、彩は麻子のひざの上にそっと手を添えた。

「ひとりで悩んじゃだめ。週末までは私も仕事で時間が取れないけど、今度の土曜日にまた様子を見に来るわ。でも、何かあったらまた電話してちょうだい」

 彩の優しい笑顔を見て

「ありがとう」

 と麻子も微笑んだ。


 鬼神は、階段を上っていた。

 『ノア』たちは、すでにスラム街から脱出している可能性が高いと考えていた。そうなると、なんとか警察の包囲網をかいくぐって、ここから脱出することが喫緊の課題となる。

 スラム街へ入るための非常階段はすでに見張られている可能性が高いが、ここから出るためには非常階段を使うしかない。危険を承知の上で、鬼神は非常階段のある場所へと向かっていた。

 鬼神が使っている階段は建物の外側にあった。そこから、外の景色が一望できる。上に行くに従い傾斜が急になるコーン型の建物がひときわ目を引いた。濃いグレーの壁に、白い帯が渦を巻いて上へと伸びている。使われなくなってから、すでに100年近くは経過している。しかし、今でも朽ちることなくそびえ立つ建物を見ていると、鬼神は時間が巻き戻されたような、不思議な感覚を抱いた。

 やがて階段が途切れ、鬼神は建物の中へと入った。

 広い通路を通り、やがて建物から抜け出して道路へとたどり着いた。暗い道の真ん中で、あたりを見回す。青白く光る建物が道沿いに並び、その先は闇に包まれてよく見えない。

 しばらく歩くと、先ほど見かけたコーン型の建物が見えてきた。道路から通路が伸びて、建物の中へ入ることができるようになっている。何のために建てられたものなのか、鬼神には見当がつかなかった。

 スラム街に侵入したときは、このコーン型の建物は見えなかった。おそらく、別の道路へ移動しなければならないのだろう。端末を切っているため、現在位置がどこなのかはよく分からない。もちろん、入ってきた時にも位置は確認していないから、どこへ向かえばいいのかも不明だ。

「困ったな」

 鬼神は苦笑いした。

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