化け物になる女

 僕は何ができる人間なのか、そういう陰鬱なことを考えている。

 その為に人並みの努力をしたと言っても良いだろう。それくらい言わせてくれ。だから、軍学校に入ったし、成績だって良を取る為に努めた。最良を貰えなかったのは努力が足りないせいか、それとも越えられない壁があるだけなのか。流石にそこまでは考えた事はないけれど、つまり僕はよくできた人間ではないのだ、そうだ。他人から見ればお前より出来のいい者はいる、という評価だ。何にせよ一番でないと気に食わないたちではないが、僕は一番ではない事を心地よいと思った事は一度もない。

 だから、こんな僕は何ができるのかと考えるのは陰鬱な事だ。

「やあ、はじめまして。君がヒイラギだね。私はメギ」

 そんな僕にできる事をくれたのはメギだった。メギだけが僕とは何たるかを教えてくれた。メギは僕の守るべき人であり、親友だ。

「聞こえてる? 国軍だかなんだか知らないけれど、堅苦しいのは勘弁してね。まさかとは思うけど、お姫様としか喋った事ないとか言わないでくれよ。私は田舎者だから、流暢なお姫様が喋るような事は言えないわけだ。お判りいただけるかしら?」

 最後だけはお姫様も使うような言い方で、メギは都市部では聞かない話し方をする。メギは僕より一つ年上の背の低い女の子だった。軍学校の中で一番背の低い僕よりも、背丈の高い靴を履いても頭の位置が低かった。初めて会ったのは十六の頃。自分の事を呼ぶ時に公私で分別よく言えるようになった頃だった。

「これより貴方にお仕えするよう命を受けました。私、ヒイラギと申します」

 僕はメギに最敬礼より二つ下の位の挨拶の儀をした。本当は一つ下の動きをしている時に臆して、途中でやめたのだ。しかしメギはそれに見向きもしなかった。田舎者のメギはこういう格式ばったことが苦手なのだ。

「はいはい。お仕えなんてムズカシイ言い方やめてくれ。君と私は友人だよ、よろしく」

 メギは所謂「加護持ち様」だ。他所の国の神さまからご加護を授かった人で、この国の最重要人物の一人に当たる。我が国には全部で十二人の加護持ち様がおり、僕の知る限りでは全員が存命だ。最高齢でも二四歳、最低年齢は九歳だ。メギは国の中でも辺鄙な土地の出身で、加護を授かったとわかった日にこの首都に連れてこられた。

 国はこの加護持ち様に十分な恵まれた生活を約束している。理由はよくわからない。きっと神さまが加護を与えている人の事を見ている。そして、その人たちを通して、神さまは僕らを見ているのだと言われている。

「メギ様、有事の際には必ず私に」

「しない、友人に逐一何を知らせるっていうのさ。けど、お茶を飲む時はお誘いするよ」

 メギはこれまで一戦を退いた老兵に警護されていた。その人が職を解いた為、その席が僕にあてがわれたのだ。事前に聞いた話では、話し相手をしていれば良いそうだったが、メギが求めたのは本当にそれだけだった。

「それでは、挨拶ありがとう。機会があればまた会える日まで」

 そう言ってメギは戸を閉めた。僕は軍学校の野暮ったい制服からようやく着替えられた新品の軍服を持て余して、縦長の家の前に立たされた。人の多い都市部から随分と外れに位置する寂れた通りにメギは住んでいた。僕の同期が沢山配属された王宮は大きな川を挟んだ向こう側の区画だ。田舎者には丁度いいが、国最重要人物が住むにしてはみすぼらしい所だ。地区は違うが、僕の家からも通える距離だった。つまり国の軍人が居ると浮くのだ。

「あら、メギちゃんの新しい騎士様? 随分と若いわね! いくつかしら」

「......十六です」

 通りを行く夫人方が僕に話しかけてきた。メギはこの地区ではそれなりに有名人だ。

「十六? メギちゃんと一つ違いね!素敵なお友達になれるわ」

「メギちゃんはちょっと分からず屋な所あるから、ゆっくり仲良くなるのよ」

「あら、それってメギちゃんが真っ直ぐでしっかりしてるって所でしょ?」

 メギは近所ではそれなりに有名人だった。変に騒がれもしていないで、加護持ち様であると言うよりも、研究者として名を知られている。メギの研究は医者の仕事に近い。

「メギちゃんは賢いから、頭が硬いのよ。この前だって」

「そうだったわ。あれにはひやひやしたわ」

「何があったのですか? よろしければ教えて下さい」

 僕の問いかけに口を回し出した夫人達は止まることを知らない。

「そうよ! お国の偉い人がよくメギちゃんの所に来るの。診てもらうわけでもなくて、どんなふうに生活してるかの調査をするの。それをいつもメギちゃんは追っ払っちゃうのよ、もちろん私は良い子にしなさいって言ってるわ? でもメギちゃんは聞かないの。ちょっと我慢すれば良いのに」

「でも仕方ないわ。メギちゃんは加護持ち様を鼻にかけてないのに、いつもあの偉い人はメギちゃんに心無い事を言うでしょ? 腹が立つのもわかるわ」

「ママさん。私の話はそれくらいでやめてくれ」

 夫人達の話にメギが扉を開いて、口を挟んだ。

「あら、メギちゃん。居るなら言ってよ」

「門前で話をされたら気になるだろうね。井戸を囲んで話しておくれよ」

メギは扉の枠に寄りかかって、くたびれた様子で応えた。手元には分厚い本を抱えている。文字ばかりで挿し絵は、僕は本物を見たことが無いが人の臓器だった。

「おや、まだいたのか。ヒイラギ君」

「ええ。ご挨拶も充分と言えませんでしたから」

「君は律儀だな。生き辛かろう」

 夫人達に別れをしながら、メギは僕に言った。メギは重要人物なのだから、礼を尽くすことは当然だ。僕は首を横に振って応えた。

「そうか、いらない心配をしたね。今日は帰って構わないし、君の仕事は調査の日にそれっぽく立ってるだけで良い。ほかの日は畑を耕しているか、別の人を守るのがいい」

 そう言われてそのようにするほど僕は不真面目ではなく、他の仕事らしいものも無かった。とりあえずで、初日の僕はメギの家の前の鉢の並びに加わった。

「......、こんなものか」

 自分とはそういうものだと強く思い知らされた。



「おはよう、ヒイラギ」

「おはようございます」

 メギは僕がずっと居るのを見て、数日後には僕を仕事部屋に上げるようになった。薬を作る研究をしており、メギの部屋は植物や乾燥させた花、果実やらが所狭しと吊るされている。机には白や黒の粉がすり鉢と共に散乱していた。家政婦を雇わないのかと尋ねたら、片付けは不要だと答えた。物事が進んでいるのか、息詰まっているのかもわからないまま日毎に机の散らかり具合は形を変え続けていた。

