第7話 ノア

 紫龍は、そっとマンホールのフタを上げて外を見た。

 今は明け方の時間帯だ。外はまだ薄暗く、広場に人の気配はない。紫龍は静かに地上へと這い出ると、百貨店のある場所とは反対の方角へゆっくりと歩き始めた。

 待ち合わせの時刻まで間もなくだ。男とは直接、決まった場所でしか会うことはできない。電話もメールも使うことは拒まれた。本名も知らない。知っているのは、通称『ノア』と呼ばれているということだけだ。

 運よく、停車中の車を見つけた。車へと近づくと、横から男女2人のカップルがやって来た。

「おい、俺達が先に見つけたんだ」

 2人は酔っているらしい。足元がふらついていた。

「なんか臭わない?」

 女のほうが口に手を当てながら言った。

「こいつ、産まれてから風呂に入ったことないんだぜ」

 男が笑いながら悪態をつく。

 自分の運のなさを呪いながら、紫龍は

「悪いが急いでいるんだ。他の車を探してくれ」

 と言い返した。

「ふざけるな」

 男が居丈高に叫んだ。しかし、紫龍は冷静だった。冷静でいられる自分に違和感を持つほどだった。目の前にいる男をこのまま殺してしまっても何も感じないだろうと思った。手を汚してしまった人間が落ちる闇の中に、自分はすでにいるのだと、このとき紫龍は確信した。

 詰め寄る男の首を掴む。そのまま持ち上げると、男は苦しみもがいた。

「誰か! 助けて!」

 女が大声で叫ぶのを聞いて、紫龍は男を放り投げた。そして素早く車の中に入ると、行き先を告げた。

 走り去る車を目で追った後、女は男の下へと駆け寄った。男は、首の骨を折られ即死だった。


 竜崎は自室のベッドで眠っていた。

 ベッドの近くにある目覚まし時計が時を刻む小さな音だけが部屋の中で聞こえる。

 突然、電話の着信音が鳴り響き、竜崎はすぐに起き上がった。

 竜崎が電話に出ると、相手が早口で話し始めた。

「寝ているところをすまない。香川だ」

 香川は、同じ殺人課の刑事だ。

「どうした?」

「G-6エリアの3フロア、商業スペースのマルセイ百貨店前広場で殺しがあった」

「マルセイ百貨店?」

「目撃者の話によると、犯人は痩せ型の中年男性で、スキンヘッドだったそうだ。汚物の臭いがしたらしい」

「紫龍に特徴が似ているな」

「犯行時刻は4時10分頃、広場にあった車に乗って逃げたようだ」

「わかった、ありがとう」

 竜崎は電話を切ると、すぐにマリーに電話で指示を出した。

「4時10分頃にG-6エリアの3フロア、商業スペースのマルセイ百貨店前広場から発車した車をトレースしてくれ」

 竜崎は、ベッドから出て立ち上がり、眠気を覚まそうと頬を両手で叩いた。

 そして慌てて身支度を済ませ、外へと出ていった。


 紫龍は、予定より早く待ち合わせ場所に到着していた。

 時刻は5時。天井にある人工太陽が徐々に明るくなり、あたりを照らし始めていた。

 紫龍が今いる場所は農場だ。しかし、土壌があるわけではない。作物は全て水耕栽培で、しかも完全にオートメーションだ。そのための巨大な施設は見学が自由であり、学校の授業に利用されることはあるが、わざわざ訪れる者などほとんどない。しかも今は早朝である。紫龍以外に人など誰もいなかった。

 それでも、監視カメラはいたるところに設置されている。紫龍は今回も下水道を使わなければならなかった。汚物の臭いがなかったのがせめてもの救いだ。

 遠くから『ノア』が歩いてこちらに向かってくるのが見えた。

 その姿を、紫龍は強張った顔で凝視している。

 『ノア』は、穏やかな笑みを浮かべている。それは、いつもと変わることのない表情であった。『ノア』が表情を変えることは決してない。そのせいで、何を考えているのか、紫龍にはまったく予想ができなかった。

