隣にいた人たち
この世には不思議な力を持つ魔がいる。
強い光を放ち、形を見たものは一人として居ないと言われている。特に信仰が深い地域でそれはトローレント様、そして神さまと呼ばれており、不思議な力を人々は加護と呼んでいた。魔の不思議な力は一部の人々に取り止めもなく与えられるものである。
しかし人々は用心深く、その意味を考えているのだ。全てのものには意味付けと価値付けをしなければ、人々はそのものを見る事ができないのだ。トローレントが神さまになれたのはこの世の理から逸脱したからだった。
「太陽の光は物が影を落とすから差した。風は木々がざわめくから吹いたのだ。そして、トローレント様のご加護は受けたからその者はあると分かるのだ」
この世の理は結論と過程が逆さまだった。少なくともイチョウが教わっているものはそうだ。
太陽が天中を通るのを見ながら、イチョウは教師が話す事を特に何の感慨もなく聞いていた。年は十もいっていない頃、髪も肩にかかる手前でその黄色の毛先がパラパラと広がっていた。周りの子供達も大体同じ年頃で、分厚い本を開いて話を聞くものや、ただ野原に身体を預けて木立の葉を見やるものまで様々だった。教師は姿勢にとやかく言う様子はなく、開いた手元の本にまた目を落とした。話を聞く限り、全て本に擬えて話しているようだった。
「イチョウ、続きを読めるかい」
「はい先生」
イチョウは教師に名指しされ、数人の子供達の視線が向く中、本の中腹ほどのページの頭から読み始めた。イチョウは文字を指でなぞりながら、読み進めていく。
「ーー。この世に遍く人々の価値をお与えになる方を神さまといい、そして我々にとってそれはトローレントさまだ。トローレントさまはある人々に価値づけとして加護を与える。トローレントさまのご加護とは、願いを叶えるものである。願いとは変身願望だ。なりたいものに人を変える力があるのだ」
「ありがとう。みんなは何になると思う?」
教師はイチョウを含め、その場にいた子供達に問うた。
「太陽!」
「あたしは雲がいいな」
子供達は口々に変身したいものを答えた。
「オレはお医者さん」
「おばかね、人以外に決まってるじゃない! 普通の大人にはならないのよ。大工さんにも羊飼いにも農家にもパパにもママにもならないわ」
加護は何かにならなければならないもの。人の成長や選択できるものではない。
「イチョウは?」
一人がイチョウに問う。
「俺......? 俺は」
「やあイチョウ、それにみんな。何の話だい?」
そこにイチョウと同じ様な髪色の少年が隣に座った。年は十代後半の頃だが、目元が大人びて見える顔だ。周囲の子よりも一層絢爛なマントを着ていた。首元で結んだ毛先が腰まで伸びている。
「兄さん!」
「神子様のユズリハ様だ!」
ユズリハはイチョウと八つ離れた一番上の兄だ。イチョウは四人兄弟の末っ子で、兄弟全員がご加護を受けていた。そして、加護を受けた中でもかなり影響を受けている者を国では神子と呼び最も崇拝する対象としていた。
「ユズリハ様は何になるの?」
「神子様は晴れか雨に決まってるでしょ」
「それなら、雨?」
神子は特に国へ貢献を望まれているし、彼ら自身もそれを望んでいた。だから農作人が大半の国民達は天候の安寧を祈っている。乾季と雨季を繰り返す風土ではその相対するものが常に望まれていた。
「兄さんは何になるの?」
「今なら雨だね。長い夏がやってくる」
ユズリハは穏やかな物言いをする。
「いつ雨になるの?」
「それはわからないよ。加護はなりたいものになる力。それ以上の事は決まっていない。だから、明日かもしれないし一年後かもしれない、前に言ったろう?」
ユズリハがイチョウの肩に軽くぶつかった。背の高いユズリハが大きく揺れて、イチョウは思った以上の力が掛かって揺さぶられる。それを反対側に回したユズリハの手のひらが支える。イチョウを支えた熱い手から、何かが伝えられる様で動けなかった。
「ユズリハ様のようにみんなもいずれこの国の大地に帰っていく。加護を受けた人のあるべき姿だ。そうなる為に君たちは世界の成り立ちを知らなければならない。そして全てがどのように繋がっているのか分かる時。君たちは何になるべきか分かるはずだよ」
先生は子供達に話を続けた。
「さっきのあれくらいテキトー言えよ」
「うん」
小声でユズリハがイチョウに言った。他の子供達は何も聞こえていないようだ。
「お前の秘密がばれるのが僕は嫌だ」
「......うん」
イチョウは声よりも大きくゆっくり頷いた。
「ねえ、兄さん」
「どうした」
「俺のした事は正しい事なのかな?」
ユズリハはすぐに答えなかった。返事がくるまでイチョウは教師の声を頭に入れ続けた。子供達と教師は加護についての質疑を続けていた。
「秘密をみんなの前で話すのはいけないな。でも、ああしなくてはだめだったろ」
加護はこの世の為にある。選ばれた人が全ての為に使う独善的なもの。
「それでは、今日の話はここまで。みんな、自分が何になることが良いかを考えておくといいだろう。ユズリハ、この後時間空いているかい?」
「もちろんですよ」
教師が一拍すると時間が区切られた。ユズリハは会話を止めて、教師の方へ首を向けた。集まった子供達は散開していく。
「イチョウとの時間をとってしまって悪いね」
「いいえ、これも神子の務めですよ」
イチョウは耳から入るユズリハの声を横に教師の顔を見つめていた。ユズリハがどんな顔をしているのか見ることができない。
「頼むよ、ユズリハ」
ユズリハが立ち上がる。
「話を聞くなら石でもできる、退屈だ」
小声でイチョウに耳打ちする。兄のユズリハはイチョウにとっては大きな違和感を持つ存在だった。イチョウが物心ついた時にはユズリハは加護を受けたとして、トローレントが納められている寺院の中のいた。話で聞かされているユズリハの評判はすこぶる良いものだった。加護を受けたことで家族の中で最も讃えられ、兄弟や友人達からは好かれていた。近所では愛想も良く機転も効くので賢い子だと言われていた。
「いってらっしゃい、兄さん」
「またね。イチョウ、いい子にしておきなさい」
ユズリハはイチョウの頭をその長い裾でなぞった。長男らしいことはそれくらいしかしないのだ。
イチョウにとってユズリハは兄である前に加護を受けた神子だった。そして上三人の兄達は全員加護を受けて寺院に引き取られていった。両親はそれを誇らしく思い、半ばイチョウも加護を受けると当然のごとく考えていた。
この国では加護は全ての為に使われるべきだと考えられていたし、それこそ神さまが渡すべきものであるとしていた。不思議と加護は子供達にのみ与えられて、大人になる前に姿を消した。あるものは晴れに、またある者は芽吹きに。そうして人々を支えたのだ。
「ただいま、兄さん達」
勉強会は解散し、イチョウは兄弟の元へもどっていった。兄達の年齢では食事や勉強、運動、お茶の時間が全て事細かに決まっているので、兄たちがどこにいるのかをイチョウはいつも知っていた。
「おかえり」
「また来たのか、イチョウ。本を読んでやろうか?」
次男のヒサカキと三男のランタナ、二人が食堂にいた。二人ともフード付きのローブを脱いだシャツだけの姿でいる。正装はローブを着るのだが体裁の必要がない為、大体の子供達は鬱陶しいローブを着ることがない。
「ご飯を食べようよ」
「寂しがりだなあ、飯とってきたのか?」
「まだ。兄さんたちもまだでしょ。一緒に取りに行こう」