「今日はこの前怪我を診た子供の経過を確認したいんだ。追て来るかい?」

「先方は?」

「ヒイラギなら歓迎だと」

「なら是非」

 僕はメギの衛兵であることを忘れかけていた。憧れていた赤色のマントもケープもジャケットも全て脱いで、シャツに剣を携えただけだった。なまくらにならない為に鍛錬をするのも二日に一度きりだ。代わりにメギに頼まれる力仕事をこなしている小間使いの様に甲斐甲斐しく働いた。メギはよくお茶を出す様になり、昼食を振る舞う様になった。夫人達はそれを見ると、それ以上の事を騒ぎ立てるようになっていた。

「そういえば、先日手紙を貰いました。国の方から」

 初めて貰った時は手が震えたけれど、今となっては中身の無い挨拶も読み飛ばして結論だけ書いてくれと要望を出したくなる手紙だ。インクも無駄だし、形式的な装丁の予算に思いを馳せてしまうようになった。

「へえ。何と?」

「最近物騒になったので、警護も一層気を引き締めるようにと」

 要約するとそういうふうに書かれていた。

「そうだね。ここは川の向こうよりは治安が悪いだろうし、ヒイラギを率いて身分をひけらかしているのは私くらいだ」

「お気に召さないですか」

 メギはすぐに表情を暗くした。

「......、すまない。嫌な言い方をした、ヒイラギ」

「貴方がそう思うのはご最もです。私はあまりに象徴的で目立つ」

 外せるものを全て無くしても、僕はメギの衛兵であることを捨てることはできない。もしもの為に剣を携えている。役に立たない権威を振るう為だ。僕は自分の為にそれを持っている。

「ヒイラギのそれは軍人として認められた証だ。誇るべき事で、卑下するものではない」

 弱い自分を思い知らされる。今でも僕は弱いまま、メギの為にある。

「君はいつもそうやって自分を低く見積もる。君がどんな人かなんて、他人の中にある君と本来の自分をわざわざ一致させる必要はないよ」

「僕はそういう人間なのです」

 僕はそういう事をするのが得意だった。

 相手に口を出すのもうんざりするくらいに、自分は他人に誇れるものは何もないと見せつける。そうすれば、誰にも何も盗られないと信じているからだ。僕の中の大事で大切で誰にも見られたくないそれを隠している。具体的にそれは何かと言われれば、それは自分自身で、僕だけが大切にできるものだ。

「辟易しますでしょう」

 なぜその時こんな事を口走ったのかわからない。全てわかっているとメギに伝えて、わかって欲しかったのかも知れない。

 痺れて、胸が痛んだ。

「......。ヒイラギ、君は耳が悪いな。同情する。行こう、午後にはもう一件仕事があるんだ」

「はい」

「ヒイラギは私の......」

 思いつめた様子でメギは頭を抱えて閉口した。メギは時たま強い目眩を起こす。持病だそうで、原因は不明だった。目眩以外は至って健康だから頭に何があるとして、頭の中を覗く機械が有れば良いと語った事もある。

「行こう」

 戸を開いて二人で外へ出た。メギはいつも診察の荷物を自分で持った。僕は腰に剣を携えただけ。

 川沿いを歩いてしばらく行くと、何本か橋を横目に通り過ぎる。この橋は僕にとって大きな壁だった。川向こうでは一国の軍隊の駐屯地があり、時間が来ると隊毎に決まった道を巡回する。その足並みとマント姿に僕は憧れたのに、今は見ることもできない。

「ヒイラギは川向こうに憧れる?」

「......いいえ」

「そうか。私は田舎から出てきて、最初に当てがわれた川向こうの生活を捨てた事を後悔する日がある。向こうは良い言い方ではないが、気取った人が多いだろう。背筋を伸ばして、自分の美しさを精一杯見せつける。そうでないと、他人の視界から消えてしまうような心地になる。私はそうやって格好を付けるのに直ぐに堪えられなくなった。どこかで川向こうを対等ではなく見上げていた」

 嘘を吐く僕はメギに何と言えば良かったのだろうか。

「一人で暮らしても良いと許されて直ぐに私は今の家に越した。とても居心地が良い。近所の人も私の元いた所と変わらずに、人の事を平気で大きな声で話す。私はそこにようやく居ることがわかった。歪んでいるのはわかっていたけれど、どんな姿であれ私は他人の中にあった。それが私には必要だった」

「貴方はそんな事が必要ないくらいに、この国から求められています」

 その時メギは真っ直ぐに僕を見た。夕陽が指した時のように目を細めて、嫌悪も幸福もない目だった。きっと僕はメギの欲しかったものをあげられなかったのだろう。忘れられない。目は口程にも物言いがなかった。

 記憶は稲妻のように閃光が走るだけ。断片的でぶつりと切れてしまっている。この診察の後、帰り道の時にメギが浮浪者の目に止まってしまった。それはとんでもない因縁だった。僕が毅然とした態度を取って、浮浪者とメギの間に立てば良かった。

 それができなかったのは、僕が軍学校で最良の成績を取れない所以だろう。

「アンタ加護持ちなんだって? そんな金持ちがこんな所に何の様だ? 誰に許可貰って川を渡った田舎に来てるんだよ」

 浮浪者は三人だったと思う。汚く唾を吐きながらメギに言い放つ。堅いの良い男で片目がなかった。ヒョロ長い男と裸足の男もいた。

「私が何処でどんなふうに生きる事を決めて良いものは私以外にいない。加護持ちとしての責務をこなし、その見返りを頂戴する。私は真っ当だ」

「上等な物言いしてるじゃねえか。お前らは居るだけで鼻持ちならねえ。世の不平等を体現してる! 持った加護は何の役に立つかも分からねえままに重宝される! 馬鹿みてえだよ、俺達はお前らより下になる! お国様はお前らをありがたがる! お前らは間抜け面のくせに神様になる! 全部馬鹿野郎だ! わかってくれるか? この胸糞悪い感覚が!」

