第6話 逃げる者と追う者
鬼神は、足元に自分の足跡が残っているのを見つけた。
エレベーターを見ていたときは光の加減なのか全く気づかなかったが、床の上にはホコリがたまり、灰色の層ができていた。自分の歩いた跡の他に、誰かが通ったらしき足跡がある。それは、自分の右手の方へと進んでいた。床に敷き詰められたタイルの一枚に手で触った跡がある。鬼神は、そのタイルへと近づいた。
そのタイルをよく見ると、中央に指で押したような跡が付いていた。試しにその場所を押してみる。驚いたことに、押した部分がくるりと回転して持ち手が現れた。指の跡がなければ決して気づくことはなかっただろう。持ち手を指に引っ掛けて持ち上げてみると、タイルが外れ、下に空洞が現れた。中を覗いたところ、はしごが下に伸びている。
「こんなところに?」
鬼神は、はしごを降りてみることにした。
中は意外に広く、ところどころに人が通れる通路もあるところを見ると、磁力エレベーターのメンテナンス用にあるのかもしれない。このまま下のフロアまで続いているかはわからないが、とにかく一番下まで降りてみることにした。
しばらく降りていくと底が見えた。下まで降りてライトであたりを照らす。細長い通路が伸びていて、その左側は手すりがあるだけで壁がない。その向こうは空洞になっている。エレベーターのかごが通る場所だ。通路の行く先には扉がある。通路を渡り、扉を開けると床にハッチを見つけた。ハッチは開いたままだ。
「不用心だな」
そうつぶやいて、鬼神は床下に伸びるはしごを再び降り始めた。
はしごと通路を交互に進む。何度それを繰り返したのか、鬼神は覚えていない。やがて、はしごを降りた先に通路ではなく鉄製の扉が現れた。その扉を開けると、ようやく違う景色の場所へと出た。景色と言っても、目の前は暗闇が広がるだけで、どの程度の広さなのかもわからない。おそらく、ここが最下層であろうと鬼神は思った。
ライトの光で周囲を照らしてみた。エレベーターの扉が今は右手に見える。左側へ光を当てると、巨大な掘削用の機械が目に映った。地面には太いケーブルが大蛇のように横たわっている。
汚染地帯は百年もの間、放置されてきた場所だ。当時は感染経路もはっきり分からなかったから、おそらく人々はパニックになったことだろう。その時の恐怖が、今でもこの地に染み付いているようだ。
ライトで地面に光をあてながら、ゆっくりと前へと進む。ホコリなのか、それともカビの胞子でも漂っているのか、光に照らされて空中にダイヤのようにきらめく粒子を見ると、未知の菌やウィルスに感染しそうな気がして呼吸するのもためらわれる。
この暗闇の中に潜んでいるのであれば、見つけるのは容易ではない。暗視スコープを持ってこなかったのは失敗だったと鬼神は後悔した。
ライトがなければ前へは進めない。しかし、ライトの光でこちらの位置は分かってしまう。この状況を打破するためにはどうすればよいか。鬼神はあるものを探していた。
突然、あたりが光で照らされ、紫龍は驚いて身を隠した。
鬼神は、緊急用の予備電源を探していたのだ。停電により照明が落ちても避難ができるよう、工場には必ず設置されていた。暗がりでも見えるように、スイッチのある場所は発光しているため、それほど苦労せずに場所を特定することができた。
紫龍にとって、これは誤算だった。まず、すでにハンターに尾行されていたとは思っていなかった。下のフロアへ降りるための入り口が見つかるとも想定していなかったし、万が一ここまで来ても、光のない場所であれば絶対に見つからないという自信があった。しかし、これでは発見されるのは時間の問題だ。紫龍は、すぐにここから逃げることに決めた。
鬼神は、物陰に隠れながら紫龍がどこにいるのか探した。闇に隠されていたものが照明の光にさらされ、無数の死体が転がっているのを発見したときは鬼神も驚いた。彼らは百年もの間、この暗黒の中で人知れず眠っていたのだ。