ランタナはお節介焼きでよく喋った。イチョウと一番会話をする兄だ。ユズリハはやってきては二、三言イチョウに話して去っていく。鳥の様な気まぐれな存在だ。相対して、ヒサカキはあまりお喋りはしなかった。イチョウから見ると一番話さない存在で、ヒサカキは用事がなければそばに居ても黙っていることが多い。そんな兄達はイチョウの内心では関わる順番が決まっていた。一番はランタナ、二番はヒサカキ、三番がユズリハだ。本当は二番がユズリハなのだが、いつも周りに色々と人がいて近づけない為、ヒサカキが繰り上がりで二番になる。ランタナはヒサカキと一緒にいることが多いので、ヒサカキとランタナにイチョウは必ず会えたのだ。
「ご飯と言ったっていつも変わらないパンとスープじゃないか」
「そんな事ないよ。いつも具が違う。あと量」
「それは仕方ないだろう。同じ日なんてないぞ」
ランタナは木の器に並々にスープを注いで、イチョウの分とヒサカキの分も注いだ。こちらの二つは器の八分目程度だ。
「たまには豪勢にいきたいだろう。肉とか! なあ、ヒサカキ兄さん」
「ああ」
「そんなの家に帰ったら食べられるよ」
加護を受けた者は寺院から家に数日戻ることを許可される事がある。その時、四人兄弟は家で羊肉や牛肉、新鮮な野菜や果物を食べるのだ。普段の固いパサついたパンやくたくたのスープではない美味しいもの。
イチョウの好きなものは質より誰と食べるかを優先していた。
「......、ヒサカキ兄さん、イチョウになんとか言ってくれよ」
ランタナが口をへの字にしてヒサカキに言った。ヒサカキは席に着いて、目線をランタナから逸らした。それを合図にランタナが口を開く。
「あのなイチョウ。母さんや父さんがあんな贅沢品を毎日食べられると思うか?」
イチョウは黙って続きを待った。
「お前はここに来て何ヶ月かしか経ってないから、知らないのも無理はないがな。ああいう事ができるのは俺たち兄弟が全員が加護を受けたってわかったからだ。寺院から厚労として保護されているんだよ。少ないって話もあるが、四人分で二人を賄うのは充分だろ」
イチョウは内心自分が裕福な人間ではないという真実に総毛立っていた。誰もこの甚だしい勘違いを知られてはいけない。加護を受けた近親者達の待遇を良くするのがこの国だ。
「そして俺たちの中でも兄さんは神子だ」
弟達の中で名称なく「兄さん」と呼べばユズリハだけを指す。
「神子はこの中でも更に特別な存在。俺たちだって気安く話せない。この国の為になる事を定められた人。そんな兄さんがいたから俺たちは家を出るまでそれなりの良い生活ができたんだ。それにヒサカキ兄さんのお陰もあったから尚更さ。俺ら長くない」
「......まだだよ。この前読んだ本は神子が二十歳の誕生日に消えたって書いてあった」
「それでお前は十、俺達は十三と十四、兄さんが十八だ。二十は人間の寿命の半分もないんだ。そんなやつが全員自分の家族なんだぞ、母さんや父さんは気が気じゃない」
それ以上は言わなくてもわかると言いたげに、お喋りなランタナが黙った。
「何も気に病まなくていい」
ヒサカキがイチョウの隣で言った。対面のランタナはバツが悪そうにパンをちぎって食べた。パンの粉がスープの上に散らばる。
「俺たちは大事にされてるんだよ。だから、あんまり母さんと父さんにわがまま言うなよ。家帰って美味いものが食べられるのは絶対じゃないんだ」
「......もしも加護を受けてなかったら、僕らはどうなってたの?」
「うん? さあね。俺たちは加護を受けて今ここでパンを食べている。事実はこれだけだ」
イチョウは高鳴る心音がばれない様に、静かに深呼吸する。イチョウはユズリハを思い出していた。
「加護を受けてよかったな」
「そうだね」
イチョウは演技らしい間でスープを援う。一拍置いてから、それを口に運んだ。誰も何も言わなかったことは、何も思わなかったからだろう。それを聞くことは出来なかった。
本を仕舞う時に、ユズリハは上から落とす様に本棚に戻す。その音が図書館に響いて、イチョウは顔をあげた。本どうしの隙間に滑らせる様に仕舞うのではなく、乱暴で投げやりな入れ方だった。
だからイチョウはその音がユズリハであることに確信を持っていた。
「兄さん。何か探してるの?」
イチョウは辞書を引きながら、本を読んでいた。幼いイチョウにはどの本も知らないものが多いものだ。
「イチョウ、元気かい?」
「......うん、まあね」
「そうか」
イチョウはユズリハが喋るのを待っていた。ユズリハのペースに合わせる以外の会話はない。
「何の本を読んでるんだ?」
「灯火の話。女の人が炎になった伝承」
女は加護を受けており、その生い立ちから最後の瞬間までを語った内容だった。分厚い本の伝承話をまとめたうちのひとつだ。次の話に差し掛かる前にユズリハが声をかけた。
「灯火の.....? ああ、僕も昔読んだよ。間抜けな話だろう。最後はどうなるか知ってるかい? 聖女は罪人に心を砕いて、聖なる炎がその身を包んだ。そして灯火となる」
イチョウはこくりと頷いた。昼にランタナ達と話したことが気がかりでまた本を読みに来たのだ。
「教訓は人の為に自らを使うべし。ばかばかしい」
「俺は優しい人の話だと思ったよ」
「イチョウ。それを書いたのは誰か知ってるか?」
イチョウは表紙の著者名を探した。編集者しか載っておらず、巻末にページを探して名前を見つけた。
「.......、シラカシさん」
「そいつはその灯火になった女の近衛兵を務めていた名前だよ。聖女の護衛として日々側に仕えていた人間の信頼おける物語。近衛兵は聖女を崇めていた。だから消えた瞬間も尊い理由で消えたのだと思った。国民と変わらない。聖女を神さまとして愛していた」
確かに聖女は清廉潔白な人間として描かれていた。聖人君子そのもので、罪人の仕業とされる火事で不安になった人々を励ます為に門外へ出向いていたという。そこでのことが主に描かれている。
「しかしもっと近くで聖女を見ていた人がいたはずなんだ。その当時は聖女は高貴な身分に値する、となれば侍女がいたんだ。でも侍女はその物語の編纂に関わっていない。侍女の方が近衛兵なんかよりずっと女と関わっていたはずなのに」
「難癖だ」
イチョウはぼユズリハの様子に聞こえない様に呟いた。
「侍女は字が書けなかった、入れ替わりが激しかった、記憶になかった。理由は数多く考えられるが、根幹は全て、聖女が語る程の人間ではない、という事実だよ。上辺の聖女を見ていた近衛兵と違い、近くで女を侍女は見ていたんだ。だからきっと美しく語られる理由なんてもの無いんだよ。罪人に心を砕いて心優しく炎になったんじゃない」
ユズリハは悲観的に言った。全て妄想だと吐き捨てるにはイチョウはものを知らず、同じ理由で言う通りだと言えるはずもなかった。いつも正しいことを言おうと努めたイチョウの末路だった。
「悲しい話ってこと?」
「加護は人を高尚なものにしないんだよ」
女は誰からも語られるほど素晴らしい人ではなかったから、近衛兵の情報によって慈悲深い人に形作られた。それを本を読んだ人たちに誤認させる。
「ばかみたいだ」
ユズリハは苛ついたように本の背を摘んでは落しを繰り返した。カタン、カタン、と静かな図書館に音が響いた。
「赤の他人に身を焼くなんてばかな話だ。誰かに心を割くなんて愚かだ。自分じゃない人の事なんてわかりもしない」
ユズリハはそういう事を望まれている。
「だから、お前が自分じゃない限りそんな事をしてはだめなんだ」
望む通りに生きられない。
「兄さん......?」
ユズリハの目は揺れていた。何もかも捉えられない。瞳を酷く潤んで瞬きを必要としなかった。全身を包んだローブの刺繍糸が太陽できらきらと光っていた。それからイチョウと同じ髪色が光を透かす。
「ごめん、イチョウ」
その時、ユズリハが何に謝まったのかイチョウは答えを知っている。
「あのさ」
言いにくいことを言う時にイチョウは言葉を吐く。
「だから」
自分の頭の中と外が混ざって、切れ端だけが声を持つ。
「ううん、ねえ。俺これでいいのかな」
