後編

 あくる日は、昨日の雨が嘘のような良い天気となった。


 1日仕事が遅れた熊五郎達は、それを取り戻そう朝早いうちから懸命に働いた。


 現場は、熊五郎を含めて3人現場。他、親方と同じ見習いの八兵衛がいる。昼手前になると、おかみさんが3人分の食事を置いてく手筈になっていた。


 朝からみっちり働いたせいで、熊五郎はすっかり腹が減ってしまい。昼前におかみさんが昼飯を持ってきた様子が見えると、さっさと持ち場の仕事を上げて飯場へ向かった。


 そこには3人前の盛り蕎麦が置いてあった。


「いやぁ、腹が減った。これじゃあ力が入らない。さっさと何か腹に入れねえと」

 ひとりでぶつぶつ言いながら、飯場に入った熊五郎は、並んだ蕎麦を見て。

「お!蕎麦かい。いいねぇ。俺は蕎麦が大好きだ」と言いながら自分のその中で一番多く盛ってある蕎麦をたったの3口で食べ終えてしまった。

「ふー。やっと落ち着いた。」と腹を撫でた。しかし「落ち着いたは落ち着いたけど」と残っている蕎麦を横目でチラリと見ると「何か物足りないなぁ」と呟いた。


 親方も八兵衛もまだ持ち場にいるらしく、トンカントンカン、トンカチの音が聞こえる。


 それを耳で確認しながら、熊五郎は、そっと残りの蕎麦に顔を近づけ「これは、蕎麦だなぁ」と言うと「飯では無いななあ」と付け足した。


 しかしすぐに、かぶりを振りながら「いけねえいけねえ。あんなホラ男の真似して、バレたりしたら親方に何されるか、わかったもんじゃねえ」と気を取り直した。


 だが、食べ物の誘惑をそう簡単に打ち消せるものでもなく、身体は蕎麦からなかなか離れない。

「親方相手じゃ上手く出来ないかも知れないが、八相手なら何とかなるか……」と疾しい気持ちがまた湧いて、今度は結局止まらなくなり、もう一つの蕎麦を今度は2口で食べた。


「いやぁ、食っちまった。食っちまったもんはしょうがねえ。八が来たら、いっちょ飯論法で煙に巻いてやるか」と開き直っていると、そこへ、ちょうど八兵衛が入ってきた。


「さあ、飯だ飯だ。おや、熊。お前もう食っちまったのかい?相変わらず食い意地がはってるなぁ」などと言っている。

「ったく、人の事馬鹿にしやがって。今に見てろ吠え面かくぞ」

「ん?何か言ったかい?」

「いや、何でもない。こっちの事だ」

「そうかい。ひとりでぶつぶつ気持ちの悪いやつだねぇ」

 そう言うと、八兵衛は、残っていた一つの蕎麦を食べ始めてしまった。

「おい!ちょっと待て!それは親方の分だぞ」

 熊五郎は慌てて八兵衛を止めたが

「何言ってやがるんだ。俺はまだ食べてないんだ、残ってるのが俺のに決まってるだろ?」

 八兵衛は蕎麦を啜りながら答える。

「いや、でも。残ってるのはそれだけだぞ」

 熊五郎は、青ざめた顔でそれを見ながらそう言うが。

「これだけ、だから俺のだろう。お前はひとつ食べたんだろ?それにもうひとつ空いた碗がある。俺がまだ食べて無いんだから、それは親方が食べたんだろうが」

 と、熊五郎の話しに取りあわず、そのまま蕎麦を平らげてしまった。

「ああ、食った食った」

 食べ終わるや否や、八兵衛は立ち上がった。

「おい、どこ行くんだ?」

「決まってらぁ、食ったら厠だ」そう言いながら、そのまま八兵衛は厠へ向かって行った。


「何だい。食ったそばから厠に行くなんて。勿体無い事する奴だねえ」と、呑気に思った熊五郎も、直ぐに正気を取り戻すと、自分の立場を思い直した。


「どうしたものか……。飯論法も親方相手に上手くやれる訳がねえ。ここはさっさと逃げちまうに限るな」

 熊五郎は、そう考えて、立ち上がり、持ち場に戻ろうとした。


 ところが、そこへ親方が入ってくる。

「さあ、飯だ飯だ」親方は飯場に入ると、「おや?俺の飯が無いな」と言いながら当たりを見渡した、


「しまった。一歩遅かった!」熊五郎は、そう思ったが時すでに遅し。


「おい熊、俺の飯知らねえか」鬼の形相で聞いてくる親方に対して「あ、いえ。さあ……」と、熊五郎はしどろもどろで答えたる。

「何だ、お前?煮え切らない野郎だな!」ドスを効かせた低い声で親方は、言うと「さては」とひらめき「熊。お前、俺の飯食ったか?」と尋ねた。

 こうなったら、もう逃げも隠れも出来ない。熊五郎は腹を決めて「いえ、飯は食ってません」と答えた。

「何だ、その言い方は!?だとしたら、お前は食ってないのか?」

「食ってないのかと言われても、どこまでの事を言ってるのか……」

「どこまでもも何もあるか!俺の飯を食ったか食って無いのか聞いて!」

 でかい声でピシャリと言われて、熊五郎は身が縮む思いだったが「飯は食ってません」とどうにか答えた。

 それを聞いた親方は、「ははーん」と唸って腕を組み「飯は、と来たか。なるほどな、それじゃあぐうの音も出ねえように、ひとつずつ聞いてやらあ」

 と舌舐めずりをした。


「あの、親方」

「何だ、熊!白状する気になったか?」

「いえ、逆です」

「逆だと?どう言う事だ?」

「ひとつずつ聞いても無駄って事です」

「何だと!?」


 熊五郎にしてみれば、あとは、ひとつずつ聞かれても、そんなに答えてられないとその場を去れば話は終わるのだが、それも何だか気が引けて、親方をいなして見たが逆効果。結局親方は最後の尋ねを始めた。


「おい熊!お前は俺の蕎麦を食ったか!?」

「え!蕎麦ですか!?」

「そりゃ蕎麦だろ、そこに碗が重ねてあらあ」


 予定と違って、はなからズバリと言い当てられて、熊はしどろもどろとしながら「あの、親方……」とおそるおそる「最初は米から聞いてくれませんか?」と願い出た。


 その様子を見て、親方は「はあー」と大きくため息をつくと「なあ、熊よ。俺はお前が俺の蕎麦を食っちまったから怒ってるんじゃないんだ。いや、もちろんそれも怒っちゃいるが、今はそれじゃねえ」

「はあ」呆気取られ気の抜けた返事をする熊五郎に対して

 親方は「さっきから、お前のその態度は何だ?食ったか食わなかったかなんて顔見りゃわかる。それをグダグダと言い逃れしようとしやがって、お前はいつからそんな野郎になりさがっちまった」

「うう」と言葉が出てこない熊五郎を尻目に親方は続ける。

「お前は、いつでも素直だったじゃねえか?仕事でヘマしてもしっかり詫びて仕事で返してたじゃねえか?俺はお前のそう言うところを買っていたんだぞ?」

「うう、ううう」親方の言葉に目頭が熱くなる熊五郎だが、大事な言葉がなかなか出てこない。

「情けない奴だな、いいか、熊。もう一度聞くぞ。俺の蕎麦を食ったのはお前だな?」

「は、はい。すみませんでした」

「よく言った。それでこそ熊五郎だ」

「すみません。ほんとにすみませんでした」


 堰を切ったように謝り倒す熊五郎に「もういい気にするな」と親方は、声をかけ熊五郎の肩に手をおいた。


 ようやく落ち着いた熊五郎に対して、親方は「さて、仕事を始めたいところだが、腹が減っては何とやらだ。ひと走り通りの蕎麦やまで行ってくるが、熊。お前も来るか?奢ってやらあ」

 正直なところ熊五郎の腹にはまだ余裕あったが、「いえ、やめときます」とその誘いを断った。


「なんでえ、その図体ならまだ入るだろうよ」

「はい」

「だったらよ!それともあれか?蕎麦は懲り懲りってか?」

「蕎麦と言いますか……」

「何だい?」

「モリとカケはのめません」


 おわり

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【落語】飯論法(めしろんぽう) 枡田 欠片(ますだ かけら) @kakela

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