その死体を避けながら、鬼神はゆっくりと奥の方へ進んでいった。周囲に音は何も聞こえない。足音を立てれば近づいていることが分かってしまうだろう。鬼神は、次に設備の中央管理室がないか探した。
紫龍も、あたりを見回しながらゆっくりとエレベーターのある場所へ向かった。まだ、ハンターとの距離はあるだろうと予想し、なるべく早足で進む。ハンターに見つかった時、上へ昇る階段にできるだけ近いほうが有利だろうと考えたのだ。
急にあたりの機械が動き出すのを見て思わず紫龍は立ち止まった。ハンターが、設備を稼働させたのだ。とは言っても、予備電源で動く小型の装置だけだが、それでも百年の時を超え、何の問題もなく各々の機械が自分の仕事を果たしているのは驚くべきことだ。
周囲の雑音によって、相手が歩く足音は聞こえない。それはどちらにとっても同じことだ。もはや、先に相手を見つけ出すしか手段はない。ここで紫龍は、このまま進むべきか、立ち止まって相手が通り過ぎるのを待つべきか迷った。
鬼神は、制御室から外に出て紫龍の捜索を始めた。今回は、相手の身柄を拘束することが目的だ。鬼神は、強力なスタンガンを手に取り、物陰に隠れながらゆっくりと前進した。
紫龍は、もはや動けずにいた。物陰に身を潜め、ただ相手の姿が現れてくれるのを待つことしかできなかった。
(もう無理か・・・)
そう思い、目を閉じる。娘の顔を思い浮かべ、再び目を開けた。遠くにハンターの、鬼神の姿が見えた。
紫龍はすぐに身を隠した。もう一度、相手の姿を探す。紫龍が潜んでいるのは、何の目的に使われるのかよく分からない大きな機械の影だった。そこから50mほど離れたところに別の機械があり、その影に鬼神が隠れていた。
紫龍は、鬼神の姿を目で追いながら、鬼神の進む方向とは反対に移動していった。鬼神は紫龍には気づかず、そのまま通り過ぎていく。ゆっくりと、紫龍は鬼神から離れるように後ずさっていった。
鬼神が奥へと進んでいくのを見て、紫龍は機械の間を縫ってエレベーターのある場所へと足早に向かっていった。このまま上のフロアに戻り、車で移動すれば逃げることができるだろう。しかし、その後をどうするか。紫龍には何の考えも浮かばなかった。
逃げた後のことを思案していたために、周囲に気を配ることができなかった。機械の上に置いてあった工具箱に、背負っていたバックパックがあたり、床へと落としてしまった。工具が床に散乱し、鋭い金属音があたりに響き渡る。鬼神は、その音を聞いて後ろを振り向いた。
紫龍は慌てて駆け始めた。鬼神がその姿を認め、すぐに追い掛ける。2人は、人間とは思えない凄まじい速さで工場内を走った。障害物の機械を巧みに避け、ときには飛び越えて、紫龍はエレベーターホールへと向かい、鬼神がその後を追った。
エレベーターホールにたどり着いた紫龍は、すぐに右側にある扉を開けてはしごを昇り始めた。いや、はしごを昇るというよりは、まるで猿のごとく手や足を掛けて飛ぶように走ると言ったほうがいいだろうか。その後を追いかける鬼神も、同じようにはしごを駆け上がっていった。
タイルの一枚が吹き飛んで、中から紫龍が飛び出してきた。走りながら、車がないかあたりを探す。しかし、従業員以外にこのあたりをうろつく人間などいない。車が停まっているわけもなく、紫龍は焦った。どうするか迷っているうちに鬼神が迫ってきた。
「待て、止まれ!」
鬼神が叫びながら追い掛けてくる。
端末を操作して車を呼び出す余裕などなかった。セキュリティーゲートを飛び越え、近くにあるエレベーターに飛び込むと、急いでドアを閉め、適当に階数ボタンを押した。エレベーターは、上の階へと昇っていく。上層に車があれば、それを利用しようと考えたのだ。
エレベーターが着いた先は工場内の施設だった。
「あなた、許可証は持っていますか?」
近くにいた男に尋ねられ、すぐに逃げ出した。施設の外にある道路へ向かう。