「......。僕が嘘を吐いた事.....?」
自分よりも八つ年上の兄が、弱々しく尋ねた。それにイチョウは言葉をつぐんだ。
イチョウにとっていつでも兄は、どこまで行っても年上の大人だ。そのはずだが、ただ幼い子供が見えた。自分と変わらない子供。
「兄さんじゃなくて、俺が嘘を吐いた。加護を受けたって。それで俺もここに来られた。けど、良かったのかな。嘘で父さんも母さんも支援されるって、聞いた。良いのかな? これっていけない事じゃない?」
この世界は影が伸びたから光が刺し、髪が揺れたから風が吹いたのだ。だから加護を受けたから、トローレントは加護を与えた。現象の結果、過程が生じる。そして加護はその時が来るまで形や色、症状を持たない。自己申告が無ければ、誰も加護がわからない。不確かな存在で、受けた者だけがはっきりと認知できる。
イチョウは兄の返事を待つ。
「そんなの、あの時ああするしかなかった」
ユズリハにとって四兄弟は全員加護を受けなければならない。
「......、悪いことなの? 俺は加護を受けてない、普通の人なのはいけない?」
図書館は広い。フロアは縦に長く、前方の扉は全て塞がり、後方のみからの出入りだけが許されている。二人のいる本棚は最奥にあたる。そして目録は辞典。人が溜まるような所ではなかった。周りに誰もいない。
「違うよ、イチョウ。お前が悪いわけではないよ」
「ならどうして?」
「期待されたら答えなければならない。そうだろう。僕はそうだった」
ユズリハは酷く疲れた様子で言った。
「だから、ごめん。そうだと思ったから、咄嗟にお前に嘘を吐かせた。でも違った。何もかも他人の心持ちに従ってたら、僕は自分の思い通りにならなかった。だから、だからさ。イチョウ、お前はそうはならないでくれ。人が何を思い、何を喜び、何に泣くのか。お前が自分でない限り、そんな事わかったりはしないんだ」
誰かにそれを決められたのなら、自分すら自らを求めなくなってしまう。生まれてしまったのなら、心を自分で決めなければならない。
「雨」
それはとうとう降り出したというものではなく、強い風と共に現れた雨雲がもたらしたものだった。
「降りそうもなかったのに」
ランタナとヒサカキは回廊の向こうの芝生が濡れていくのを見やった。風が吹き込んでくると、熱を奪う心地よさがあった。
「すごい雨だ」
「よかった、最近めっきり降ってなかったじゃないか」
「嵐みたい」
同じく回廊に出てきた他の子供たちも口々に話していた。皆が雨を見に来たから、いつもより人気が多かった。声と足音が反響して騒がしい。
「おおーい! ランタナ! ヒサカキ!」
寺院の教師の一人が二人を呼んだ。遠くから早足で駆け寄ってきた。その様子に不思議そうにヒサカキが尋ねる。
「どうかしました?」
「ああ。その、ユズリハが」
教師はそれだけ言うと雨雲を見上げた。二人の視線も同じように動いて、ふと全てを理解する。ヒサカキは深呼吸をした。
「この雨は」
ヒサカキが震えた声を上げた。
「祈りの部屋があるだろう。扉を開けたら居なくなっていた。ああ。なんと素晴らしい」
「......、雨になった」
「きっと」
その時思いは全てが記憶として頭に刻まれる。気もなく過ごしていた今を事細かに鮮明に、緻密に焼き付ける。肌に触れる湿気た空気が感覚として忘れられなくなる。後にも先にも同じものは存在しない。ただの雨が、特別なものになる。感じた全てが感性に触れてくる。低く唸る風音は何かの調べに思えてくる。
「良いことだ」
ランタナが回廊のアーチの一つから外へ手を伸ばす。吹き込んでくる雨に打たれて腕も顔も髪も濡れていく。髪は乱れて濡れて、頬に貼り付いた。
「兄さんらしい」
片鱗など感じられない雨水と風と草の匂いと雲の色、淡い影。そこの兄を見る。
「みんな雨を待っていた。兄さんは雨を降らせたと思っていた。だから雨になった。父さんと母さんと俺たちの誇りだ」
雨は益々強くなる。雨粒が大きく、肌に当たると少し痛い。
「なんと素晴らしい」
それは加護によって変身した人を称える言葉。
「なんと素晴らしい」
回廊にいる人々は口々に呟いていく。それは小声で雨音でばちばちと消されていった。
その雨が止むのに二日かかった。雨音は酷く、その間イチョウは眠れなかった。そして雨が消え、雲が灰色のまま残った昼間にユズリハの使った部屋にイチョウ達は伽藍堂で何を思えばいいのか知らぬまま、墓前と同じ面持ちで揃った。消えたその日にユズリハの私物は全て一緒に火に包まれていた。何も残さず消えることこそ神子のすべき事なのだ。
「雨止んだな」
「もう少しで河が溢れたって、先生言っていたよ」
「少しやり過ぎだけど、それくらいが兄さんらしい」
「お父さんとお母さんは知ってるの?」
「......まだ」
神子が居なくなれば盛大に布告がある。すぐに国中に広がるだろう。墓標を立てないせいで思う人の為のものは何も無い。土葬する遺体がないからだ。だから加護の変身は死ではない。
死が無くなった人はもう人ではないから、誰もユズリハを思わなくなる。人の頭の中にだけいる存在だから、神さまに近いのだ。
「兄さん、最後に挨拶をしに来たよ。まぐれかな、俺に会いに来て、......ありがとうって言っていた」
ランタナ曰く、ユズリハはランタナたちが加護を受けてくれて寺院に来てくれたことを感謝したそうだ。ユズリハが加護を受けてから、その後ヒサカキとランタナが入るまでは少しの期間が空いた。家族が同じところにいてくれたことは心強いものだったのだろうか。
「その時が来ることがわかっていたの?」
「まさか。気まぐれだろ。でも、そんな気がする。俺もいつかわかるのかな。あーあ、ああ」
ランタナがイチョウの肩に寄りかかる。いつも肩に手をを回して、小さなイチョウを包むそれ。ランタナの手が強くイチョウの肩を掴む。ランタナの吐く息は震えていた。何故か顔を見てはいけない気がする。
「.......、どこ行っちゃったんだよ」
ランタナはイチョウの記憶にある限り、家にいた頃から虚勢を張る癖があった。夜は雷が怖いと父母の部屋にイチョウを連れて一緒に眠る。イチョウを連れていくのは口実だ。イチョウはそれが不思議でよく覚えていた。昼間は近所の友人たちと肝試しがあるとイチョウを引き連れて、お化けが出るからと大人に注意されていた廃屋におずおずと忍び込み、物音に悲鳴を上げていた。そして決まって、何もなかったのを良い事にそれを誇張して両親に伝えるのだ。下の弟であるイチョウはランタナにとってお守りだった。弱い自分が強い兄でいなければならない理由の為に、いつも一緒に遊んでいた。年上にイチョウがちょっかいをかけられていたら、ランタナは飛んで来てイチョウと相手の間に割って入った。どんな相手にもそれは同様だ。
そういうことが小さなイチョウは積み重なっていくと、ランタナの虚勢に気がついてはいけないと思うようになった。ランタナの強がりをイチョウが見てしまったら、ランタナはその虚勢が崩れてなくなってしまうような気がしていた。
そうすれば、イチョウを守ってくれた存在は消えてしまう。
「あら、クコ。おかえりなさい。ようやく帰ってきたのね」
「はい。リリーもお元気そうで何よりです」
教会の門前で掃除をしていた女性がクコに声をかけた。クコは大荷物と所帯を引き連れて長旅から戻ってきたところだった。クコは荷馬車から下りると、リリーの元へ駆け寄ってフードを開けた。
「どれくらい間を開けていたかしら。貴方が私の事を覚えていてくれて嬉しいわ」
「覚えていますよ、もちろん」
リリーは教会の手伝いで、クコが加護を受けた後、教会にいた時に世話をしてくれた人だ。基本的に生活全てを自らでこなすにしても無理があるので、お手伝いが必要なのだ。
