第8話 死者の伝言

 紫龍は、下水道の中を一人で歩いていた。

 もはや紫龍にとって、下水道を通って移動するのが当たり前のことのように感じていた。下水道が、各フロアにつながっていることを教えてくれたのは『ノア』だ。『ノア』の持つ情報の多さには、紫龍も驚きを隠せなかった。だから、紫龍は『ノア』の提案を受け入れたのだ。

 紫龍が『ノア』に出会ったのは偶然だった。

 スリーパーとなってから、勤め先を変えざるを得なくなった。長い間、アンドロイドに囲まれて医療用ナノマシーンの製造工場で働いていたが、体内に注入されるナノマシーンの製造にスリーパーが関与していることが問題視され、解雇された。

「なぜ、今になって問題になったのですか?」

「我々は、君が実際の製造に関わるのではないから安全であることは分かっている。だが、世間はそうは思わない。恨むなら、君のことをネタにしたマスコミを恨んでくれ」

 弁護士の勧めるままに訴訟を起こした。長期にわたる裁判の後、最終的には和解で決着した。手に入れたのは多額の賠償金。その代わり、職が得られることはなくなった。毎日、求人情報を調べては応募してみるが、スリーパーである上、過去に訴訟まで起こした者を雇うような企業はなかった。

 そんな中、偶然、奇妙な募集案内を見つけた。

『スリーパーの方を募集中』

 社名は『アーク』としか記されていない。全く聞いたことのない社名だった。わざわざスリーパーを指名するということは、何かの検体にでもされるのだろうかと紫龍は予想した。長い期間、働けるとは思えないが、仕事を選んでなどいられず、メールを送ってみた。

 後日、面接することになり、指定された場所は1軒の小さなバーだった。そこで初めて『ノア』に会ったのだ。

「はじめまして、紫龍さん。私のことは『ノア』と呼んで下さい」

「よろしくお願いします。『ノア』さん、ですね」

 『ノア』は、子供のような笑みを浮かべて紫龍の顔を見ていた。

「まあ、そう固くならずに。せっかくだから何か飲みませんか?」

 紫龍は、まさか面接で酒を勧められるとは思っていなかった。だが、断ることもできず、言われるままにワインを注文した。

「いや、実は連絡していただける方がいるとは思っていなかったのですよ」

 ワインを一口飲んだ後、『ノア』が口を開いた。

「なぜですか?」

 紫龍が何気なく尋ねる。

「求人情報がすぐに消されてしまいましてね。登録後に、法人でなければだめだと通達があったんですよ」

 と『ノア』はグラスを揺らしながら答えた。

「では、あなたは会社の人事の方ではないのですか?」

「私の希望を叶えてくれるスリーパーの方を探していたんです」

 『ノア』は一呼吸おいてから

「あなたは、今の生活には満足ですか?」

 と紫龍に質問を投げた。紫龍はしばらくの間、黙っていたが

「職のない今の状況では満足しているとはいえないでしょう」

 と答えた。

「独身ですか?」

「結婚していたが、妻は死にました。今は一人娘と暮らしています」

「それは失礼した。ですが、娘さんと一緒に暮らしているということは・・・」

「娘も感染しています」

「そうですか」

 『ノア』の視線は、ワイングラスへ向けられていた。しばらく、沈黙が続いた。

 沈黙を破ったのは『ノア』の方だった。

「もし、地上に出られるかも知れないとしたら、あなたはどうしますか?」

「地上に?」

 紫龍は、『ノア』の言っていることが咄嗟には理解できなかった。

「そう、この狭い地下空間から、もっと広い世界に出られるとしたら?」

「素晴らしいことですね。ここに住む者は誰もが夢見ていることでしょう」

「それが実現できるかも知れないのです」

 紫龍は不安になった。『ノア』は、妄想に取り憑かれた狂人ではないかと思った。

 しかし、『ノア』の説明を聞いているうちに、それが現実にあり得る話であるように紫龍は感じ始めた。

「解析には、アンドロイドの頭脳部分が必要です。記録された映像を解析するのです。あなたには、アンドロイドの頭部を入手してほしい。それを持ってきてくだされば、私が中身を解析します。もちろん、報酬は支払いますよ。どうですか?」

 紫龍は、グラスに入ったワインを一気に飲み干してから

「わかりました。引き受けましょう」

 と答えた。

 自分がその時、判断したことが正しかったのか、紫龍には分からなかった。ただ、はっきりしているのは、このまま地下世界に暮らすことはできないということだ。何としても、地上へ脱出したかった。そのための鍵が今、自分の手の中にあった。


 農業施設の並ぶ中を鬼神は歩いていた。

 白と黒の無彩色で塗り分けられた建物は、ほぼ完全な直方体で、中で植物が栽培されているとは、とても思えない出で立ちだ。その壁は高く滑らかで、自分へと迫ってくるような錯覚を覚える。

 道はまっすぐ遠くまで伸びて、はるか先まで見通すことができた。しかし、どこを見ても人はいない。この広いフロア内に、自分だけしかいないように鬼神は感じた。

 しばらく歩くと、地面に丸い金属製のフタを見つけた。下水道への入り口である。

 鬼神は、その場にしゃがみ込み、紫龍がフタを開けた痕跡がないか調べてみたが、何も見つからなかった。

 腰を落としたまま、鬼神は道の続く先をじっと眺めてみる。まるで、どこかに紫龍の通った痕跡がないか、その鋭い目で探るかのように。

 鬼神がすっと立ち上がった時である。電話が鳴った。

「鬼神だ」

 電話の主はアンドロイドのホワイトだった。

「E-5エリアの3フロア、紫龍を見つけました。下水道を通ってここまで来た模様です」

「わかった。お前がいることは気づかれていないか?」

「今のところ、気づかれていません。ですが、紫龍がいるのはエレベーターに近い位置です。そのままエレベーターで移動すると気づかれる恐れがあります」

「しかし、もたもたしていたら車で逃げられる。今からエレベーターでそちらに向かう。お前は見失わないように見張ってろ」

 鬼神は電話を切り、恐るべき速さでエレベータへと駆けていった。


 紫龍は車を手配した後、娘へ電話を掛けた。

「もしもし」

 娘の、麻子の声が聞こえる。

「麻子、今から家に戻るよ」

「そう」

 まるで無関心であるかのような返事だ。

「お前にプレゼントがあるんだ。きっと喜んでくれると思うよ」

「別にいい」

「いい知らせもあるんだよ。詳しいことは帰ったら伝えるから」

「・・・わかった」

「じゃあ、またな」

 紫龍は電話を切った。これが、娘の麻子との最後の会話となった。


 逃亡中、他のことに気を取られるなど危険極まりないことだ。追跡するものがいないと考えていたとしてもである。しかも、紫龍の予想は外れていた。まさに今、近くまで追っ手が迫っている。

 紫龍がそのことに気付いたのは、電話を切った後、人間とは思えぬ速さで近づいてくる者をその目に捉えたときだ。

(しまった)

 紫龍は慌てて追っ手から逃れようと走り出した。しかし、どこへ逃げればいいのか分からない。とにかく、追っ手から隠れる場所を探そうと考えた。

 しかし、周囲は巨大な工場が並んでいるばかりで、隠れることのできそうな場所はなかった。

 紫龍はがむしゃらに走ったが、足がまだ完全に回復しているとはいえない状況である。鬼神との差はだんだんと縮まっていった。

 紫龍は、工場にある大きな入り口を見つけ、中へと入っていった。室内は非常に広く、いたるところに巨大なタンクが据え付けられている。食料品の加工工場らしい。紫龍は、身を潜める場所がないか探した。

 だが隠れる余裕はなかった。鬼神が入り口付近にたどり着き、すぐに紫龍の姿を見つけ追い掛けてくる。

 紫龍は階段を昇り、2階へと進んだ。2階といっても、そこには足場しかなく。巨大なタンクの間を縫うように通路ができていた。

 分岐点を闇雲に曲がりながら走る。そうすることで、行方をくらまそうという魂胆だ。しかし、鬼神は的確に後ろを付いてくる。

 紫龍は、更に上へ昇る階段を見つけた。階段を昇るとまた、迷路のような足場がある。そこは、複雑に入り組んだダンジョンのようだ。紫龍は階段を見つけては上へと昇っていった。

 ついに最上階まで達したらしく、見下ろせば巨大なタンクの中身がよく見えた。

 そして、上へと昇る階段はそれ以上なかった。紫龍は、袋小路に入ってしまったのだ。

 目の前の柵の先には、むき出しになった鉄骨が伸びているだけだった。後ろを振り向くと、鬼神がすぐ近くまで迫ってきている。

 紫龍は意を決して柵を乗り越え、鉄骨の上に立ち上がった。

「危ない、よせ!」

 鬼神が紫龍に向かって叫んだが、紫龍は従うことなく鉄骨の上を渡り始めた。

 紫龍は、自分の足がもう悲鳴を上げていることに気づいていなかった。しかも、つかまるところのない場所では手で支えることもできない。紫龍は途中でよろめいた。

 叫ぶ間もなく、紫龍は下へと落ちていった。自分が立っていた鉄骨が遠ざかっていく。複雑に入り組んだ迷路のような通路が横を通り過ぎる。巨大なタンクが、まるで自分の方へと倒れかかるように見える。

 身体に衝撃が走った。地面に叩きつけられたのだろう。腹部に鋭い痛みを感じた。その痛みが耐えられないほどになる。自分の腹部から、金属製の突起物が伸びていた。それを見てはじめて、紫龍は自分の身体が串刺しにされていることに気づいた。


 鬼神が紫龍の下へと駆けつけた時、周りはすでに血の海と化していた。

 のけぞるような格好になっていた紫龍の頭を手で支え、鬼神は紫龍の顔を覗き込んだ。口から血の泡を吐き、苦しげに何かを訴えていた。

「ゆ・・・び・・・わ・・・むす・・・め・・・に」

 紫龍の震える手が上着へと伸びるのを見て、鬼神は裏ポケットの中の小さな箱を取り出した。

「これを娘さんに渡せばいいんだな」

 鬼神の言葉に、紫龍は力なくうなずいた。

「ノ・・・ア・・・を・・・さが・・・せ」

 と言い残した後、紫龍の身体の力が急に抜けた。

 紫龍の言葉を聞いた瞬間、鬼神は驚きのあまり言葉を失った。

「おい、『ノア』はどこにいるんだ?」

 鬼神は我に返り、慌てて尋ねたが、すでに紫龍は絶命していた。

 紫龍の頭をそっと地面に下ろし、鬼神は立ち上がった。

 その視線は定まらず、凍りついたような顔の表情は険しかった。


 スリーパーの遺体を片づけるのは大変な作業だ。

 人間は半径5m以内に入ることはできない。処理は全てアンドロイドが行った。紫龍の遺体は通常の遺体収容袋ではなく、特別なカプセル型の容器に入れられた。このまま、焼却処分される予定だ。血液の飛び散った床は雑巾できれいに拭き取られた後、高温プラズマにより滅菌する。紫龍の身体を串刺しにした治具も廃棄されるらしい。鬼神の、血に濡れた服も全て焼却される予定だ。シャワーボックスが用意され、血を洗い流すよう指示された。

 鬼神は、アンドロイドたちによる拘束からようやく解放されたが、今度は別のアンドロイドの相手をしなければならなかった。

「鬼神さん、いったい何があったんですか?」

 マリーからの質問に、鬼神は順を追ってそれまでの出来事を説明した。紫龍が最後に残した言葉を除いて。

「あなたが、紫龍を追い詰めてしまったということはないですか?」

 マリーが発した棘のある言葉に

「俺のせいで紫龍が死んだと言いたいのか」

 と鬼神は反論した。

「そうでないとは言い切れないですよね」

「おい、勘弁してくれ。俺はあんたたちの命令で紫龍を追っただけだ。どうして非難されなくちゃならないんだ?」

「この事件には謎が多いのです。紫龍を逮捕することができれば、それが明らかになったはずです」

「残念だな。全ては謎のままだ」

 鬼神は挑みかかるような口調でマリーに向かって言い放った。

「紫龍がここに来た目的もはっきり分かりません」

 マリーは、鬼神の態度など意にも介さず、首を横に振りながらつぶやいた。

「ここに来た目的?」

 鬼神は、エレベーターで出会った男のことを思い出した。漆黒の闇のような瞳のあの男が『ノア』なのではないか、紫龍は『ノア』に会うためここに来たのではないかと鬼神は推測した。

「なにか気になることでもあったのですか?」

 マリーが、鬼神の様子に気がついて問いかけた。

「いや、確かに目的はわからないな」

 鬼神のあいまいな答えに対し、マリーはしばらく沈黙を守った。何を考えているのか、鬼神には理解できるはずはない。アンドロイドの考えていることなど、人間には分からないだろう。

「鬼神さん、紫龍は最後に何か言葉を残したのではないですか?」

 マリーのこの質問に、鬼神は心臓を掴まれたような気分になった。電子頭脳の鋭い洞察により鬼神のことを疑っているらしい。

「いや、何も」

 その言葉を聞いた後も、マリーはすぐには話し出さなかった。鬼神は、マリーに対して得も言われぬ恐怖を感じた。

「・・・分かりました。本日はお帰りいただいて結構です。帰宅前に、紫龍匠の娘さんに、父親が亡くなったことを伝えて下さい。それから明日、警察署までお越し願えますか?」

「分かった。行くようにするよ」

 マリーの視線から逃れるように、鬼神は足早にその場を立ち去っていった。


 鬼神がこの家を訪れたのは3度めだ。

 扉に付いたボタンを押す。しばらくして、スピーカーから声が聞こえた。

「どなたですか?」

「警察の鬼神です。お伝えしたいことがあります」

 扉が開き、少女が顔を出した。緑青色の目が鬼神の顔をじっと見ている。心なしか、少し疲れているように感じた。

「何でしょうか?」

 鬼神は、少女の顔を見ると、真実を伝えるのが急にためらわれた。

 なかなか話し出さない鬼神を見て、少女の顔に不安の表情が現れる。

 その表情を見ながら、鬼神はゆっくりと話し始めた。

「お伝えにくいことなのですが、紫龍匠さんが亡くなりました」

 少女の目が少し揺らいだ。しかし、表情は変えなかった。

「なぜ・・・父は死んだのですか?」

「ある事件の重要参考人として行方を追っていたのですが、逃亡中に高所から落下して・・・」

「何の容疑で?」

「2週間ほど前から発生した連続殺人犯の容疑です」

 少女は、うつむいてしまった。肩が揺れている。鬼神はそれ以上、何も言えなかった。


 マリーからの報告を受けて、竜崎は顔をしかめた。

「結局、何が目的だったのか分からないままか」

「明日にでも家宅捜索の許可が下りるでしょう。アンドロイドの頭部も発見できるんじゃないですか?」

 椅子に座っていた浜本が立ち上がり、竜崎に向かって話しかけた。

「いや、おそらく出てこないだろうな。娘がいる。他の場所に隠したのだろう」

「もしくは、共犯者の手に渡っているかもしれません」

 マリーのその言葉を聞いた竜崎が

「共犯者がいると考えているのか?」

 と尋ねた。

「はい。それが誰か、鬼神さんが知っているのではないかと疑っています」

「どうして?」

 思いがけない話を聞いて、竜崎はマリーに問いかけた。

「直感です」

 そう答えるマリーの顔を見ながら、竜崎は眉をひそめた。


「あの、紫龍さん、少しだけお父さんの遺品を見させてもらってもよろしいですか?」

 涙を手で拭う少女の様子を見ながら、鬼神はそっと尋ねた。

「ごめんなさい、こんなところで。少しだけなら、どうぞ」

 中に入ると、右手に広いリビングが見えた。少女はそこにいたらしい。

「お父さんの部屋はどちらに?」

「ここです」

 と指差したのは左手にある扉だった。

「中を調べてもいいかな?」

「はい、どうぞ」

 少女の了解を得て、鬼神は室内に入った。部屋へ入ると同時に、照明で中が明るくなった。

 部屋の中にはベッドと机があるだけだ。机の上には、タブレットが置いてある以外に何も見当たらない。

 タブレットは、充電中のまま放置されていた。スクリーンに軽くタッチすると、アイコンの並んだ画面が表示される。

 ブラウザを起動して履歴を確認する。そこには、求人サイトやいろいろな企業のサイトが並んでいた。

 鬼神はブラウザを閉じて、今度はメール・クライアントを開いた。

 受信履歴には企業からのメールがいくつかあった。おそらく、不採用の通知なのであろう。スリーパーを雇う企業など数は少ない。スリーパーという理由だけで不採用にすることは禁止されているが、理由などいくらでも付けられる。しかし、通知があるだけまだマシなのかも知れない。ほとんどの企業からは相手にもされていないのだろう。

 送信履歴を調べてみる。企業への面接希望がほとんどのようだ。知らない企業名がいろいろと並んでいる。『シータ電機』『イクサ・システム』『寺菱薬品』『イカロス電子』『アーク』・・・

 送信したメールの最新は『アーク』宛だった。しかも2件続いている。鬼神は、最新の送信メールを開いてみた。

 お世話になっております。紫龍です。

 ご連絡いただき、ありがとうございます。


 明日、ご指定の場所に伺いますので、よろしくお願い申し上げます。

 メールが送られたのは5月2日。翌日の5月3日に誰かに会っていたことになる。

 その誰かが『ノア』ではないかと鬼神は考え、メールのアドレスをメモに残した。

 メール・クライアントを閉じ、他のアイコンを順番に目で追うと、その中に画像ファイルがあった。何気なく開いてみると、そこには紫龍の他に女性と女の子がいっしょに写っていた。女性は紫龍の妻だろう。真っ黒な長い髪と緑青色の瞳が印象的な、非常に美しい女性だった。あの娘が大きくなれば、おそらくこんな感じになるのではないかと鬼神は想像した。3人とも笑顔で写真に収まっている。鬼神は見るのがつらくなり、画像を閉じて、タブレットの電源をOFFにした。

 机の引き出しを順番に開けてみる。筆記用具に便箋が入っているのを見つけた。今の時代に、手紙を書くことなど皆無と言ってよかった。たいていのことは電子メールかSNSで事足りる。そもそも、筆記用具を持っていること自体が珍しい。鬼神も、久しぶりに見た気がした。他の引き出しには腕時計がひとつ。アナログの、高級なブランドものだ。紫龍は、古風なものが好きだったらしい。

 他にめぼしい物は見つからず、鬼神は部屋を後にした。

「紫龍さん、ご協力ありがとうございました。お父さんの御遺体は、警察署に安置されていますので、また連絡があるでしょう」

「わかりました」

 目を伏せたまま、少女はうなずいた。

 鬼神が立ち去ろうとした時、大事なことを忘れていたことに気がついた。

「おっと、忘れるところでした。お父さんから大事なものを預かっていました」

 そう言って、鬼神はポケットから小さな箱を取り出した。

「お父さんは、これをあなたに渡してほしいと言い残して息を引き取りました。中身は指輪だと言っていました」

 娘は、父親が渡すはずだったその箱を両手で受け取り、うつむいたまま

「ありがとうございます」

 と小さな声で礼を言った。

 これから、この娘はたった一人で生きていかなければならない。しかも彼女はスリーパーだ。受け入れてくれる施設など、どこにもないだろう。

「しばらく、様子を見に来るようにします。何かあれば、電話してください」

 その言葉に、少女は小さくうなずいた。

 その様子を見届けて、鬼神は静かに立ち去っていった。


 警察署内の応接室で、鬼神はソファーに腰掛けて、壁に飾ってある絵を眺めていた。ダリの『記憶の固執』だ。警察署に飾られる絵としては不相応だと鬼神は思った。

「鬼神さん、お待たせしました」

 部屋に入ってきたマリーは静かに対面のソファーに座り、持っていた書類を机の上に置いてから、端正な顔を鬼神に向けて質問を投げかけた。

「今日は、紫龍匠が亡くなった日に何があったのか、もう少し詳しく教えて下さいますか?」

「細かい話はあの時にもしたが」

「あなたは、紫龍が事切れる前に何か話をしているはずです」

「なぜ、そうと言い切れるんだ?」

 鬼神の質問に

「あなたは、紫龍があの場所へ行った理由について何か勘付いたのではないですか?」

 とマリーは逆に聞き返した。

 鬼神が黙ったままなのをじっと見ながら、マリーはさらに話を続けた。

「あなたは、共犯者が誰なのか、ご存知なのではないですか? 紫龍は、その共犯者に会うためにあの場所へ行ったのだと気づかれたのでは?」

 鬼神は、『ノア』の行方を自分ひとりで探したかった。警察に介入されれば、自分の目的が果たせないからだ。

「今、教えてくだされば、このことは不問にします。どうか、本当のことを話して下さいませんか」

 マリーの言葉に、鬼神は目を閉じ考えた。エレベーターで会った男の姿は監視カメラに映っているはずだ。その事実を隠すことはできない。

「エレベーターである男と会った」

「ある男とは?」

「それが誰かは分からない。おそらく、あの場所で紫龍と会っていたのだろう」

「その男が共犯者である可能性があるということですね」

 そう言った後、マリーはしばらく動かなくなった。頭の中の電子頭脳をすべて使って、受信した監視カメラの映像を分析しているのだろう。

「いました。あなたが会ったという男が、監視カメラの映像に残っています」

 マリーが会話を再開した。

「じゃあ、そいつの正体も分かるのか?」

 監視カメラに姿が写っていれば、確実に人物を特定することができる。しかし、マリーの返事は鬼神の予想していたものとは違っていた。

「残念ながら、特定できません」

「そんなバカな」

「監視カメラに映った顔は、どの人物とも一致しません」

 マリーの言葉に、鬼神は信じられないというような顔をした。

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