施設を飛び出して車を探すが、どれも資材運搬用の車だ。複雑に入り組んだパイプが道路の両側にずらりと並び、その間を車が行き交う光景は、無機質で洗練され、冷たく感じる。
道路の上を全力で走る。足が悲鳴を上げていた。何とか車を見つけたかったが、どこにも乗れる車はない。
鬼神がやって来た。紫龍の姿を遠くにとらえ、すぐに追いかける。
紫龍は、ここで思い切った賭けに出た。車道へと出ると、走行している資材運搬車の一台に手を伸ばした。車は大きく、しかも高速で移動している。車体の横に、取っ手のようなものが付いていて、紫龍はそれを掴んだのだ。たちまち、紫龍は車とともに走り去ってしまった。それを見た鬼神は、唖然として小さくなった車を眺めていた。
肩が外れるのではないかと思うほどの衝撃に何とか耐えて、紫龍は車の横にしがみついていた。この車がどこへ行くのかはわからないが、停まるまで手を離すことはできない。離せば死は避けられないだろう。しかし、車の安全装置が働き、緊急停止することも考えていたが、その心配はないようだ。
車は外周の広い道路へ出ると、壁にあるトンネルの一つに入っていった。中は光の全くない暗闇だけだ。前方から猛烈な風を受け、紫龍は息をするのも辛い状態だった。これがあとどのくらい続くのかも分からず、紫龍はただ耐えることしかできなかった。
鬼神は、どうすることもできず、警察へ電話を掛けた。
「紫龍が逃走した。工場にあるトラックの一台にしがみついて移動中だ。どこで停車するか、解析はできないか?」
「車のナンバーは分かりますか?」
「Pの12の・・・それ以上はわからない」
「探索します。少しお待ち下さい」
鬼神は、同じA-2エリア内に停車することを祈りながら返答を待った。もしそうなら、先回りして待ち伏せできるかも知れない。
「幸運でした。Pの12で始まるナンバーは1台しかありません。Pの12の9。A-2エリアの4フロア、電子ペーパーのリサイクル工場に停車予定です」
返答を聞いた鬼神は、後ろに控えていた男性に
「電子ペーパーのリサイクル工場へはどう行けばいい?」
と尋ねた。
紫龍は、車から振り落とされないように必死に耐えていた。すでに手には感覚がなく、かろうじて車体のくぼんだところに掛けた足も限界に近かった。逃げる時、身体にかなりの負荷を掛けてしまったことも災いした。朦朧とした意識の中で、紫龍を奮い立たせているのはただ一つ、無謀ともいえる目的への執念だけだ。
車は突然、明るい場所へと出た。トンネルをようやく抜けたのだ。しばらくして車のスピードが遅くなり、紫龍は手を離して地面に転がり落ちた。仰向けになり、震える手で端末を持って、なんとか車を手配することができた。あとは、車が到着するまでこのまま待つだけた。
鬼神はエレベータの中にいた。4フロアにある目的地までは、さすがに時間がかかる。待っている間に電話の着信音が鳴った。
「どうした?」
鬼神の言葉に相手は
「A-2エリアの4フロア、電子ペーパーのリサイクル工場付近で車の呼び出しがありました。おそらく犯人のものと思われます」
と伝えた。
「おい、止められないのか?」
「それはできません。車は、あと5分ほどで到着予定です」
「くそっ、間に合うか?」
鬼神は、エレベータから出るとセキュリティーゲート前にいた警備員に警察バッジを見せた。
「警察だ、ここを通るぞ」
そう言うが早いか、鬼神はセキュリティーゲートを飛び越えて施設の外へと信じられない速さで走り出した。警備員はその姿を唖然として見送っていた。
車が紫龍の横に停められた。紫龍は起き上がり、なんとか立ち上がろうとするが、足が動かない。車のドアが開いた。座席に手を伸ばし、必死になって中に乗り込もうとする。
鬼神が、紫龍が乗り込もうとしている車を見つけた。疾風のごとく鬼神は車の方へと駆け出した。
紫龍は、なんとか座席に座ることができた。車のドアが閉まるとすぐ、紫龍は行き先を告げた。