「そう、嬉しいわ。ずいぶん背が大きくなったのね。顔つきも大人らしくなったわ。いくつになったの?」
「ニ年ぶりだから十歳です。ようやく洗礼が終わったのです。とても長い旅でした。我が国ならいざ知らず、海を越えて知らない国の王様にまで拝謁を賜らなければならないのですから大変でした」
「それだけクコは色々な人に望まれているのよ」
リリーはクコに視線を合わせてしゃがみ、フードを被せて答えた。
「はい。トローレント様のご加護がありますように」
年齢に似合わない口調でクコは言った。それから踵を返し、装飾もない格子の門を入って行った。リリーも後を追って、教会の中に入っていく。
加護を受けた者が住う教会は岩肌が目立つ丘に建てられ、周囲は高い塀に囲まれている。その面積は広大で外周を一周するのには日の出から始めて、影が自分と同じくらいの長さになる頃に同じ場所に戻るくらいだ。決して不自由がないとは言い難いが、皆この塀を越えて外へ出るようなことはあまりない。住う人は加護を受けた人、出入りはリリーのような手伝い、教師、国の重役だけだ。そして外はとても危険だとしているからだ。
「中のことは覚えている? 良ければ後で案内するわ」
敷地内には大きな教会を中心に講堂、図書館、教室棟、宿舎等が回廊を一周で繋がっている。外れに家畜小屋、畑、炊事場などが点在する。中央の中庭には木立と青々とした芝生が惹かれている。全寮制の学校を元に計画されている。
「リリーも忙しいですから大丈夫です。私だけで中を見て回ります。先生へのご挨拶もしたいです」
「そう、ありがとう。先生はきっと今頃講堂でお話し中よ」
「わかりました。また後で、リリー」
クコは大きく手を振って講堂の方へ行くために回廊へ下りていく。
日の光が遮られて、回廊は鋭利な影を落としていた。
「......、えっと」
回廊の先に金色の髪の男が見えた。
クコはそれに心臓がぶわっと跳ねた。もう会えないのではないかと心のどこかで諦めていた。懐かしい心地を思い出す。
名前を呼ばなければ。
「ランタナさん!」
クコは駆け出して、長いマントの裾を引っ張る。さらさらと癖のない髪質に髪色はこの国で珍しい金色だ。それがクコの知るランタナの色。しかし振り向き様に即座にクコは気がついた。
「あ、すみません。人違いでした」
瞳が違った。あの眉頭にかけて少し険しげな顔がなかった。
「こちらこそ、弟じゃないんだ」
その言葉にクコはランタナのことを何も知らなかったのだと思った。整った顔でランタナの面影があるが切れ長の眼や髪型の違いからクコは別人だと尚のこと思い知らされる。
「いえ! 早とちりでした。ランタナさんに似ていたので、ご兄弟がいたなんて知りませんでした」
クコは自分が掴んだ裾を目の前で両手を上げて離す。それから、恥ずかしそうに視線は右往左往した。
「私、クコと言います。三年前に半年だけこちらにいたのです。その時にランタナさんによくしてもらって。今日からまたこちらで生活することになります。よろしくお願いします」
クコは歳の割に丁寧な物言いをした。大人ぶった言い方というよりも、身についた言葉として淀みなく言っている。
「俺は兄のヒサカキ。弟が世話になったね」
「そんな、とんでもないです」
首を振って否定をして、クコは自分を落ち着かせる。顔がほてった、早くいつもの自分になりたい。
「ランタナ兄さんはもう居ないよ」
そう言ったのはヒサカキの隣にいたフードを被った方だった。目が合う。
「同じ瞳だ.....」
ランタナより濃い黄色の髪色で、長い毛先を縛っている。目の形はランタナに似た、どちらかと言えば鋭く悪い目つき。その男が、ヒサカキと同じようにランタナの兄弟であることはクコも察せる。
小さな心臓が音を鳴らした。
「どちらに?」
「......、察しが悪いな。もう、ランタナ兄さんは居ないんだ。行こう、ヒサカキ兄さん」
口振は不愉快そのものでイチョウは言った。目つきも相まって誰が見たって怒りを覚えているのもわかる。歳はクコとひと回り異なるように見えた。ヒサカキの服を乱暴に引っ張っているイチョウは回廊を進み出す。
「ランタナはもう消えたんだ。ごめん、イチョウはランタナのことが大切なんだ、悪く思わないで」
ランタナはユズリハが消えて数年後に消えた。ユズリハの最年少記録を塗り替える事はなかったが、それでも年齢的に今のイチョウより若い。
「それは、つまり」
クコは自分の心音が大きく早くなっているのを感じた。上擦った声が何より高揚していることを示す。指先が震える。頭は何かで強く打たれたようだ。
嬉しいようで、悲しいようで、それでいて一番望んでいた事はそれではないと思った。ヒサカキをランタナに重ね、背を見つけた時のあの気持ちをなかったものにしたい。消えて欲しい。いつもの自分に戻らなければならない。
「それは、素晴らしい。なんと素晴らしい......!」
遠のいていく二人の背に上手く言葉を載せたかった。落胆している自分なんて知られたくなかった。せめて望んでいた結末を皆と、ランタナと同じにしたい。
「ランタナさんは消えたのですね!」
世界は人が消えたら喜ぶのだ。そうしなくてはならない。
「なんっーー!」
イチョウが振り向きざまに口を開こうとしたのをヒサカキが制す。二つの眼がイチョウを見ていた。怒りも恐れもイチョウに向いていた。感情の矛先がおかしいと言いたかったけれど、兄の表情に弟は押し黙る。
「俺も、君も、また会えたらいいね」
イチョウの頭にフードを深く被せて、ヒサカキは振り向いてクコに言った。それから声を潜めてヒサカキはイチョウに告げる。
「わかっているから」
「でも」
息を吸うと同時に出た声が上擦る。聞き入れないというヒサカキの歩みに合わせて、イチョウは踵を返す。
「......」
イチョウは何と言おうかヒサカキを見つめた。
「なんだかヒサカキ兄さん変わったよ」
ため息と共について出た。そしてイチョウは縛った髪を解いてマントを外す。ユズリハと同じように伸ばした髪は尖って跳ねている。
「そうかい?」
「ああ。なんていうか、丸くなった。昔はもっとカタブツだと思っていた」
「なんだよ、それ。俺としては今の方が落ち着いているよ」
ヒサカキは小さく笑った。それがイチョウは不安だった。
「調子はどう? 前から熱があるって言っていたろ」
「相変わらずだ。みんなの事を考えていると治る。兄さんやランタナ、お前。父さんや母さん、教会の人、友人。みんなの事。それに、雨のこと」
ヒサカキの視線が青空を覗き見てゆっくりと目蓋が閉じる。
「雨が降れば良いのに」
きっと熱が冷める時にヒサカキも消える。
「気をつけて」
他人のことなどわかりはしないから、人に心を砕いてはいけない。思い悩んでも意味がない。そんな事をして良いのは自分自身にだけだ。
「や」
感情を漏らさぬようにしていても、嗚咽の様に唇から溢れていく。イチョウの心に蓋をしたユズリハの言葉は限界に達している。
「お、れは信じているよ」
ヒサカキは不安な弟を前にすると兄になろうとする。ユズリハはいつも知らない大人に囲まれていた。だから、ランタナにとっての一番の兄はヒサカキで、二人の弟が気がつけば側にいた。二人の心がわかった時に、自分の心持ちは二の次でどう振る舞えば相手が望んでいる自分になれるかを考えて行動してきた。そして、不安な弟は自分の様で簡単に心が分かった。
「何度も言っているだろう。加護を受けたらみんなの為に何かをしなくてはならない」
ユズリハを見る自分自身に何度も言い聞かせた事を弟に告げる。
「みんなそれを望んでいる。イチョウもおれも同じことを望んでいる。加護によって変わる時がいつになるかがわからないのは悪いと思うけれど、素晴らしいことなんだ」
「それっておかしい」