 メギに当たり散らすのはお門違いと言わざるを得ないが、確かにそれは国民の大半が心の底に沈めている感情だった。誰も表面に出さないのは、加護持ち様に楯突いた人間の末路は神様に逆らったのと同等の罰を受けるからだ。

「黙れ、下衆」

 僕が言えたのはこのくらいだった。頭に血が上って、感情が上手く言葉に乗らない。メギを知らない人が、メギを馬鹿と罵ったのに怒りが冷静さを欠いた。僕は牽制の意味を込めて、剣に手を乗せる素振りをした。それだけすれば、事態は収束できると思った。そして剣を抜いて戦う事が怖くなっていた。相手は名前も素性も知れない相手だ。学校で成績が上か下かで勝負に見切りをつけていた僕はそれが怖かった。表情に出ない様に静かに呼吸をした。

「お姫様を守る騎士様気取りか? その靴と剣は軍の支給品って事はてめえ軍人だろう。こんな奴の警護とは、ボンクラの能無しだろ」

 そう言われて僕よりも先にメギが声を上げた。

「貴様! 今すぐヒイラギへの非礼を取り消せ! 国の為に命を懸ける軍人だ!」

「はっ! 何だよ、加護持ち様は本当の馬鹿野郎みたいじゃねえか! じゃあアンタの騎士様が能無しじゃねえ所を見せていただきましょうか!」

三人の男が手元に剣を持っていた。短剣だった筈だ。僕に相手をしきれるだろうか。考えるより先に男は僕に切り掛かってきた。何回かそれを左右にいなす。

「手を引け。メギ様は医者をなさる方だ。お前たちを見下げる様な事はなさらない!」

「お医者様だって! 俺は目が悪い! 目ん玉が腐って視界は泥水みたいに濁ってやがる! それをアンタは治せんのかい!」

 メギは黙って何も言わなかった。

「ほら! 加護は万能じゃねえ! そんな善行はアンタの心持ちを満たすだけで誰の役にも立ちはしねえ!」

 そう言うと男の矛先がメギに移った。

「メギ!」

 僕が叫んだ。けれどメギは刃が降りかかるのを見ているだけだった。

 なんて顔をしているのかと思った。

 恐怖も無くて、怒りも無く、ただちらりと僕を視線が見た。それは僕の行動を促す様なものでもない。刃の間合いではない事を確かめる為のもの。神様はメギに何も与えなかったのだろう。その時、加護は本当に何の役にも立たないのだと僕は気がついた。僕がこのただの人を守らなければならない。

 右手を伸ばす。

「ーーッ!!」

 メギと刃の間に踏み込んだ時、僕はいつものシャツが真っ赤に染まった事がわかった。それと同時に意識が強く底に引っ張られる。僕は水底に沈む様に何も出来ず、身体が重くなって落ちていく。


 次に目が覚めた時は自宅のベッドの上だった。僕は祖母と二人暮らしだったが、軽い足音が聞こえて不意に身体を起こそうとして、息が詰まった。

「......え」

 あるはずのものが無かった。

「腕」

 それを動かそうとして、僕は空回りする。気持ちの悪い感覚だった。記憶通りに僕は身体を動かせない。右側が不釣り合いに軽い。視界は左右が不対照に見える。

「......ヒイラギ、目が覚めたわね。良かった」

 部屋に祖母が入ってきた。僕の顔を見て一安心していたのを、僕は頭を真っ白にしながら見た。口がうまく回らない。

「あ、ああ。僕は、腕が」

「ヒイラギが無事で何よりよ」

 祖母は僕のベッドの元まで寄って、持ってきたタオルと桶を側の机に置いた。

「お婆さま、僕は。僕はどうなっているのですか」

「先生の話では助かった、よ」

「助かった?」

 涙が溢れる。息が上手く吸えない。僕は助かったと。命があるだけで有り難がれるほど僕は無垢な人間では無かった。片腕をなくして、僕は何ができると言うのか。

 できない事が増えた。

「今は泣かない方がいいわ」

 その意味がわかって、ようやく僕は事のあらましを思い出す。急激に熱が冷めていく様な心地がする。

「.....、メギは?」

 涙を拭いて僕は問うた。

「ヒイラギ、お前は立派よ。加護持ち様を守った。お前が気を失ってすぐに、助けが入った。襲った輩は捕まったし、加護持ち様は軽症で済んだ。少しお待ち、先生を呼ぶわ」

 祖母は不自由な足取りで僕の部屋から出て行った。不揃いな歩調は聞き慣れていた。そしてすぐに戸が開かれる。

「......、ヒイラギ。良かった。この度は......」

 メギは焦点も空に話出した。メギも顔に傷があり包帯を巻いている。

「貴方に何も無くてよかったです」

 自分でも驚くほど上手にメギに話す事ができた。冷静にメギの顔を見る事ができた。メギの前ではこんな自分でも立派でありたかった。代わりにメギはいつもの調子を失っていた。

「私は、......ヒイラギに何と言ったら良い?」

「宜しければご褒美を」

「......、ありがとう。私は、ヒイラギがいなければきっとここにいなかった。君は立派な軍人だ。誰よりも優れた方だ」

「光栄です」

 賛美を続けようとしているメギは頭を混乱させていた。それからすぐに泣き出した。

「......。私、こんな事を、君をこんなふうにさせるつもりなんてなかった!」

「勿論です」

「違う! 違う、違うんだ。私は、ヒイラギに.....!」

 その否定が何を意味するのか。僕は何も考えたくなかった。知りたくなかったし、答えを分かっていた。

「名誉をください。僕はそうお願いしました!」

 メギにそれ以上続けて欲しく無かった。これ以上惨めな思いをするのは沢山だ。

「......、時間を開けてまた診てください。先生」

 崖から突き落とされた様な顔をした。メギにそんな顔をさせる自分をどうやって誇ればいい?

「そう、するよ」

 メギは僕の部屋を出て行った。僕はメギを守る事ができた。腕を無くした僕が持ち得るものはそれしかない。それにすがるしか無い。普通の人よりもできる事が減ったのだ。僕が何をする事ができる人間なのかを教えてくれるのはメギしかいない。僕はそういう理由でメギを大切に思う。

 陰鬱だと、僕はそれを誰よりもわかっている。



 イチョウとクコが紙を片手に歩いていた。川にかかる橋の上で左右をキョロキョロと見ていた。クコは橋の造りをまじまじと見入っている。

「すごい! こんなに大きな川に橋がかかっていますよ」

「舟が要らないのはいいな」

 端から端まで歩いたら数分かかるところだろう。クコたちの国では川は氾濫がしばしば起こる為橋は良く壊れた。資材の関係もあり、二人の歩く石材の橋が架けられない。

「この橋を渡って、通りの一つ奥まったところにその人の家があるらしい」

「他の方よりも少し遠くに住んでいるのですね。こちらは橋の向こうより明らかに......」

 クコは横を通る人を見て口を噤んだ。イチョウも理由に概ね納得して、続きを促さない。最も、相手側は二人の異質な格好を注視していた。

「郷に行っては郷に従えと言いますし、着替えるべきだったでしょうか」

「......、無いよりはましだろう。着て置いた方がいい。奇抜なものは人を寄せ付けるけれど、接触しない程度に遠ざけてくれる」

 クコはそう言われてフードを深く被り直した。フードは眼を模った刺繍がしてあり、フードを目深に被るとてっぺんがツノの様に尖る仕組みになっている。両袖も十分なゆとりができるほど長く、クコの全長以上に見えるようになっていた。本人は足元以外ほとんど見えなくなるので被りたがらない。

「そういえば、奇病の方だそうですね。感染に注意しなさいと言われましたが疫病でしょうか」

「町医者が病とは世話無いな」

 橋を越えきると地面は土が剥き出しになった。

「お医者さまも人ですね」

「貴方達、メギちゃんにご用?」

 クコとイチョウは不意に夫人達呼び止められた。少し訝しげな顔をしている。格好を見れば当然と言える。クコが反射的に尋ねた。

「メギさん?」

 続いてクコを制してイチョウが口を開く。

「はい。太陽の日を浴びてはならないのです。吸血鬼の様な病を患っております。まじないの羽織りですので、こんな格好で申し訳ない。その、メギ殿を訪ねて来ました」

 クコはイチョウのでたらめを隠れて冷めた様子で見た。夫人達は眉を八の字に曲げて、感情的になった。

「あら、あら。それは不便だこと。兄妹そろってなんて。メギちゃんはお家で診療してるわ。ご案内してあげる」

 夫人達がイチョウを先導した。道は真っ直ぐに整備されているが同じような区画が並び、にわかには理解しにくい。通りに名前が振ってあったはずだが、橋を渡った先はそれが無くなっているところも多い。

「お医者さまも病だそうですね。この国の重要人物のお一人だと言うお話なのに、何と嘆かわしいことでしょう」

「良く知ってるわね。貴方たちはこの国の人ではないと思うけど。そんな人に知られているなんて、メギちゃんが有名人ということは素晴らしいわ。お使いの片腕の子、なんて言ったかしら。あの子も喜ぶでしょうね」

「お使いじゃなくて、護衛のヒイラギ君よ。メギちゃんとはそれ以上の関係だと思うけれどね」

「やだわ、貴方ってすぐ色恋に結びつけるのね。もう五年経つから、遅いわよ。それに何年経ったとしても、私はあの子達に主従関係は壊せないと思うわ」

 「あら残念」と夫人達の話はそれていく。イチョウも聞きたいことがさっぱり聞けずに横を並ぶクコの足元を退屈そうに眺めた。歩調はいつもイチョウが遅れている。

「いたいた! メギちゃん! 患者様よ。なんだったかしら? とにかく診てあげて頂戴」

 イチョウとクコが見た先にメギがいた。

「ママさん。こんにちは。お客様?」

「そうよ! メギちゃんを探していたみたいだから連れてきちゃった。お時間あるかしら?」

 メギは軒先に置いてある植木の様子を見ていた。花屋の様に妻入りの家の壁面にずらりと植木が並ぶ。背の高いものや背の低い花々、線状の葉や、火花の様に細かな枝葉、深い緑の草や、色濃い果実の蕾を持ったものまで、多種多様だった。クコたちのような知識のないものには雑草との区別もつかない。

「どうされました? 中でお話をしましょう」

 メギはクコたちを連れてきた夫人達に別れを告げて、大きな両開きの戸の片側を開けた。

「加護持ち様ですか?」

「......そう呼ばれることもありますよ」

 クコの問いにメギは表情を曇らせて言った。目の下の深い隈が顔色をさらに悪く見せた。

「貴様ら! 何者だ!」

 大声が三人の空気を壊す。そして一瞬のうちにメギとクコたちの間に男が割って入った。

「ヒイラギ......」

 クコはため息混じりに呟いた。ヒイラギはケープを両肩に掛けて、広がらないように右側をベルトで固定していた。クコはヒイラギの身体の様相に身を一歩退いた。獲物を狩殺す獣のような目つきで二人を睨み、左腕をメギの前に伸ばした。ヒイラギの態度は全身をマントで隠した者が二人も現れれば当然という対応だ。

「イチョウと言います、それから隣はクコ」

 イチョウがフードを外して、クコにもそれを促した。クコはフードを外すと身長が半分程度になってしまう。

「クコです。ご挨拶が遅れてしまい、すみません」

「何者だ! こちらはこの国の重要人物のお一人だぞ。貴様らの様な怪しい者を近づけるわけにはいかない」

 イチョウがメギを見やると困り顔で笑っていた。口が「悪い」と動いたのが見て取れた。

「手荒い歓迎をありがとうございます。この大きな荷物を見ていただければおわかりになる通り、俺たちは旅の途中です。実はクコが病でして、それをメギさんに診てもらえないかとやってきた次第です」

「病だと? 顔色も呼吸も肌も普通に見える」

 ヒイラギがクコにその鋭い目つきを向けた。クコがイチョウのマントを反射的に引っ張った。イチョウはメギの方に尋ねる。

「番犬ですか?」

「犬ではない! 先程から何と無礼な物言いだ。貴様らの程度が知れるな」

 ヒイラギの視線がクコからイチョウに移ったところでイチョウは「失礼」と手短に謝った。

「見たところ世捨てとも奉公とも思えないな。本当に旅人か?」

 イチョウたちはマントの刺繍に加えて、それを外すと宝飾品が目立つ。彼らの国で、彼らが受ける扱いの為だ。こちらは真にまじないの意味が強い。

「放浪と言い変えても構いませんよ」

「どちらでも良い。病人で無いなら引き返せ」

 険しい顔つきにイチョウは手に持っていた紙をヒイラギに見せつけた。

「紹介状......」

 国専用の便箋にイチョウ達の身分と要件を伝える内容が書かれていた。末尾には紹介者の大臣の名が日付と共に書かれている。日付は三日前だった。それをメギも確認すると、

「ヒイラギ、お客様だ」

 そう言って二人を家の中に招いた。


 メギの家は一階を全て一続きの部屋で診療と研究室としてある。その一階は大きくカーテンで二分されており、部屋の奥が人を診療する場所となっていた。二階は廊下と小部屋が二つ並んでいる。いつも入り口は半開きで不用心な家だった。

「それで、貴方達はどういったご用事?」

メギは形式的にクコの様子を一通り診療した後に椅子に深く座って尋ねた。ヒイラギは診察部屋には入ってこない。クコは少し黙って何を聞くべきか考えた。

「まず病気というのはイチョウのでたらめです」

「大丈夫、わかっているさ。それから?」

メギは穏やかな声色で聞いた。

「私は貴方と同じく、加護を受けました。......加護持ち様は、私達の神さまであるトローレント様の御加護を受けた人たちで間違いないでしょうか?」

「そうだよ。間違いない」

「それならば、この国は加護を軽んじていますね」

 クコの言葉にメギは即座に声を大きくヒイラギを呼んだ。

「何ですか、メギ」

「お水を汲んできてくれる? なるべく沢山」

「ですが......」

 ヒイラギはクコとイチョウを警戒した。イチョウがクコを見るとこくりと頷いた。

「俺も行きます。沢山の水なんて一人では持ちきれないでしょう」

「という事だ。頼むよ」

 ヒイラギも流石に子供のクコとメギではメギに分があると判断した様で大人しくイチョウを連れて、外へ出て行った。

「話を途中にさせて悪いね。クコさん、続きをどうぞ」

「あの衛兵に要人の警護をさせるなんて、あまりに敬意に欠けると思います。凄みは有りますが手練れというようでもありませんし。もし本当に貴方を脅かす者が現れた時に、片腕の人間にできることはあまり多くないはずです。日常生活ですら、きっと両腕のある人より有利に進まないでしょう。助力になると思いません。そんな人に警護を任せるこの国は、加護を、私達の神さまを軽んじています」

 クコが年齢の割に難しい物言いをするのだと、メギは考えを改めた。

 メギは言葉を選んで話し出す。

「この国は加護を軽んじているわけではないよ。私達は加護を恐れている。神さまへの畏敬だ。だから神さまの加護を受けた人たちへ質の高い生活を約束している。そしてその畏敬が歪んだ形で現れたのが彼ら、ヒイラギ達衛兵だよ。名目上は警護、それと同時に彼は私の介錯人だ。加護は何の役にも立たないけれど、いずれ何かあるかも知れない。その恐れが拭えないから、私に変な動きがあった時にすぐに始末できるようにしてあるんだ。そして、加護持ちは私を含め若年層が多いから、わざわざ屈強な人間である必要がないのだよ。短絡的に言えば勿体無い。退役間近の老兵でも、無才の新米兵でも、片腕の兵士でも私の事を殺すことは容易い。そういう人にとって適役なんだよ」

「貴方以外の加護持ち様にもお会いしました。全部で八人。どの方も同じ立場ですね?」

「勿論。不適切な事があれば直ぐに殺される。過去に二人殺され、二人失踪した。怖がりだ」

 クコは首を振った。

「加護の意味を知らないのなら当然かもしれません。ヒイラギさんはとても辛い立場ですね」

「彼は耳が悪いから。分かり合えない」

「耳が? そんなふうに見えませんでした」

「だろう。でもそうなんだ」

 鼓膜ではないところが狂っているという意味だった。

「メギさんも病だそうですね」

「ああ。奇病だよ、その実を聞いた?」

 そういって、メギが自らの右手の指輪に手を掛けた。


 水を汲みに行ったヒイラギは扉を閉じて直ぐに足を止めた。

「水は?」

「不要です。こちら側は水道整備が遅くなっていますが、この区画だけは裏口から出て直ぐのところに共同の水場があるのです。あれはメギからの席を外せという合図です。病は人を繊細にしますから、この類の命令がいくつかあるんです。先程は失礼しました。ご無礼をお許しください」

「そういう役なのでしょう」

 イチョウはヒイラギの浮かない表情をぼんやり見た。自分も誰かのためにこんな顔をするのだろうか。

「心配か?」

「当たり前です」

「なぜ? 護衛の主従関係というよりはお目付役の方が意味合いは充分に思えた」

 ヒイラギはそれを聞いて顔を青くさせた。屈強な男のする様な顔ではない。強かさもなく、怯える小さな動物の様だった。

「......僕はメギがいなければ、何にもなれない人間なんです。片腕になった時、僕は本当は退役すべきだったんだ。それをメギが僕に責務を続ける打診をくれた。僕はそれに縋るしかなかったんですよ。軍学校を出てもどの軍部にも所属できない僕はメギの隣でようやく兵士の役目を果たせた。でもメギへの恩をいつか、僕は仇で返さなければならないかもしれない。僕らはこんなにも嫌な関係で繋がっている。いつかメギに刃を振るう日が来るのです」

「それが怖いのなら離れればいい。別の人の警護でも、役目はいくらでもある」

 そう言われてもヒイラギは相変わらず暗いままの表情だった。そして左手で腕の通されていない右袖を掴んだ。

「メギはただの人なんだ。世界がきっとメギを特別に仕立て上げた。僕はそれを知っている。誰も、メギも、それを知らないと思うよ。君達の神さまは何の役にも立たず、加護を与える。ただの人をまるで奇跡の人のように見せてしまう。ある種呪いのようだ。だから僕が」

 その時ヒイラギの声をかき消すようにクコの悲鳴が聞こえた。それと同時にヒイラギは表情を変える。

「クコさんだ!」

 ヒイラギは悲鳴と同時に部屋の中に入った。追ってイチョウが部屋に入る。

「どうした! クコ!」

「あの、メギさん、が。病について尋ねたら! 私に見せてくださると言うので!」

 クコが部屋を二分していたカーテンの奥から、イチョウの元にかけて行く。途中脚の回転でマントが引っ掛かりクコは転んだ。駆けつけたヒイラギがそれを立ち上がらせ、カーテンの前に立った。

「落ち着いて。メギは向こう?」

 ヒイラギはクコに宥める様に問うた。クコは表情は凍りついたまま、カーテンの向こうを指差した。

「驚かせてごめん。許してあげて。彼女は病なんだ。仕方ない」

「病? あれが......? あれは」

 クコはか細い声で言った。

「あれは奇病。腕が生えてくるのだよ」

 ヒイラギがカーテンを引く。そしてついて来ようとするクコの肩をヒイラギは押し返した。

 カーテンの向こうから透ける日の光が柔らかな異形の影をクコとイチョウに見せる。人型が二つ。一つは剣を持った人で、もう一つは化け物のように、片腕が一本多い人だった。右側に重心が傾いている。カーテン越しから聞こえる声の様子からしても、ヒイラギとメギだった。

「何をしているんだい、メギ」

「はあ。遠くから来たお客様なんて初めてだから、ちょっと驚かせてみたくなっちゃった。あはは」

 苦しげなメギの声と穏やかなヒイラギの声だった。メギは大きく肩で呼吸をして、正気を保っているようだ。

「だからって、僕が居ない時にこんな事をしなくても......」

「ごめん。......、ごめんなさい」

 メギの言葉にヒイラギは身体が凍りついたようだった。剣先が相手に向いて鋭く光った。

「お願いだから。そんな事を言わないで」

 それから溢れる言葉を飲み込んで、ヒイラギはこれからしなければならない事の為に意識を集中させた。三本目の腕、ただ一点のみを見つめて自分の心に背を向ける。

「ああ、あとで。目覚めさせて」

 一呼吸。その一瞬にクコは目を逸らした。

 重たいものが床にどさりと落ちる音がする。ヒイラギは深いため息を吐いた後に剣をしまい、暖炉にそれと薪を放り込み、マッチの火を入れた。

「すまない、終わったよ」

 ヒイラギがカーテンを開けた。その奥にメギが倒れていた。着ていた服の右袖が半端にちぎれていた。奇妙な事に床に血が落ちていない。

「ひっ」

「大丈夫。死んでいないよ」

 声を上げたクコにヒイラギは穏やかに言う。イチョウは漂ってくる異臭に耐えきれず窓を開け放った。

「僕はメギをベッドに置いてくるから。少し待っていてくれたまえ。すぐにお茶の用意をしよう」

 そう言って、ヒイラギは片腕で倒れて眠ったメギを担いで二階の階段を登って行った。残されたイチョウはクコを座り込んだ床から立ち上がらせ、近くの椅子に座らせた。指先が冷え切っているのと、力が加えられないので何もできずに椅子で背を丸くしていた。

「あれも、加護でしょうか......?」

「おそらく。でもおかしい」

 クコはイチョウを見つめて、ただ黙って続く言葉を待った。

「加護は独善的なものでなければならない。腕のない人が隣にいたって、単純に腕は生えてこない。まして俺たちのように加護とは何で、何に使うべきかを示されていたわけではない。あの近衛や町の人、そして本人は加護を役立たずと考えていた」

「......、腕を生やす事がメギさんの最良となるのは何故か、という事ですね」

 クコの口は階段をソールが鳴らす音を聞くとゆっくり閉口した。

「メギさんは?」

「眠っているよ。そのうちに痛みで起きるだろうけど」

 階段を降りて、ヒイラギはお茶の準備をしながら答えた。部屋に煤の匂いとお茶のハーブの香りが通っていく。どちらも片方だけでは耐えられない。どちらかに意識を傾けていると辛いものがあった。

「腕の痛みですか?」

「腕が生えるには痛みはほぼないらしい。熱と目眩だけ。メギは腕が生える奇病を痛みで制御させているんだ。その為に指輪を付けている。指輪には特別な仕様がしてあって、付けた痛みで腕が生えてこないようにできたらしい。メギはそれ以来眠れなくなって、ああやって倒れるように眠るんだ」

「馬鹿な」

「信じられないことばかりだろう。でも事実なんだ。存外人とはそう言うものだね」

 ヒイラギは同意を求める目色で語った。

「僕は彼女の加護に縋る。でも加護がなくなれば良いと思う。どちらも本心だけれど矛盾する。どちらかを叶えると、どちらかが成り立たない。不思議な話だ。辻褄合わせの為に神さまが居てくれたらどんなにいいだろうな。この腕が無くなった日から僕は正しくない道を進む。怖がりだ」

「......、どうしてそんな話を俺たちに?」

 イチョウは背筋が凍りついたように、口だけを動かした。問われたヒイラギは少しだけ笑った。嘲るようで、目深に疲れが見えた。

「懺悔、かな」

 弱い自分を誰かに許して欲しかった。

 それはイチョウやクコではなくて、別の人。その人に言えない事を罪とする。

「......それはーー」

「行こう、クコ」

 クコが喋り出したのを制するように、イチョウは椅子から立ち上がった。

「え?」

「俺たちは目的を達成できた。ヒイラギさんだって、メギさんの看病がある。とにかくもう、終わりだ」

「......はい」

 クコはそれから黙って身支度をした。ヒイラギはそれを何も言わないまま、椅子に座ったまま見送った。ゆっくりと扉が閉まる。ドアの合間から、クコだけが少し頭を下げた。

「急にどうしたのですか。メギさんにご挨拶もしたかったです」

 歩き出して少ししてからクコがイチョウを見上げて聞いた。フードを外したままだった。

「この国を離れる時に挨拶くらいするよ。それに、そうじゃない。そうではないんだ」

 そう、ではない事がクコは何か見当がつかない。

「あの人は変わる気がないじゃないか。メギさんが変わるのを怖がっているんだ」

「変わるって腕に? そんなもの皆怖がります」

「神さまは変わる力をくれたはずなんだ。独善的で献身的な加護は、いずれメギさんを何かにする。それが彼女の一番だ。彼女と彼はもう変わってしまったんだよ。元通りに要人とその護衛という立場になれないのをメギさんはわかってる。だから加護が力を出した。それをずっとヒイラギさんは負い目を理由に職務に就いたままだ。悪趣味だろう。途中で願いを奪い続けるなんて。作為的でないだけで、あれは俺たちの国でやってきたものと同じだ......!」

「......、そうかもしれません。でも、二人の関係を変えるきっかけがなければならないのも事実です」

 少し足早になった歩調を止めてイチョウがクコに振り向いた。目色は嫌悪に満ちている。

 クコの悲しいものだ。いつも間違っていなくて、正しくない。

「きっかけなんて無くたって、言わなければならない事くらいわかるだろう?」

 クコは間違いのないその問いが苦手だった。心無いような物言いで組み立てられるから、筋だけ通って扱いにくい。

「その通りだから、きっかけをメギさんが、ヒイラギさんが欲しがってたのです。後押しすべきと言いませんが、どうして理解に苦しむのですか。懺悔するほどに誰かに歯車を動かして欲しいと求めていました」

「それが俺たちだっていうのか」

「そうなっても、よかったと思います」

 クコは言ってから、深くフードをかぶる。言いすぎたと全て言った後に思った。

「そこまで誰かの為になったら、駄目なんだ。旅路の途中にそこまで思ってたら、何回心を砕いても足らない。全てはメギさんやヒイラギさん、自分しか決められないんだよ。お前じゃない」

 クコは心がバラバラになりそうだった。頭の奥が痺れる。無残な花をみたような、砂の城が崩れたような、呆気ない心地。

「お前が自分じゃない限り、そんな事がわかりはしないんだ」



 他人を閉口させるのが僕は得意だ。きっと、素振りや見切りなんかよりもずっと。

 扉が閉まるのを僕はただみていた。何かを待っていたわけではないけれど、ただ僕はずっと閉まって動く予兆も無くなるのを待っていた。バタンと閉まって、風と炎の音が部屋に無造作に広がった。遠ざかる足音が妙に騒がしい。

「.......何を期待していたんだろう」

 きっかけとはなんだろう。何が有ればいいと言えるだろう。僕はいつか貴方との関係に終わりがある事を知っているから、その終わりまで僕は動かない。きっかけがなくったって、結果は変わらないのなら僕は静かにしているはずだ。

 けれど、もし誰かが僕の身体を乗っ取ってくれたり、逃げ道を塞いでくれたら、貴方に何か言えるだろう。じっと耐えれば、止まったまま。

 貴方と僕は今から何も変わらない。

「......」

 メギの様子が気になり、僕は椅子を立ち上がる。ぬるいお茶を持って、メギの部屋の扉の前に向かった。

「.......メギ」

 貴方をメギと呼ぶ様になる前に崩れてくれよ。

 何もかも違うんだ。僕の思いとメギの思いは上部の答えが全く同じ。だから僕らはお互いを知りたくない。それだけが同じで、全ての答えを歪めていた。結果が狂っていく。

「ああ、どうして」

 扉の前に立つ。止まない感情が僕を少しずつ支配していく。静かにできないのは、僕とメギが変わってしまったから。

 メギが変えたいと願って彼女にあれを見せたのなら、僕は変えたいと思って彼に語ったのだ。

 あれは懺悔ではない。きっかけが欲しかった。

「.....、ヒイラギ」

 扉を開く先にメギはベッドから上半身を起こしていた。ぼんやりとした目蓋で僕をみていた。

「調子はどう?」

 ベッド脇のスツールに置きっぱなしの本をどかして、僕はそこに座った。お茶のカップを渡すかちゃかちゃとした音だけが、会話を繋いだ。

「ありがとう、ヒイラギ。クコさん達は?」

「日を改めるそうです」

 言葉は何と紡げばいい? 

 誰も答えを知らないこれからに、思いを何と馳せればいい?

「メギ」

 聞きたいことがあるんだ。

「あの時なんで、つまり、僕が腕を......。いや、もっと前」

 輩に襲われた時に、どうして刃物の間合いを見て、何も言わなかったのか。どうして川向こうからこちらへ逃げる様にやってきたのか。どうして僕を続けさせるのか。

「いや。さっき、どうして彼女に腕を見せた? いや、僕の、僕の話を聞いて」

 言葉がこんなに震える。どうして何も言えないんだ。メギの事を知るのが怖かった。何もかも。

 僕たちは最悪を分かってる。

「メギの話を聞けば良かった。ずっとそう思っていた。あの時、メギが言おうとした事を」

 メギは何を思うだろう。

「ずっと、後悔していた。今もしてる。僕は君に酷い事をしてる。わかってる。自分の為に、君に酷いことをした。君は、僕といるから、奇病になる。でも、メギは僕の何にもなれないんだよ」

「......」

 僕はきっとメギにすごく酷い事を言っている。でも僕を見たら、メギは何も言えないに違いない。兵士が情けなく、眉を下げて声を震わせ、今にも泣きそうなんだ。

 こんなにも僕は閉口させることが得意だ。

「メギ」

「ヒイラギ」

 メギの顔が見ることができない。

「ヒイラギは耳が悪いよ。私の声をちゃんと聞いて。顔を上げて、私を見て」

 メギのその顔を見た。怒っているわけでもなくて、泣いているわけでもなくて、何もかも感じられない顔だった。

 メギの事が一番わからない。

 僕はどんなふうに君の顔を見てるだろうか。君の望むものを見れているだろうか。

「こんな事をずっと続ける気は無かったんだ。いつか終わってしまうから、私はいつかを待ってしまった。......、私、きっと変わっちゃう。それでも続ける?」

 諦めたようにメギは泣いていた。今までの分も含めて、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。俯いたせいで、滴はすぐに掛け布団にじわりと広がる。

「続けて」

 言わなければならない。最後に僕がどんなに後悔しても、今のメギがどんなに苦しんだとしても、こうしなければならない。

 誰かを傷つけるのならば、自分が傷つく事は厭わない。

「あの日死のうと思ったよ」

 それは僕が守らなければならない人の、たった唯一守れないものだった。その感情こそ僕が最も恐ろしいと思うもの。僕を無意味なものになり下げ、メギを喰い殺せる唯一のもの。

「ヒイラギが来てから私はそう思う様になった。若く未来ある人が私の元に来るなんて、なんて不幸かと。要らないと散々言っていたのに、どうして君を私に寄越したのだろうね。若さとは捨て去らなければならないものだから、君が私の隣にいるなんて事は酷い話なんだよ。そして何より、君が不出来だと言われるのが一番許せなかった」

 一般的な認識は、世間の目が痛い加護持ち様の護衛は願い下げの仕事だ。

「そんな事ない僕は不出来です」

「耳が悪いね。私はヒイラギが不出来ではないと言ったんだ。違えないで」

 メギは息を詰まらせながらも、僕に声をかけた。

 僕はそんなことをメギに言わせたいわけではないのだ。ただ僕はメギの思う通りではないのだから、それが僕をこんなふうにさせる。謙遜でもなく、誰も僕を違えさせない為のもの。

「だから。ヒイラギ、ごめんなさい。君がそうなってしまったのは私のせいだ。私が死のうとしなければ、きっと、腕を無くす事はなかった。君は私を庇ったのだ。生かしてくれた。だから君が失望させるのが恐くて言えなかった。護衛するべき要人が死にたがりだなんて、こんなに無意味な事はない。こんな自分が白日に晒されてしまうのが恐かった。加護を受けたのにも関わらず、私は死を考え、それでいて他から承認を欲しがって、そして君を傷つけた。こんな私はどうして君に守られる要人でいられるだろうか」

 メギの望みを叶えて、僕の望みを叶えることはできない。どちらか一方だけが答えとして出されて、ずっとメギは僕の望みを叶えていた。

「........」

 言葉が出てこなかった。僕の守るべき人はこんなにもそれを望んでいなかった。

 喉に蓋が閉まったように何も言えない。その上から重しがいくつも乗せられているかのように身体は重くなっていく。メギは僕の目の前から消える事を望み、それを僕が阻んでいた。

 理解できないのは、メギが加護持ち様だからだろうか。僕はメギが違う生き物だと知らされるばかりで、どこまでが同じかがわからない。僕とメギは本当にこのまま話を続けて良いのだろうか。

「私は君を傷つけた。一生その腕は生えてこない。あの瞬間に私が生を諦めたのを君は許してくれなかった。これは私の罪だ。私はヒイラギに二度と兵士をできない身体に変えた。君を兵士として誇って欲しいと望んだはずだったのに」

 僕は首を振った。

 精一杯の感情だった。

「違わない。だから私達はずっとお互いを利用できたんだ」

 本心を隠し、僕への罪悪感で腕を生やしたメギ。メギを使い自分の経歴を求めて、認められたかった僕。相手を傷つけていると分かっていながら、僕とメギはそばに居た。

 そして相手を使った。

「腕を無くした時にはもう、私は君と正しい形を辿れなくなった。この腕が生える苦しみも全て、君に向けた私の思いだ。だからもう、楽にして」

 メギが指輪をはめた手を伸ばした。僕の前に差し出された右手の中指のリング。装飾も何もない、ただの金属の輪に針が輪を貫く様に刺さってる。

「もう、私はこのままではいられない。いたくないんだ」

 メギが何になるのかを僕は知らない。でもそれになった方が良いのだろう。それがメギの望む事の一番で、僕の望まないことの一番だ。

 だから、僕ができる事をしなくてはならない。心が砕けたら、誰が元に戻してくれるのだろうか。

 僕一人ではもう戻せない。

「......う」

 慣れない痛みがメギを渦巻くのか。目蓋を下ろして、ゆっくりと揺れていた。何かに振り回されるのを必死に保とうとする様だった。

 僕は指輪の針を抜いていく。痛みがない様にしたいけれど、僕は人を刺したりした事が一度もない兵士だ。痛くない方法も知りはしない。

「あ」

 針が抜ける。そこから溢れる血液がメギは生きていると知らせる。ぷくりと血の玉ができたかと思うとすぐに割れて指を輪の様に滑ってシーツを赤く染めていく。僕はそれだけで目尻に涙が溜まった。

 僕は何ができるのだろうか。

「......メギ」

「うぅ、うん?」

 グラグラと揺れながらも、メギは僕の呼びかけに応えた。メギがまだいる。もうすぐ、全てが変わる。

 きっかけとは一瞬ではなく、次々と現れる。

 メギに触れた指先にじわりと血が溢れていく。中途半端に温かい人の温度を感じる。

「メギ、メギ。僕はメギの友人だよ」

「そっか.......。ああ、良かった」

 メギが呼びかけにこちらを見た。メギの目色がわずかに和らいだ。

「さよなら、ヒイラギ」

 僕は言葉を返せなかった。そしてメギの指先から指輪が離れた。手の震えが止まらなかった。頭の奥底まで、今この一瞬のことしか考えられない。

「......、え」

 指輪が指先から抜けたと同時に、メギがはじけていった。氷が溶けて空気の中に混じっていくのを、とてつもない速さで見せられたようだ。一瞬だけ熱気が顔に当たった。それは部屋に広がり、窓を揺らし外へ抜け出た。今までそこにいたメギは蜃気楼で何もかも僕の見ていた幻だと思わせる。

 僕の手にある指輪と滴る血だけが、メギが居たことの証明だった。誰にも上手く伝える術は無いのだろう。文字通りメギは無くなったのだ。僕は呼吸をするのも忘れて君の温度がした血が乾き出していることに目を向けた。

「何、が?」

 頭が追いつかない。指先が触れて、血液さえも少しずつ僕の元から色だけを残して、形を消そうとしている。君を知った僕だけが残された。

 僕は片腕の要人すら守れなかった衛兵だ。

「僕は何ができるのだろう」

 残された人は孤独だ。

 答えがわからない沢山の問いを永遠に突き付けられる。それを解かなければならないということはないが、そうしなければ消えた人がもう二度と戻らない事を思い知らなければならない。それを受け止められるまで、僕は君の問いの答えを考え続けるだろう。そして、僕はそれが陰鬱だと分かってる。

 けれどそれが、メギが僕にくれたできることだと思う。そうだと良い。

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