あと少しで車にたどり着くというところで、車は発進してしまった。鬼神はすぐに電話を掛けた。
「逃げられた。行き先はどこだ?」
「行き先は・・・G-6エリアの3フロア、商業スペースの中央広場です」
「まずいな、人通りの多い場所だ」
鬼神は、端末からすぐに車を呼び出した。
車の中で、紫龍は手で足をさすってみたが、まるで自分の足ではないように感覚がない。手も動かすのがやっとの状態だが、足の方はもっとひどかった。
「車椅子の手配を頼む」
「承知しました」
無機質な返答に、紫龍はため息をついた。これからどうやって逃げ延びればいいのか、いくら考えてもいい案が浮かばない。端末で時刻を調べると、すでに深夜の0時を過ぎていた。
これまで、何の罪もない人間をふたり殺した。その報いを受けているのかも知れないと紫龍は思った。もう、自分が逃げ切る自信はなかった。しかし、なんとか捕まる前に娘を今の呪縛から解放してあげたかった。
(どこかに隠れられたら・・・)
今、向かっている商業スペースは頻繁に行ったことのある場所ではあるが、監視カメラがどこにあるかは全く分からない。おそらく行き先はすでに知られているから、監視カメラに自分の姿が映れば簡単にトレースできる。どうやって監視カメラの目から逃れるか、紫龍は思案した。
足に力を入れてみる。膝がガクガクと震えた。感覚は少し戻ってきたが、まだ歩ける状態ではない。足の状態が回復するまで、できればどこかへ身を潜めたかった。
(あそこなら・・・)
紫龍は、ある場所を思い浮かべた。
紫龍の後を追って、鬼神は車で移動していた。
紫龍が車で逃げてから10分近くは待たされた。10分もあれば、逃げることは十分に可能だ。鬼神は焦りを感じていた。
電話の着信音が鳴った。
「犯人の車が目的地に到着しました」
電話からの報告を聞いて
「監視カメラに姿は映ってないか?」
と鬼神は尋ねた。
「犯人の姿をとらえました。車椅子を使うようです」
「車椅子を?」
「犯人は負傷したのですか?」
「トラックにしがみついていた時に負傷したのか、もしくは負荷を掛けすぎたのかもしれないな」
「犯人は中央広場から西へ移動しています」
「応援は誰もいないのか?」
「鬼神さんだけで大丈夫だと思っていたもので」
そう言われると、何も返すことができない。
「わかった。そのままトレースを続けてくれ」
鬼神は、電話に耳を傾けたまま、外の暗闇をじっと眺めていた。
鬼神は、商業スペースの中央広場へと降り立った。
すでに深夜だというのに人通りはまだ多く、車への乗り場には長い行列ができていた。高層ビルが壁を作り、その間の歩道は店からの灯りに照らされて昼間のように明るかった。
人の間を縫うように歩きながら、鬼神は電話に話しかけた。
「今、到着した。紫龍はどこへ逃げた?」
「中央広場より西のマルセイ百貨店前へ向かって下さい」
鬼神は、電話の指示に従い、西へと足早に進んでいった。
マルセイ百貨店には大勢の客が出入りしていた。鬼神はあたりを見回してみたが、車椅子に乗った紫龍の姿は見当たらない。
「マルセイ百貨店に到着した。ここから移動はしていないのか?」
「現在、監視カメラには映っていません。そのあたりにいるはずですが」
「建物の中に入ってはいないのか?」
「店内のカメラにも反応ありません。犯人は動いていない模様です」
「しかし、どこにも見当たらないぞ」
鬼神は、行き交う人々を避けながら何度も探してみるが、一向に見つからない。
マルセイ百貨店から道を挟んで反対側には、たくさんのテントが軒を連ねていた。
そのひとつに近づいて、中を覗いてみる。
暗闇の中、一人の男が立っていた。
「哀れな民よ、天の導きをお求めか?」
昔からある宗教団体だ。天からの声が人を導くと説いている。無害だが、一度目をつけられるとしつこく勧誘される。
「人を探している。車椅子に乗った男を見なかったか?」