イチョウは感情的に反論する。
「変だ。なんで兄さんたちは自分のことを考え、思ってはいけないんだ。ここにある全てがそうだ。今までの記録は全て口伝え、伝承。本人の意思を告げる物語はどこにもない」
「やめてくれ、イチョウ。それ以上は兄さんとランタナ、それにたくさんの消えた人を否定する」
「でも、ここが残すのは他人が都合よく解釈した事ばかりだ。それに神子という制度。国によっては加護の価値はバラバラなのに、この膝下だけはトローレント様に最も近しい存在として加護を受けた中で最も優れた人を神子という存在にしている。神子は中でも最も消える時間が早い。みんなの憧れとして祭り上げられているせいで、本人の気持ちを示したものはまるでない。伝聞だけしか残らない。そうやって国の都合で加護は形を変えていく。おかしいじゃないか。他人の為と自分の為はまるで違う! そんなこと、ガキの俺だってわかっている」
そう言ってヒサカキが何と答えて欲しかったのかを、イチョウは分からない。
「だから、国はちゃんと保証をしている。家族は施しを受けている」
「でも、兄さん達が消えるのは......、見返りがあるからなんて理由じゃ納得できないだろ。そんな聞き分けがいいことをする必要なんかない」
ヒサカキは首を振る。
「自分の為? それが何になるんだよ。俺たちは結局消えてしまうんだ。自分の為に消えることも他人の為に消えることもどっちも同じ消えるなら、それなら、せめて、他人の為に消えたいじゃないか」
イチョウはヒサカキの瞳が揺れるのを見た。どんな返事を待っていたのか分からないくせに、イチョウはそんな顔をさせたかったわけではないことだけはわかった。
「本当の自分はいつだって、ここに居たいのだから」
イチョウはいつも受け止めてもらう側だった。兄達の気持ちを知らないまま、自分の感情を吐露して受け止めてもらっていた。その為に、兄達の心に気がつかないようにしていた。話をしてくるユズリハには上辺だけ聞いて、ランタナには見向きをせず、ヒサカキには深入りをしないようにしていた。そうすると自分の都合が悪いものは見えなくなった。兄達と対等になった時、イチョウはどんなことを言われても同じように受け止める自信がなかったのだ。独りよがりのイチョウは加護を受けられなかった側。
「........、そんなこと言わないで、居ればいいだろ、ここに。それで普通の人と同じように」
「普通の? 俺たち兄弟は農家の息子なのに、クワも満足に扱えない。畑を作ったこともなければ、天候も読めない。奉公のための満足いく給仕作法も知らないし、服飾の技術もまるでない。手についたものは何もない。俺たちは加護に文字に数字に歴史を必要以上に学んだだけ。学者先生にもなれないこんなもの、何の役にも立たない。俺たちは世間の前ではデクの棒なんだよ」
頭の奥が重くなる。何かが自分の底を締め付ける。息を吸ってイチョウは呼吸だけに意識を集中させた。
付け加えるなら、自分には加護もない。
「ほら、みんなどこかでそうする以外他にないから消えるんだ」
ユズリハもランタナもそう思ったのだろうか。胸の奥にある心のようなものが抉り取られるような痛みがする。相手を知るのは悲しいことだ。
「......、そう」
イチョウは回廊を外れて、芝生の方へ歩みを進める。熱い太陽がイチョウに差す。ヒサカキから逃げてどこかへ向かっていく。
「......」
回廊の下でヒサカキがその背をじっと見ていた。見ていただけで、何も動きはしなかった。そうなってしまったのだ。心が少しずつ自分から離れていくのがわかる。加護を受けた時から、自分はもう死んだのだと考えて閉口するようになった。そんな自分の中にまだ心があったのに驚いた。
行く宛を失ってイチョウは図書館に足を運んだ。小さい頃からそこがイチョウにとっての逃げ場所だった。目録は辞書、分厚い本が綺麗に背を並べて連なっている。そこは人が来ても居座ることはない目録だ。辞書、辞典だけに留まらず、幼い頃から教会に住んでいるイチョウにとって文字面だけの存在はかなり多い。地図帳、動植物図鑑、歴史書、それら全部を広げて緻密に曖昧な伝承を読み解こうとしてきた。
「こんにちは」
ニス塗りの重厚な光を放つ本棚からコツコツとノックの音がした。イチョウは視線だけを上げてそちらを見るとクコがいた。着ているマントの絢爛な装飾が兄に被る。
「先程は失礼しました。加護を受けたとはいえ、ご兄弟であるランタナさんをなくしたのに配慮が足りませんでした」
「......、いいよ。俺も感情的になり過ぎた」
見た目に反してクコは大人びた言い草をする。それにイチョウは嫌気がした。本棚の背表紙に向けていた身体をクコに向ける。
「お前も加護で何かになりたいと思う?」
「......? もちろんです。私はあの神子だったユズリハ様のような雨で人々を救うようなものになりたいです。ユズリハ様のお話は父と母、それからたくさんの人から何度も聞きました。乾季はどうしても雨が降らなくなりますが、その中で二日も降り続いたあのユズリハ様の雨はまさに恵の雨。神さまからの施しに他ならない。渇いた畑、小さくなっていた川、枯れ出していた井戸の中に水が溢れ、収穫の頃には今までにない実りになったとか。ユズリハ様が消えたとの布告後に収穫祭が行われたのでしたね」
クコはここが図書室であることを忘れたように息巻いて喋った。
「あのお祭りは盛大だったな」
そうするしか他に術はないというように、国が盛大にユズリハの加護を讃えた。イチョウはユズリハがそんなことをするほどの人のようには思えなかった。
「だから私もユズリハ様のようなものになりたいのです。そして私は現在空席の神子になったのです」
イチョウはそれを聞いて目が覚めるようだった。神子の制度は世襲制ではなく、寺院側が認めれば、何人でもいつでも増える。しかし神子を名乗るのは容易いことではない。加護を受けた中でも見込みがあるのはほとんどいないと言われる。
「神子......?」
「そうです。長い間色々なところへご挨拶や洗礼もその為です。本当はユズリハ様にもお会いしたかったです」
クコは小さくお辞儀をした。イチョウは本当にユズリハが消えてしまったのだと思い知る。消えたことを受け入れて、世界が回っていること。世界がどういうふうにユズリハを見ているのかを知ったのだ。兄はそれ以上の存在だった。
「貴方は?」
「......」
「何になるのですか?」
イチョウは不意に髪を撫でた。
「光」
ついて出た言葉だった。
「光......? というと、太陽や星? それとも炎?」
イチョウは追求されてもそれ以上は何も考えていなかった。今まで何度も問われてきたことにどうして何度も息詰まってしまうのだろう。あの時、誤魔化してくれた兄はもういないのだ。
「なんでもいいよ。そんな感じ」
「役目が大きく異なりますよ。太陽は全ての生き物。確か二十年ほど前の神子様と同じ、晴れですね。星は旅路の案内に役立ちます。炎は暗がりの明るさ。手元を照らす永遠の明るさは不安を無くすものです」
流石神子になるだけのことはある。やたらと理屈を並べ立てる。
「そして私達の光は他ならない、トローレント様です」
人々に明確な基準なく、加護という変身する力を与える魔のもの。そして人々は神さまと呼ぶ存在。実際にその姿は光に包まれ、その形を捉えたことはない。しかし確かに存在して、人々に影響を与える存在だ。
「なあ、ばかばかしいと思わないか。それ」
「それ? 加護のことですか?」
「だって誰も見たことがないんだろう」
「でも、貴方も感じたでしょう? あの加護の心地を」
「......、まあ」
答えた瞬間にイチョウは曖昧な返答をしてはならないと思った。
「ああ」
声を被せるように声を大きくして答えた。
「......。あの、なぜそんなに加護を嫌うのですか? ご兄弟を亡くされているのも分かっています。でも、加護が明日貴方を変えるかもしれません。話は別になってしまうのはわかりますが、加護は貴方を変えてくださる確かにある素晴らしいものなのですよ」
「それは......」
イチョウは自分の中に加護を持たぬが故の嫉妬もあった。
「貴方は少し変わっています。加護への嫌悪はあまりに露骨です。他の人のことばかり考えて、自分はどうなるかを一切考えていない。そして光になって、どうなるつもりですか?」
「どうって」
歳の離れた子供に翻弄されている自分に苛立つ。しかし曖昧な返答ではクコを騙しきれないのがイチョウにはわかった。
「人の幸福を......」
「貴方は名前のわからない人に幸せになって欲しいと願えるような人ではないです。詰まるはずのない所で返答が淀みました。あれだけ感情を顕にする貴方なのに」
クコは真っ直ぐにイチョウを見て言った。こげ茶の瞳がじっとこちらを見ている。眉尻は少し上がっている。
「貴方は関わった全ての人がい幸せになって欲しいと思えることはできても、不特定多数の幸せを願えない。曖昧なことを考えられない。だから加護をばかばかしいと言って、加護を背負う人に、兄に想いを馳せるのです。目の前の人にばかり気がいってしまいます」
「なにが言いたいんだよ」
「その思考は素晴らしいことですが、加護の目の前には不要です。加護はもともと独善的です。それに献身的なことが両立する為に、貴方の思考は誤っています。考えを改めるべきです。私達は誰かを救うものになるのです」
クコは淀みなく言葉を続ける。
「貴方の加護は貴方を救いません。だから、人の為に使うのです」
それはイチョウが一番よく知っている。
「そんなの分かってる......! 兄さん達はだから居なくなったんだ」
自らを救えないから、加護によってその存在を消された。雨になったと人は言うが証明できるものは何もない。雨が降ったから、兄は加護によって変身したのだ。
結論と過程は逆転している。
「それに俺はその思想が気に入らない。自分を他人の為に使うのはそんなに素晴らしいか? 自分の願いや望みを捨てて他人のために在ることはそんなに尊いか? 俺の大事な人はそんな人ばっかりだ。何も残さず消える度、なぜ自分の為に自分を大事に思ってくれないのかと思うんだ。人は他人を救えない。そうできるのは自分自身だけだろう」
「自らを否定しなさいと言っているわけではないです」
「そうなってしまう人もいるんだよ。自分の為と他人の為が反対の人もいる。兄さんは......」
神子の重圧か、家族のためか、国の為か。他人に想いを重ねてはいけないと言いながら、独善的な加護で国難を救った。
「加護の変身は決して本人の為にならない」
「分からず屋ですね! 加護は特別なもの。一人が一つ持っているものではないのです! だから、平等に使うべきだとしているのです。加護を持つ貴方は特別なのですよ!」
「加護、加護、加護! それが気に入らない! 加護以外の自分は無価値というようないい草。それなら俺はなんなんだよ!」
図書館での言い合いはエスカレートしていき、声は館内に響き渡る。しんとしている中に声だけが反響する。
「......待ってください。貴方、本当に加護を受けていますか?」
クコは恐ろしいものを見たように、唇を小さく動かして震えるように尋ねた。
「貴方の加護に対する感情。それは私が旅の途中に持たぬ人々から何度も受けた反発的な感情に似ています。特別扱いをされることへの嫌悪や嫉妬。勿論私も全くない訳ではありませんが、加護への無理解がそれを大きくさせます。貴方、加護を受けているのですか?」
口頭質問だけで他人が加護を受けているかどうかは判断される。それほどまでに曖昧なもの。
「受けてる」
イチョウは騙し切れるかと疑いながら答えた。ユズリハがそう言わなければならないと考えたからだ。
「加護の虚偽は大罪です。齢二十五で消えなければ死罪ですよ」
加護を背負っていても年齢が二十五歳の時点で変身できなければ、死罪になる。大抵その手前で皆何かに変わって行った。加護はその家族に援助があり、当の本人の待遇がそこまで良い訳ではないので働き手を減らす点にあまり利点がない。神子である場合を除いて、待遇は目を見張るほど良くはならないのだ。だから誰も嘘をつかない。それか嘘で寺院に入り、加護を偽り夜に逃げ出したか。ユズリハがイチョウに嘘を吐かせたのは浅はかな行為だと言わざるを得ない。そこまでして、ユズリハは他人までもを求めているものにしようとしたのだ。
「神さまは貴方に何かを与えたのですか」
また図書館は静かさを取り戻す。クコの声が響き渡り、イチョウの心音も大きくなる。イチョウとユズリハ以外、イチョウが加護を受けていない事を知っている者はいないはずだ。
「加護だよ」
「信じてよいのですか」
加護は五感をもって感じられない。
「ちょっと、あなた達ここをどこだと思っているの。図書館よ、静かになさい」
二人に割って入る形で女の人が割って入る。クコとイチョウはすぐに服装から教員の一人だと察しがついた。
「ああ、申し訳ないです」
「すみません。場所を変えるべきでした」
女の人はそれぞれに一瞥をくれて、ため息を漏らした。
「イチョウ。さっきの話、後で詳しく聞くわ。時間を開けておきなさい」
「......はい」
気がつけばいつも静かな図書館はざわめいていた。足音一つ立てる事も控えるほど静かだった図書館は囁き声があちこちから伝わってくる。潜めた声の端々がイチョウの耳に届く。
「あれって神子の弟?」
「兄弟全員加護持ちだってのは嘘? まさか」
「ユズリハ様とヒサカキ、ランタナの弟」
「ヒサカキはまだ消えてない」
「ランタナとユズリハ様は数年前に」
「嘘と決まった訳ではない」
呟きの中に溢れるのは軽蔑と選民的優越感、そして羨望。
「誰が証明できる?」
加護を持てば消えるしかない。だからこそ逃れる夢を誰もが見る。自分が消えるのは恐い。
「図書館では静かに!」
先程イチョウ達を叱り付けた声がまた響いた。それでも静寂は取り戻すことができない。女の人は場を収束させる為にイチョウに外へ行くように促した。イチョウは大人しくフードを被り出来るだけ目に触れないように図書館を出た。
「いいな、身勝手で」
通り抜ける時に声が聞こえた。
「は?」
イチョウは思わずそれに足を止めた。
「加護はない。証明できないことをしなくていい。のうのうと生きて、そろそろ逃げ出す準備が必要だろ。お前の兄貴らも本当に加護を受けているか疑わしい。もういい歳だろ」
「ヒサカキ兄さんは加護を受けている! 今言った事は許されることではないぞ!」
「おい、やめろよ」
イチョウは周りの声など聞こえない。
「兄さん達は偶然なんかで消えたんじゃない! 俺の家族はトローレントの魔の力で消された! 加護なんかじゃない! 加護なんか、神さまの力なんか、そんなものでいなくなったのに。なんで......」
捲し立てていた言葉の歯切れが悪くなる。この場でそれを口走るのは良くないとイチョウの理性がブレーキをかける。
「......、そこまでにしなさい。みな憶測で物を語らないこと」
「そんな事を言ったって先生達大人は俺たちの受けた加護をわかってないんだろ!」
「ですが嘘の見分け方など誰も知らないのですよ」
事態を収めるようにイチョウの背は強く押された。
「......、すみません」
「どうして謝るんだよ」
図書館から追い出されたイチョウにそれについて来たクコがぽつりと呟いた。
「だって、あの、目」
先程までの図書館ではほとんど全員の険しい目線がイチョウを一直線に向いていた。
「あの。その、私まさかそんな」
クコは怯えた様子で何かを言おうとする。うまく言葉が出てこない。
「軽率でした。ここは加護を受けた人しかいないはずなのに」
「......」
イチョウはもう答えられなかった。
「クコ、おかえり」
フラフラと戻ってきたクコを部屋でリリーが出迎えた。
「ただいま戻りました。リリー、ありがとうございます」
「どうしたの? ずいぶんと疲れているみたいね」
「私、先程ユズリハ様のご兄弟に会いました。そこで少しありまして」
リリーは別の場所にいたが、図書館の話を又聞きで知っていた。寺院中はイチョウの話で持ちきりだった。
「そう。イチョウとヒサカキね? 全然似てないわよね。イチョウは気難しいし、ヒサカキはいつも静かで掴めないし。ユズリハ君とは大違い。かっこよくないし優しくないし」
「......ユズリハ君?」
クコはベッドに座り、リリーの言葉に目を丸くした。ユズリハはクコにとって出会うはずのない想像上のような存在だからだ。
「ユズリハ君が生きていたら、私と同じくらいの歳よ」
「リリーはユズリハ様と会ったことあるのですか?」
「もちろんよ。父の仕事の手伝いでこの教会で暮らし始めた私にとってユズリハ君は私のここで生きる理由だったもの」
リリーにとってユズリハは加護を受けた、自分とは違う存在だ。恋に似て、本人の意識は神さまなのだった。手の届かない、目に入る存在。
「リリーはどうですか。加護で消えてしまう人といる事をどう思いますか」
リリーは少し顔に疲れを浮かべて話し出す。
「ユズリハ君が居なくなったとき、私の人生終わったって思ったわ。生きる意味ない、ユズリハ君が私の前から消えちゃった。どうしよう、ここに居ても意味ない。大袈裟だって言われたらそれきりだけれど、私は本当にそう思ったのよ。でも私は続く。本当に驚いた。拠り所だったユズリハ君が居なくなって、私は全てを失ったのに、私だけは残るのね。これって辛いわ」
クコは黙ったままリリーの話を聞く。窓に雨水がぶつかる音がした。
「全部無くして消える事ないのに。生きて、遠くで、私の知らない貴方でいて欲しかったなあ」
願わくば自分の目の前で、世界に居られないと見切りをつけないで欲しかった。加護の変身とはそうする以外に他がないという様だ。
「生きているって、そう言う点でとても不利だと思うわ。ここのみんなと違って、私には死しかない。加護持ちの変身は存在しない。だから思い知らされるばかり。ユズリハ君の為にここで生きようと思ったのに、そうなんだ、ユズリハ君はここにいたくなかったんだと知らされる。何も知らなかった。何も同じじゃなかった。そうやっていろんな人の事を知っていくの。生きていくってきっとみんなそうよ。ヒサカキもイチョウも、兄弟の思う所のどこまでを共有してるかなんてわからないわ」
「......加護は素晴らしいもの。皆喜んでいるのだと思っていました。でも、あの人は違います。リリーとも違っています」
リリーは以前クコが半年間滞在した時に世話をしていたので、ランタナとのことも少しは把握していた。
「イチョウは兄弟皆が加護持ちだもの。一番歳下だからお兄さんの方が早く居なくなって感傷的になってしまうのよ」
それからクコはぽつりと呟く。
「あの人はとても真っ直ぐですね」
加護持ちの中でも神子になるべきクコは加護によって居なくなった人を悲しむことができない。そういう心は加護を否定しているような心地がする。ランタナがいないと知った自分の気持ちを隠さなくてもいいのなら、それはクコにとって救いだ。
「そうね。素直な事は大事だわ。ここにいるみんな、自分の事を死んでるみたいに思ってるもの。未来なんて何もない、終わりを生きているみたい」
「だって。私達は加護を受けたのですよ? 自分なんて小さなものを考えてはいけないのです」
「そうね。.......そうなのかもしれないわ」
外の雨が窓に当たる。ぱちぱちと屋根に跳ねる音もする。
「あの人は加護を受けているはずなのに、あんなに真っ直ぐに、自分の為の自分を持てる。それがとても羨ましいです」
自分に価値はない。もらった加護にのみ価値がある。
「でも人を一人にしてはいけないわ。どんな時だって、相手が望まなくたって、結局、一人では抱えきれないことばかりだもの」
「リリーは、ありましたか」
「クコは優しいのね」
クコの問いにリリーは答えなかった。
そして翌朝クコはベッドから目を覚ました時に、ヒサカキが居なくなった事を知らされた。
ヒサカキが消えたと報告があった時、イチョウはもはや声すら出せなかった。一瞬で喉の奥まで乾いて、かすれた空気を吸って吐いて、舌と唇を動かして言葉を紡ごうとしただけだった。肩が嫌に重たく、背中にかけて何かが乗っかるような重圧を感じた。
「......まずい」
気が滅入りかけたが、ヒサカキが居なくなったことでイチョウの立場が窮地に立ったのだと察しがついた。今までそばに居て自分を抑止し、守って居てくれた兄たちは居なくなったのだ。そうなってしまえば、イチョウの嘘は綻びがますます顕になるだろう。
部屋を見回して、鞄を引ったくり金になりそうなものを片っ端から詰めていく。加護を持つものは呪いの類いで宝飾品をもらうことが多い。人によって数は違うが、イチョウは兄達のおかげでそれなりの数をもらっていた。それを詰め込んでローブを着込み、その中にも付けられる分を入れた。
「どこから出れば......。正門からは絶対に目に付くし、裏手も......」
教会の敷地はぐるりと一周木立程度の高さの塀が回っている。正門、裏門、そして各方位に小さな通用口が付けられている。警備は厳重なわけではないが、立場を考えると目につかないことは難しいだろう。
「いや.......、今回も調査で騙しきれればまだいられるし。兄さん達を考えれば......」
イチョウは希望を口にしていることを省みる。
「もうここに居たくないんだ」
居られないのではない。
イチョウはこの場から別の場所に行きたいのだ。そうしなければ、イチョウは生きていけない。
鞄の中に金品を詰め込み、少し自分のものを入れた。すぐにでも逃げ出したいのに、それが終わったところでベッドに座り込むと深いため息と一緒に肩の力が抜けた。兄の嘘を清算しても、兄達に迷惑はかからない。自分は死罪になってももう家族からは求められないだろう。そして、両親には加護で消えたと報告される。となれば、ここから逃げ出す必要はないのかもしれない。それが甘美な考えに思えた。
朝は時間をずらしたおかげかいつも通り朝食を取れた。周りの視線がなぞる様に目に着いたが、気にしても仕方ないことだ。逃げ出さない様に警備でも付くのかと思ったが、イチョウには特別に何者もなかった。特別ではない人にそこまでする価値はない。
「おはよう。遅いのね、寝坊? 気分はどうかしら」
「おはよう、リリー。少し疲れましたよ」
食堂は加護持ちが食事を取った後、入れ替わりで手伝いの人達が食事をする。
「ヒサカキもいなくなったのね。ランタナが先だったけれど、ヒサカキの方がお兄さんよね?」
「ランタナ兄さんは何かとユズリハ兄さんに似ていたから」
「......ちょっとよ。それで、イチョウは何ともないの?」
リリーはイチョウより先に食事を平らげにかかった。仕事の合間のため早食いが癖になっていた。
「何んのこと?」
「加護の変身って結構連鎖的でしょう? ヒサカキのことがあっても異変はないかしら」
「ないよ」
リリーは最後のお茶を飲み干してからため息混じりに言う。
「そこは嘘でも何か言ったほうが良いと思ったのだけれど。お腹痛いとか。もちろん、貴方が嘘を言うとは思ってないわよ」
「昨日の話か。俺は隠し事が上手くないんです。だから適当なことは言わないほうが良いと思います。言い訳は考えてないし。とにかく、心配はしないでください。俺はもう全部上手くできますから」
「そう。じゃあせめて、私くらい貴方と仲良くさようならしましょう。今日は天気も良くなりそうだもの」
リリーはそういって席を立った。トレーを手早く片して、一呼吸ついてから「外の掃除に行かなくちゃ」と呟いた。どこまでイチョウの耳に届いていたかわからない。
「どちらへ?」
そうやってクコは荷袋を携えたイチョウに尋ねた。時刻は講堂で説教がなされている頃だった。回廊や食堂、図書館に人はいない。
「貴方が急にいなくなれば、皆さん心配します」
クコの言葉に足を止めないイチョウにクコは駆け寄って言葉をかけた。
「加護ってそういうものだろう」
「部屋がもぬけの空なら話は別です。貴方は嘘吐きのままです」
クコはイチョウを探して部屋を訪ねたのだろうか。イチョウは言葉を探していたが、不意に肩を落とした。
「そうだよ。俺は嘘を吐いた。加護を持ってない」
クコはそれに息をのんだ。それからすぐに怒りが湧き起こる様に表情が変わっていく。
「なぜそんな愚かなことを......」
「期待されたからだ。長男が神子の加護持ち兄弟の四男は加護を持ってるって期待されていた。だから嘘を吐いた」
誰がとまでは言わなかった。世界の期待から逃れられなかった兄の嘘を弟は背負わされた。被害者だと言えなかった。兄の心に気がつくのが遅かった。
「加護があるなんて言わなくたって、貴方はトローレントさまに価値があると言われたのでしょう?」
「......、陰気な考え」
加護持ちの全員に擦り込みの様にされるそれは、悪質なまでに全員の存在意義を歪める。トローレントさまに選ばれたのは、そもそも価値がないから。そして価値を見出すためにトローレントさまは加護を与えたのだ。それが人々にとって大き過ぎるものだから、選ばれたのなら平等に分かち合わなければならないというのが、加護の基本的な考えだ。
「その発想が嫌なんだ」
「事実です。だからどこへでも行けて、なんでもできるのです。貴方は何にも縛られなくていい」
クコの瞳から溢れるのは羨望。自分を思う方法を知りたい。
「......」
イチョウの目の前にいる人は何もかもが他人の為にある。自分を考えられない、愚かな人。
兄と同じ我がままな人。
兄の言葉を聞いた自分も愚かな人。
「俺に願いを託すなよ」
自分と同じ轍を踏ませない為の言葉なんて要らない。
「俺に何かの思いを乗せるなよ」
自分は何もないから、他人を思慮し過ぎるべきではない。
それは時に優しさであり、枷である。
「答えてほしくて堪らないんだろう。止めてくれよ。俺はもう二度と誰かの望んだ通りになんてしないんだ。自分のことを自分で答えを出すんだよ。それがどんなに簡単で難しいことか。お前はそれを一生知らないままでいるんだろう。でも俺は違うから、同じではないから。お前の思う事の一番の答えを出してやれないんだよ」
「私はそんなこと......」
出会った時にランタナはもう戻らないと知った失望を無くしたい。他人の事ではなく自分の意思で動くイチョウが羨ましい。そんな自分の心を見透かされてしまった様で、クコは心臓が潰れそうな程圧迫された。崖から下を覗く様な恐怖だった。
「ここにいたら、お前は一生自分の思うことなんてできないんだ。なりたいものになんてなれない」
「そんなことありません! 私は恵みの雨に.....」
きっと人は自分が思うほど他人の為に居られない。優しさや同情で同じ形をしていたら、自分そのものは壊れてしまう。それが悲しいのは誰だってわかるだろう。
「お前は加護によって消されるんだ。別のものにならなきゃいけない。なら、せめて、自分のために消えるんだよ。俺は、もともと消えてほしくなんかないんだ。ここにいたらそれはもう無理だ」
兄達と同じ形で誰かとの別れを、イチョウは受け入れられない。だから教会を後にする。結局、嘘も露見した。そして目の前の神子もいずれ同じ道を歩む。望まないものにならざる終えず変わっていく。
「お前も、俺も、きっとここにはいられないんだ」
イチョウもクコも自分と他者を上手に思えない。だから教会にいた。同じ心を重ねることをなんと言うのだろう。
「......。待ってください!」
クコは何を考えていいのかわからなかった。知っているのは、いつだって人をひとりにしてはいけないということ。それはイチョウだって、クコだって同じことだ。
「私を連れて行ってください。いつか、私は加護を受けたのだから。やっぱり自分の為に、誰かの為を思っていたいのです。ここでそれができないのなら、ここから出て行くしかない。私も貴方と出ていきます」
「......神子が?」
「世界中の加護を受けていた人が何になっていったのか。それを知れば私も少しわかる様な気がするんです。自分が何を望むのか」
他人なんて参考にも宛にもならない。
「そんなこと、いつだってわかっていなければならない」
イチョウは自嘲気味に言った。クコはイチョウのローブの袖を掴んだ。襟が少しだけそちらにずれた。
「そうです。だから貴方の隣にいようと私は決めたのです。一人にしないで。貴方を一人にしたくない」
クコがイチョウを見上げた。イチョウは小さな自分を思い出す。今の自分は、当時のユズリハの様なものだろう。イチョウの空白はクコが埋めるものなのだろうか。
「私はそうしたいと思うのです」
イチョウはクコの目を見たらもう何も言えなかった。きっと自分が持っていなければならないものを持っていたのだろう。
「二人揃ってどこへ行くの? そんな恐い顔しないで、クコ」
そこは外に通じる門が開け放たれ、リリーがのんびりと掃除をしていた。警備は全くされていない。
「リリー、あの......」
慌ててクコが口を開いた。それを制すようにリリーは話し出す。
「イチョウが来ると思ったから掃除していたのに。クコまで来るとは思わなかったわ。昨日の今日でお別れなんて寂しいことね」
正門と裏門とは別に備え付けられている格子戸はリリーの掃除担当場所だった。普段は正門が持ち場だが、今日ばかりはなぜか担当が変わっていた。
「イチョウ。貴方にさようならが言えてよかったわ。またいつか会いたいわ」
「......、迷惑かけてごめん。リリー」
「気にしないで。たまたま雨が降る前に外の掃除を終えようと思っただけなの」
リリーは優しく声をかけた。手に持っていたほうきを地面に置いて、リリーはイチョウ達と向き合った。
「ありがとう。ここではないところで、会えるといいね」
「そうね。それがきっといいわ」
それからリリーはクコの元へ寄って、フードをかぶせた。呪いとして刺繍がされたフードだ。赤や青、黄のビーズが縫い付けられている。神子だけが着ける特別なトローレントを象ったマントだ。光の線が八方に伸びて十字には一際長く描かれて、光輪がそれと交わる。
「貴方が居なくなったら大騒ぎね」
「はい、きっと」
「でも、私は貴方が望むことなら、それが良いことだと思うわ。元気でね」
「リリーも」
リリーはクコのフードをさらに目深にした。それからまた掃除に戻る。クコが口を強く結んで呼吸を止める。
「......。イチョウ、どこへ行くの?」
「どこへでも。ただもうここには居たくないんだ」
無計画で、無責任。無鉄砲で情けない。
それでも物事の答えを出した人間に、世界中のただひとりとしてそれを否定する権利はないのだ。答えの結果を受け止めるのは本人だけなのだ。
「神さまが俺に加護を与えなかったのは、きっと俺がここから出て行く為なんだよ」
この国は結果と過程が逆さまだ。太陽の光は物が影を落とすから差した。風は木々がざわめくから吹いた。
だから、トローレントは神さまになる。
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