第9話 羊を追う羊飼い

 暗い部屋の中、台の上に、人が入れるくらいの大きさのカプセルのような容器が置かれていた。それは紫龍匠の棺だった。

 スリーパーの体液が外に漏れないよう、完全に密閉された状態で遺体は安置されていた。

 麻子は、ゆっくりと棺に近づいていった。透明の窓から、遺体の顔が見える。

 麻子の顔は青ざめ、口を固く閉ざしたままじっと遺体の顔を見つめていた。表情は全く変えず。

 遺体の瞳は閉じ、口は半開きの状態で、まるで眠っているようにも見える。家を去ったあの日、つらく悲しそうな顔をしていた父親の姿を麻子は思い出していた。

 棺に背を向けると、後ろにいた男性が話しかけてきた。

「残念ながら、遺留品は全て焼却処分となります」

 麻子は、軽くうなずいた。

「火葬が終わりましたら、またお声を掛けます」

「よろしくお願いします」

 そう言って、麻子は部屋を出た。


「共犯者の人物が特定できないなんて、そんなことがあるのか?」

 竜崎が驚いた顔でマリーに尋ねた。

「監視カメラの映像から100%特定できるとは限りません。過去にも、データベースに該当する者がいなかった例はあります」

「スラム街のような無法地帯に潜むならず者なんかは、警察に捕まらない限り登録されていない場合がありますからね」

 マリーの言葉に同調するように、浜本が後に続いた。

「そいつらは一生、スラム街から出てこないからだろ。まともな奴で、顔と名前がリンクしないなんてあり得ない」

 竜崎の反論に

「つまり、まともな奴じゃないってことですよ」

 と浜本がおどけたので、竜崎は黙ってしまった。

「結局、今のところは汚染地帯をきちんと管理していなかった衛生局がこっぴどく叱られただけですね」

 なおも浜本が話す言葉を聞いて、竜崎はため息をついた。どうやら、あまり機嫌がよくないらしい。

 それを察したのか、マリーが

「共犯者の顔は、他の監視カメラの映像にも残っていました。ですから、身元を特定することはできるはずです」

 と竜崎に話しかけた。

「わかった。とにかく、分析を急いでくれ。紫龍の家の捜索はこれからだったよな」

「今、紫龍匠の遺体を焼却しているはずです。娘さんが一人、立ち会っています。それが終わってから、アンドロイドを派遣する予定です」

「娘さんは一人残されたわけですね」

 浜本が、ぼそりとつぶやいた。

「ああ、なんとも後味の悪い事件だ」

 竜崎はまた、ため息をついた。


 タブレット端末の画面の光に照らされて、暗がりの中で鬼神の顔が仮面のように浮かび上がっている。

 鬼神は、険しい顔をしながらキーボードで文字を打ち込んでいた。

 紫龍からお前のことを探せと頼まれた。

 一度会って話がしたい。

 連絡を待つ。

 短いメッセージである。それ以上の事を付け加えるつもりはなかった。紫龍のタブレットから入手したメールアドレスを入力し、送信してみる。

 反応がなければ、何度でも繰り返しメールを送るつもりだった。過去の忌まわしい事件があってから、ずっと探し求めていた相手を見つけるための鍵がようやく得られたのだ。警察のほうも、押収品を調べればすぐにあのメールに気がつくだろうと鬼神は予想していた。警察に捕らえられる前に、鬼神はどうしても『ノア』を見つけたかった。

 『ノア』に会ってどうするのか。

 鬼神は、『ノア』によって大事なもの全てを奪われた。

 今、鬼神にあるのは『ノア』への復讐心だけであった。

 あと少しで、その目的が達成できるかも知れない。

 気持ちの高ぶりを抑えようと、鬼神は大きく深呼吸した。心の奥底にある遺恨を吐き出すかのように。


 警察が去った後、麻子は父親が使っていた部屋の中を覗いてみた。

 ベッドと机だけの何もない部屋。タブレットは押収品として警察が持っていった。それ以外に大したものはなく、捜索はあっという間に終わった。

 この部屋に最後に入ったのは、いつのことだったのか、麻子には全く思い出せなかった。

 お互いに干渉しないことが、暗黙の約束事になっていた。麻子がリビングにいるときは、父親はいつもこの部屋の中にいた。父親がリビングにいれば、麻子は自分の部屋で過ごす。いっしょに食事をするときもあった。しかし、会話などほとんどしない。いつも父親のほうが話しかけてきたが、たいていは無視したか、せいぜい空返事するくらいだ。

 そのせいで、父親が何を話していたのか、全く思い出せない。父親に関する思い出など、ほとんど残っていないことが、麻子には無性に悲しく感じられた。

 麻子は、ポケットの中に入っていた小さな箱を取り出した。鬼神から受け取った後、肌身離さず持っていたおかげで、警察に没収されてしまうことは避けられた。

 箱を開けてみると、中には指輪がひとつ。青みがかった緑色のきれいな石がはめてある。そして、その指輪の横に、小さな金属の板のようなものが挟まっていた。

 麻子は、特に気にすることもなく蓋を閉め、机の上に箱を置いた。しばらく、その箱を眺めていたが、やがて背を向けると部屋から去っていった。

 人がいなくなったのを自動的に察知して部屋の明かりが消え、部屋は暗闇に包まれた。


 『ノア』は、紫龍が死んだことをニュースで知り、天を仰ぎ見た。

「何ということだ。私の試練はまだ終わらないというのか」

 そう言うと、椅子から立ち上がり、服を脱ぎ始めた。

 机にある金属製の鞭を握りしめ、自分の背中に強く打った。鞭は金属の鎖が束ねられてできている。その鎖の輪ひとつひとつに棘が付いていた。『ノア』の背中の皮膚が破れ、血がにじむ。しかし、『ノア』は自らを打つことを止めなかった。

 床に、血が滴り落ちる。鞭についた血が飛び跳ね、まるで血の霧が現れたかのように周囲が赤く染まる。

「これは、私へのさらなる試練。まだ私は試されるというのか。この世界を浄化できるまで、私の苦しみはなくならないというのか」

 なおも自分の背中に鞭を打つ。背中は真っ赤に濡れ、苦痛のために『ノア』は目を強く閉じていた。しかし、不思議なことに、口元には薄っすらと笑みがこぼれている。その表情を見たものがいれば、まず間違いなく戦慄するであろう。

 赤い血に染まった鞭を床に放り投げ、脂汗で濡れた顔を上に向ける。目を閉じ、ゆっくりと両手を上げ、まるで大きな丸い球を持ち上げるかのような格好でしばらく動かなくなる。

「聞こえる・・・もう間もなくだ。目的が果たされるまで、苦難の道をともに歩こう」

 背中の傷をまったく気にする様子もなく、まるで幸福で満たされたような顔で『ノア』はつぶやいた。


 部屋にマリーが入ってくるのを見て竜崎が

「共犯者の身元がわかったのか?」

 と尋ねた。しかし、マリーは

「途中までトレースできたのですが、車で移動した後の足取りが分かりません」

 と答えるだけだった。

「どこまで車で移動したかは分かるんだろう?」

「はい、E-2エリアの商業スペースです。そこで車を降りたのは間違いないのですが、どの監視カメラにも姿が映っていないのです」

「どういうことだ? 忽然と姿を消したということか?」

「そうとしか考えられません」

 マリーの返答を聞いて、竜崎は下を向いて口を尖らせた。

「それと、紫龍の部屋からの押収物を調査しました」

 マリーは、竜崎の反応を気にすることなく報告を続けた。

「なにか分かったか?」

「メールを最後に送信したのが5月2日。それ以降は利用されていません。その最後の送信メールですが・・・」

 マリーが話すのを途中で止めるのを見て、竜崎が

「どうした?」

 と尋ねた。

「紫龍はどこかの会社だと思っていたらしいのですが、アドレスはフリーメールのものですね。ユーザー名はarkになっています」

「アーク・・・契約の箱か」

「確かノアの方舟もアークですね」

 浜本が会話に入り込んできたが、竜崎は気にも留めずに

「それが共犯者の可能性ありということか?」

 とマリーに聞いた。

「その通りです。紫龍は、この・・・便宜上、アークと呼ぶことにします・・・アークに会っていた可能性が高いです。そこで殺人の依頼を紫龍が引き受けたのではないでしょうか」