「いや、そのような方はいらしていませんが。それより、少しお話をしませんか? 人生が豊かに感じられることでしょう」
「結構、失礼するよ」
そう言い残して鬼神が去っていくのを見ると、男は中へと進んでいった。
「もう大丈夫です。あなたを悩ませる悪しき者は去りました」
男が奥に向かって話しかける。
「ありがとう。それではしばらく、あなたの話を聞くことにしよう」
紫龍は笑みを浮かべながら応えた。
「おかしい、どこにも見当たらない。監視カメラの方はどうだ?」
鬼神が電話の相手に尋ねた。
「見つかりません。不思議ですね」
「隠れるような場所はどこかにないか?」
「百貨店の入り口にはカメラがあります。中に入っていれば見つかっているはずです」
「そうすると、反対側の広場か」
「そちらにはカメラがありません。ですが、広場にいれば目につくと思いますが」
「怪しい宗教の勧誘をしているよ。テントがいくつも並んでいる。全部調べてはみたが、どこにもいなかった」
「しかし、そのテントに潜んでいる可能性が高いのではないでしょうか?」
鬼神は、尋ねただけで実際に調べたわけではなかった。嘘をついている可能性はある。鬼神はもう一度、テントの中を探ってみることにした。
今度は警察バッジを見せて奥まで見せるよう命じた。越権行為だと文句を言われながら、鬼神は隅々まで調べるが紫龍は見つからない。
「警察だ。もう一度、中を見せてもらうよ」
テントの一つに入り、男に警察バッジを見せる。
「それはできません」
「なぜだ?」
「天の導きに従い、迷える者を救うのが私の使命」
「その迷える者がここにいるということだな?」
「今すぐ立ち去りなさい。天はあなたの行いを赦さないでしょう」
両手を広げて仁王立ちする男に対し、鬼神はライトの光を浴びせた。
「俺は今、殺人の容疑者を追っている。それを幇助するつもりなら、お前も逮捕せねばならない。協力するか、警察に行くか、好きな方を選べ」
テントの外からの光を浴びて、男には鬼神のシルエットしか見えない。しかし、赤銅色の目から放たれる鋭い眼光だけは、男の目にはっきりと映った。その相手を威圧するような眼力に男の視線が泳いだ。手をおろし、横にあった椅子に腰掛けるのを見て、鬼神はライトの光を奥へと移した。
奥には、車椅子だけが残されていた。紫龍の姿はどこにもなかった。
「車椅子に座っていた男はどこへ行った?」
鬼神が男に尋ねた。
「下をくぐり抜けて逃げていったよ」
どうやら、入り口とは反対側から抜け出して逃げたらしい。すぐに電話を掛けて
「犯人は車椅子を置いて逃走中。足のほうは回復したようだ」
と伝えた。
「監視カメラには反応なし。まだ近くにいるはずです」
その言葉を聞いて、鬼神はすぐに外へと走り出た。
テントの裏側は広場になっている。中央に噴水があり、照明によりあたりは明るく照らされていた。通路側に比べると人はまばらで、噴水のそばで腰掛けている者や、荷物を持って歩いている姿が見えた。紫龍の姿はどこにもない。
その後も鬼神は近辺をくまなく探したが、ついに紫龍を発見することはできなかった。監視カメラにも、紫龍の姿は映らない。
「おかしい、これだけ探していないとは」
もう一度テントの中を探し、再び広場を見て、通りを隅々まで歩いてみる。すでに時刻は3時を過ぎ、通りにいた人もかなり少なくなっていた。
「外に逃げる手段があるんじゃないか?」
鬼神が電話で尋ねた。
「犯人は、殺害現場への移動に下水道を使っていたという情報がありますが」
その言葉に
「なぜそれを早く言わないんだ!」
と鬼神が叫びながら広場へと走った。
地面を見回すと、噴水の近くにマンホールが1つある。
「これだ。逃げられた」
おそらく、下水道を通って他の場所へ移動し、車で逃げたのだろうと鬼神は判断した。そうなると、もはや追いかけるのは不可能だ。
「おそらく、別のエリアへと移動しているだろう。全ての監視カメラをチェックしてくれ」
「分かりました」