「無事だったようですな」

 『ノア』が紫龍に声を掛けた。

「なんとかな。で、どうなんだ?」

 紫龍が『ノア』に尋ねる。

「解析が、終わりましたよ」

「結果は?」

「道は見つかりました」

「本当か?」

「本当です。さすがに私も驚きました」

 『ノア』は笑みを浮かべたままそう言った。


 鬼神は、車を降りてすぐ、あたりを見回した。

 警察から電話があったのが早朝の5時頃。紫龍の居場所を突き止めたとの知らせを受けて駆けつけたのだ。

「今、E-5エリアの3フロアに着いた。監視カメラには動きはないか?」

 電話で尋ねてみるが

「反応ありません」

 とそっけない回答が返ってきた。

 周囲は白い外壁の巨大な建物がいくつも並んでいる。何かの工場であるということぐらいしか鬼神は知らなかった。

 紫龍がこのフロアにいないことは鬼神も予想していた。エレベーターを見つけると、他のフロアに何があるのか確認した。

 上のフロア、4フロアは工場が、下のフロア、2フロアは農場があった。

 紫龍がなぜ、この場所に来たのか、鬼神には見当がつかなかった。そして到着したのは工場と農場しかない場所だ。どこに向かったのか全く予測できない。

 しばらくして、別の車が到着した。中から現れたのは2人の男性だ。どちらも非常にきれいな顔立ちをしているが、どこか感情が感じられない。

「鬼神さん、応援に来ました。私はアダムで、こちらがホワイトです。指示をお願いします」

 応援がアンドロイド2体しかいないことに不満はあったが、鬼神はすぐに

「一人は4フロアの工場を捜索してくれ。もう一人はここで見張りを。俺は2フロアの農場を調べてみる。何かあったら伝えてくれ。俺の電話の番号は知っているな」

 と指示を出した。

「はい、大丈夫です」

 鬼神は、その返事を聞くが早いかエレベーターへと乗り込んだ。


「中に入るには、このチップをかざせばいいのです」

 『ノア』は、紫龍に小さなチップを渡して話を続けた。

「このチップはアンドロイドの額に埋められているものです。額にでも貼り付けておけばすんなり通れるでしょう」

「他には何もチェックしないのか?」

「アンドロイドは持ち主の好みで顔も性別も変えられます。そのチップが、アンドロイドの唯一のアイデンティティーです」

 紫龍は、『ノア』の話に納得したようにうなずくと、ポケットから小さな箱を取り出してフタを開けた。

 中には、緑青色をしたきれいな宝石のついた指輪が入っていた。

「きれいな石ですな」

 『ノア』が指輪に関心を示した。

「トルマリンという石だ。この色は、非常に珍しいものらしい」

「娘さんへのプレゼントですか?」

「妻の結婚指輪だったのだが、娘に渡そうと思ってな」

 紫龍は、そう言いながらチップを宝石の横に並べ、フタを閉めた。

「あとは、あなたの運次第です。幸運を祈っています」

 『ノア』の言葉に紫龍は

「ありがとう。この恩は一生忘れない」

 と礼を言った。

 微笑みを浮かべたまま、『ノア』は後ろへ振り向き、その場を去っていった。


 鬼神を乗せたエレベーターが2フロアに到着した。

 エレベータの扉が開き、外へ出ようとした時である。目の前に立っていた男に鬼神は少し驚いた。

「おっと、これは失礼」

 男が軽く頭を下げた。

「いや、こちらこそ失礼しました」

 そう言って、鬼神は立ち去ろうとした。

「ちょっとお待ち下さい」

 男が呼び止めるのを聞いて、鬼神は振り向いた。

「なんでしょうか?」

「こんなに朝早く、この農場へ見学ですか?」

 男の質問に鬼神は

「いいえ、見学ではありません」

 と答えた。

「それでは、どうしてこんな場所に?」

 男は笑みを浮かべて尋ねた。殺人犯を追っている、とは言いづらい。

「あなたは、この施設の管理者かなにかで?」

 鬼神は、逆に聞き返した。

「そうです。この農場を管理している者ですが、実際は何もすることはないんですよ。ですから、見学の方ならぜひ、私に案内をさせてもらいたくてね」

 農場の管理者なら、もしかしたら紫龍を目撃しているかもしれないと鬼神は思った。

「いや、人と会う約束をしていましてね。このあたりで、痩せたスキンヘッドの男を見てはいませんか?」

「そんな人は見ていないですね。こんな朝から農場に訪れる人なんていませんから」

「そうですか。では、探してみますよ」

「まあ待って下さい。この農場へはエレベーターでしか来れないんですから、ここで待っていれば会えますよ。それより、少し話し相手になってくれませんか? なにしろ、いつも一人で暇なものですから、話し相手がほしいんですよ」

 鬼神は、少し困った顔で

「悪いが、世間話は苦手でね。話し相手にはならないと思うが」

 と断ったが

「いや、最近はいろいろと物騒ですな。ひどい殺人事件が続いているようじゃないですか」

 と男が話し始めた。

「そのようですな」

 鬼神は、栽培用の施設がある方を眺めながら曖昧に返事をした。

「私はね、どんな奴が犯人なのか、いろいろと想像していましてね。メディアは通り魔だと言っているけど、犯人は何か目的があるんじゃないかと考えているんですよ」

「目的ですか?」

「そう、何かを探しているんだとね」

 鬼神は、男の話に少し興味を持った。

「なぜ、そう考えるのですか?」

「犯人が、アンドロイドの頭だけを持って逃げているからですよ」

 アンドロイドの頭部を犯人が持ち去っていることはメディアにも取り上げられているし、当然、鬼神も知っていた。警察は、それが犯人の動機ではないかと推測はしているものの、いったい頭部で何をするつもりなのか、見当がつかなかった。

「あなたは、どんな目的があるとお考えで?」

 鬼神が興味本位に聞いてみた。

「簡単です。アンドロイドの秘密を暴きたいのですよ」

「アンドロイドの秘密? どんな秘密があるのですか?」

「あなたは、アンドロイドが定期的にメンテナンスを受けることはご存知でしょう」

 アンドロイドは、人間のように食べることも眠ることも必要ない代わりに、定期的なメンテナンスは必要になる。主に電池や消耗パーツの交換などが行われるのだが、その工程は完全に自動化され、人間は全く関わっていない。人間が作り上げた工場が、人間の目に触れないところで稼働しているというのも不思議な話である。

「それは知っています」

 鬼神は素直に答えた。

「アンドロイドの見た映像は基幹システムのデータベースに保存され、管理されていることはご存知ですか?」

「それも聞いたことはあります。しかし、保存されるのは業務の間だけで、プライバシーに関わる箇所については記録されないはずですね」

「そう、家庭で稼働しているアンドロイドの視覚情報はほとんど記録されません。ですが、もう一つ、基幹システムに記録されない情報があるんですよ」

 男はにこやかな顔をしたまま鬼神の顔をじっと見つめていた。それが何か、当ててほしいと訴えているように見えた。

「メンテナンス中の映像が残らないということですか?」

「その通りです。不思議ではありませんか? なぜ、メンテナンス中の映像を記録しないのか」

「それは、部品の交換などが行われるわけだから、仕方ないのでは?」

「ところが、記録されないのはメンテナンス中だけではない。もっと前から記録はストップします。そう、メンテナンス工場に入る前から。つまり、アンドロイドがどこでメンテナンスを受けているかわからないということです」

「それはA-3エリアにある工場でしょう」

「そしてそこは汚染地帯でもあります。誰も入ることができない場所ですよね」

 鬼神は、男が言わんとしていることがわかった。

「あなたは、メンテナンス場所が別にあるとお考えで?」

「その通りです。犯人は、その場所を確かめたかったのではないですか?」

 確かに、アンドロイドがどのようにメンテナンスを受けているのか、現在はブラック・ボックスの状態だ。メンテナンス場所が別にあると考えることはできるだろう。しかし、根拠などないように鬼神は感じた。

「おもしろい話ですが、にわかには信じがたいですね」

「いえいえ、ちゃんとした理由もあるんですよ」

「そうですか。機会があればぜひ教えていただきたいが、もう行かなければ。もう待ち合わせ時間を過ぎていますから、どこかで待っているはずです」

「おっと、それは失礼しました。また、お会いできる日を楽しみにしていますよ」

 男はそう言い残してエレベータへと乗り込んだ。穏やかな笑みを浮かべ、磨かれた黒い石のように輝く瞳をまっすぐ鬼神に向ける。その目に、鬼神は何か狂気に似た強烈に激しい感情が潜んでいるように感じ、少し寒気を覚えた。

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