「そいつを使って身元はわからないのか?」

「自分の家にある端末からアクセスしたのであれば、特定はできますが・・・」

「おそらく、身元が特定できるようなヘマはしないでしょう。ラウンジにある共有端末を利用したか、どこかの端末を踏み台にでもしていますよ」

 浜本がまた口を挟んだ。

「念のため、調べてみます」

 マリーはそう言って立ち去っていった。

「アンドロイドの頭が見つからなかったということは、アークが持ち去った可能性が高いということだ。そいつさえ捕まえれば、全ての謎は解けるさ」

「紫龍はアンドロイドの頭を持ってくるように頼まれたわけですよね。なぜ、人間を誤って殺してしまったのでしょうか?」

 浜本の問いに

「お前は、人間とアンドロイドの区別がすぐにできるのか?」

 と竜崎が逆に尋ねた。

「少し話をすれば、なんとなく勘づくじゃないですか」

「紫龍は相手に目を合わすこともできなかったんだ。そんな状況じゃ区別などできんだろう」

「確かにそうですね」

「しかし、最近な、あのアンドロイドの頭の中で考えてることが、妙に人間臭く感じることがあるんだ」

「どういう意味ですか?」

 浜本が、竜崎の顔を見て尋ねた。

「アンドロイドが、人間に近づいてるんじゃないかと考える時があるんだ」

「それは考えすぎじゃないですか。確かに今のアンドロイドの学習能力には眼を見張るものがありますが、やはり中身は電子回路ですよ」

「我々の脳だって、電気でものを伝えてるんだろ。同じようなものさ。それにな、アンドロイドはネットワーク上で互いにつながっている。さらには端末上のデータともリンクしているんだ。膨大な知識を持ったひとつの生命体だよ。アンドロイドはその細胞といったところか」

 竜崎は軽い口調で話していたが、その顔は真剣だった。

「人間は、その中に取り込まれた異物くらいに見られているんですかね」

「そのうち、病原体と認識されて排除されるようになったら恐ろしいな」

「まあ、人間に危害を加えないようリミッターがありますから、そんな状況にはなりませんよ」

「警備用アンドロイドは人間も攻撃できる。リミッターなんて、その気になれば外せるんじゃないか」

「だとしたら怖いですね」

 浜本は、そう言って笑みを浮かべた。


「鬼神さん、あなたは紫龍の共犯者に対してメールしましたね」

 電話から流れるマリーの声を聞いて、鬼神は内心『しまった』と思ったが、冷静な声で

「もしかしたら、網にかかるんじゃないかと思ってね」

 と応えた。

「今のところ返信はないようですが、他の手段で連絡はありませんでしたか?」

「残念ながら、全く反応なしだ」

「そうですか。では、連絡がありましたら教えて下さい。私も引き続き監視を続けます」

 鬼神は、電話を机の上に置くと、額を押さえたままうつむいてしまった。

 メールのことが警察にも知られるわけだから、履歴も調べられるのは当然のことだ。それを考慮していなかったのは失敗だった。

 しかも、今のところ『ノア』から返信はない。もう一度、メールを送ろうかと考えていた矢先にマリーから電話があったのだ。

 これからどうするか、考えあぐねていたとき、不意にチャイムの音がした。

 玄関へ向かい、扉を開けると、一人の男が立っていた。

「鬼神さんですね」

「そうだが」

 鬼神の返事を聞いて、男が何かを差し出した。一枚の封書だ。

「郵便が届いています」

 郵便など、何年もの間、受け取ったことがなかった。鬼神は、意表を突かれたような表情で封書を受け取った。

 送り主の名前はどこにも書かれていない。部屋に戻り、鬼神は封を開けて中の手紙を取り出した。

『6月3日21時に、F-2エリアの商業スペース『カグヤ』にあるバー『ムートン』で待つ。』

 手紙には、それだけしか書いていなかった。しかし、送り主は誰なのか、鬼神にはすぐに分かった。

 どうやって調べたのかは分からないが、『ノア』はこちらの素性を全て知っているらしい。

 6月3日といえば、明日である。鬼神は、マリーには黙ったまま一人で行ってみることにした。


 華やかなイルミネーションに彩られ、あたりが明るく色付いている。

 鬼神は、バー『ムートン』の扉を開けて中に入った。

 外の華やかさとは正反対の、落ち着いた雰囲気の店であった。古風なジャズ音楽が室内に流れ、間接照明が柔らかな琥珀色の光を放つ。

 店の客は数人程度。あまり繁盛しているようには見えなかった。皆、ひとりで静かに酒を飲み、話し声など全く聞こえない。

 約束の時間を5分ほど過ぎていたが、『ノア』はまだいないようだった。カウンターに座ると、バーテンダーが話しかけてきた。

「いらっしゃいませ。ご注文はいかがなさいますか?」

「ブランデーをもらおうか、ストレートで」

 グラスを片手にあたりを見回す。壁に羊飼いの絵が飾ってあった。昔の記憶をたどり、ミレーという遥か昔の画家の絵だと思い出した。

「ちょっとお尋ねしますが」

 急に話しかけられ、鬼神はすぐ横に男がひとり立っていることに初めて気がついた。

「何でしょうか?」

「あなたは鬼神さんですか?」

「ええ、そうです」

 全く見知らぬ男だった。なぜ自分の名前を知っているのか不思議に思っていると、男は話し始めた。

「これを渡すように頼まれましてね」

 そう言って男は一枚の封書を鬼神に手渡した。

「これで肩の荷が下りました。それでは」

 男が元の席に戻るのを鬼神は呆然と見ていたが、ふと我に返り封書に目を落とした。

 封書には何も書かれていない。中を開けると一枚の紙が入っている。

 あなたは監視されているようだ。まずは追手から逃げなさい。それから、D-2エリアの森林地帯へ向かうのです。

 手書きで書かれたメッセージを読んで鬼神は驚いた。まず、自分が追われる立場になっていること。おそらく、単独で共犯者と接触する可能性があると疑われているのだろう。そして、そのことを『ノア』が知っていたこと。どうやって鬼神が監視されていると気づいたのか、鬼神には分からなかった。

 鬼神は、店を出て周囲を見渡した。多くの人が行き交う中、光の当たらない場所に誰かが立っている。それも一人ではない。

 人の波に乗るように鬼神は歩き出した。どうやって追手を撒けばいいか考える。不意に、鬼神は2つのビルの間の小路に入った。

 その小路の付近に3人の男が近づいた。そっと覗き込むが、鬼神の姿は見当たらない。3人は慌てて小路の中へと駆け出した。

「どこへ行った?」

「まさか、尾行がばれたか?」

「とにかく探すんだ」

 3人が走り去る姿を、鬼神は遥か上の方から眺めていた。鬼神は、ビルの壁に両手を付け、反対側のビルの壁には両足を付けて、上へと登ったのだ。

 追手からは逃れられたが、まだ監視カメラがある。どうやって監視カメラの目から逃れるか、鬼神は思案した。

 その時、路地に丸い金属板のフタがあることに気付いた。マンホールだ。

 鬼神は、紫龍と同じ方法を使うことにした。


「鬼神さんは逃走したようですね」

 マリーが竜崎に話しかけた。

「なぜ、鬼神は一人でその男に会おうとしているんだ?」

 竜崎が浜本に問いかける。

「わからないですね。共犯者が警察に捕まっては困るんでしょうか」

「なにか弱みでも握られたのか、それとも知り合いだったのか・・・」

 竜崎は、あごをさすりながら考え込んでいた。

 浜本は、監視カメラに映った共犯者の写真をじっと眺めたまま

「穏やかな顔だ。とても人を傷つけるようなタイプには見えませんね」

 と言った。

「その顔は怪しいよ。誰にでも好かれるような顔。おそらく話し方もうまいだろう。しかし裏で何をやっているかは分からんさ」

「典型的なサイコパスということですか」

 浜本はそう言って写真を机の上に放り投げた。

「もう一つ、報告があります。例のメールを送信した端末のある場所が特定できました」

「どこだ?」

「E-3エリアにある商業スペースのラウンジです」

「じゃあ、あの男の姿も映っているんじゃないか?」

「たしかに映っています。そちらもトレースしてみました」

「それで?」

「同じです。車で移動した後、見失ってしまいます」

「どういうことだ?」

「車の中で顔を変えていたりして」

 浜本は冗談で言ったつもりだったが

「案外そうかも知れないな」

 と竜崎はそれを真に受けた。


 鬼神は、車から降りてあたりを伺った。

 夜の森は暗く静かだ。空気は冷たく、少し湿り気を感じる。土の匂いが鬼神の鼻をくすぐった。

 ゆっくりと、鬼神は森の中の道を歩いた。『ノア』はどこにいるのか、まずは探さなくてはならない。

 ライトの光がまっすぐな軌跡を描く。その光に照らされるのは、灰色の地面と銅のような木の幹、そしてガラス細工のように光る緑の葉だけだ。動く者の姿はどこにも見当たらない。

 しばらく進んでいると、ひときわ太い幹が目の前に現れた。巨大な松の木だ。この森のシンボルとして有名だった。

 松の木に近づくと、根本にダンボールの箱がひとつ置いてある。鬼神は、その箱を開けてみた。

 鬼神は思わず後ずさった。箱の中には、女性の頭が入っていたのだ。

 もう一度、箱の中を覗いてみる。目は無残にも潰され、頭の部分は切り裂かれていた。しかし、それは人間ではなく、アンドロイドの頭だった。

 行方の分からなかったアンドロイドの頭の部分だろう。鬼神は、箱の中にライトをあてた。

 封書がひとつ、箱の奥底にある。それを取り出すと、封を開けて中の紙を開いた。

 人間の進化を止めることは誰にもできない。

 あなたには、その進化の担い手となってほしい。

 明日の夜、C-3エリア1フロアの『アベル』という店に一人で来なさい。

 C-3エリアの1フロア。その場所は、行き場を失った者たちが暮らすスラム街だった。

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