鬼神は、これ以上の追跡をあきらめて、いったん自室へ戻ることにした。しかし、このとき下水道の中を調べていれば、紫龍を捕まえることができただろう。紫龍は、まだ下水道の中で身を潜めていたのである。
汚水の流れる水路の横、紫龍は足を投げ出した状態で座っていた。まだ、足は完全に回復していないのだ。
(ここに身を潜めるか)
汚物の臭いに吐き気を催すほどだが、汚染地帯の暗闇の中で死体に囲まれて身を潜めるよりはマシかも知れないと紫龍は観念した。
「車の停車位置とドライブレコーダーの画像を照合した結果が出ました」
マリーが、表情を変えることなく竜崎に報告した。
「どうだった?」
「不一致を検出しました。5月8日、5月12日、5月15日でそれぞれ、D-2エリアの森林地帯で発車、及び到着した車が全て別のエリアへと書き換えられていたようです」
「その車はどこへ向かっていたんだ?」
「5月8日は、D-4エリアの居住区、公園フロアのひとつ下です。帰りも同じ場所ですね。5月12日はD-6エリアの工業団地です。商業スペースのひとつ上のフロアです。5月15日がD-1エリアの居住区。殺害現場のある居住区のひとつ下です」
「犯人は、フロアの違う場所に車を停めて、下水道を通って殺害現場にたどり着いたんだな。殺した後、再び下水道を通って元のフロアへ。車でD-2エリアの森林地帯へ戻ったというわけか。そしてD-2エリアから移動していることを隠すためにデータベースの情報を書き換えた。これでつじつまが合う」
そう言って、竜崎は浜本の方を見た。
「手が込んでますね」
手にハンバーガーを持ったまま、浜本は相槌を打った。
「あとは動機だけだな。これだけは捕まえてみないと分かりそうにない」
浜本は、竜崎の話をよそにハンバーガーを食べ始めた。その姿を見て竜崎はため息をついたが、気を取り直してマリーに尋ねた。
「紫龍はいまだに行方不明。そうだな?」
「はい、監視カメラには映っていません」
「網にかかるのを待つしかないのか」
頭を掻きむしる竜崎に、ハンバーガーを食べ終えた浜本が
「データベースを書き換えたのは、本当に紫龍なんですかね?」
と疑問を投げかけた。
「わからん。紫龍の過去の職業は臨床心理士だ、カウンセリングなんかが専門の」
「じゃあ、コンピューターに詳しいというわけではないんですよね」
「独学で学んだという可能性はゼロではない。しかし、共犯者がいたと考えるほうが自然かもしれんな」
「配車サービスはこの都市の基幹システムですよ。誰にも気づかれることなくデータベースを書き換えるなんて、よほどの知識がなければできませんよ。しかも使われているデータベースは分散型だ。どこにデータがあるのか、探し出すだけでも大変です」
「そう言えばお前、コンピューターは専門分野だったな」
「今使われているデータベースは、おそらく障害に備えて3ヶ所にデータを書き込んでいるはずです。一ヶ所が書き換えられると、たちまち不整合がチェックされてハッキングがバレてしまう。だから、犯人は同時に書き換えができるようにしたのでしょう」
「どうやって?」
「自動的に書き換えができるようプログラムを組んで仕込んでおくんです。ある時刻になったら起動するようにしておけば、同時に書き換えできます」
「なるほどな。しかし、プログラムが痕跡として残るだろ?」
「自分自身も消すようにしておくんですよ。もちろん、ログが残れば分かってしまうから、それらも消さなくちゃならない。さらにはアンドロイドの監視の目がある。アンドロイドの頭は、基幹システムに直結してますからね」
「ほとんど不可能じゃないのか、そんなこと」
「だから、相当な腕を持った人物だということですよ」
浜本の言葉を聞いていた竜崎はしばらく考え込んでいたが、やがて包みからハンバーガーを取り出すとかぶりつき始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます