vs蛸壺5
壁ドン、というものがある。
本来は単純に、壁に手のひらを打ち付けて音をならす行為のことだったが、転じて、壁に追い詰めた相手の顔のすぐ横を掠めて壁を殴るという、脅迫ないし威嚇行為を指すようになった。
しかし、この暴力的で否定的な印象しか受けないであろう壁ドンを、愛情表現の一つとして受け取る女性の存在が、人間の中に確かにいた。
推論では、壁ドンによって発生する恐怖や緊張を、恋愛による胸のトキメキと勘違いしている、あるいはそれ以上の暴力行為を止めてもらうために屈服する一種の防衛本能だ、などと言われていた。
それを信じ、ひたすらに壁をドンする愚か者はどの世界にも存在していた。
まさしく狂気の所業、なれど狂気失くして大業はあり得ない。
ただの愛情表現の皮をかぶった脅迫行為は、殺傷力を得るに至った。
それを放つべく、高周波の中、オワリは構える。
立ち振る舞いはあくまで自然体、軽く曲げた膝に若干前かがみの姿勢、一方で右手のみ極端に、肘を曲げ後方へ引き絞り、手首を外へ捻って小指をそのわき腹に軽く添えて構えを取る。
……これを放つために決まった構えは存在しない。
ただその時、状況、体調、相手に応じて最速最短でドンできる体制が正式な構えとされる。
合図は、高周波の弱まる瞬間、オワリ、吹っ飛ぶ。
残像すら残さない圧倒的加速、美しく鍛えられた四肢が駆動する最高速度、筋線維一本に至るまで体全てを連動させて、右掌を鋼鉄の扉、壁へと打ち付けた。
ドン!
轟音、響く。
これは壁を叩いた音ではない。
壁と掌との間に挟まれ、押しつぶされ、圧縮されて、隙間より弾き出された空気の残響だった。
本来は、その衝撃でドンされた相手の鼓膜を叩き、脳を揺らして昏倒させるためのこすい技、壁も一枚しか突破できていない。
しかしオワリの全力をもって放てばそれはソニックブーム、空気は音速を超え、昏倒どころか脳を残りの体ごと粉砕する。
それは、壁に張り付く美男美女の触手にも有用だった。
ドンの木霊が収まるとほぼ同時に、まるで殺虫剤をかけられたゴキブリのようにボドリボトリと落ちてくる。
彼らはみな、四肢が捻じれ、触手が千切れて、動くものも音を発するものもいなくなっていた。
「っっっっっっっっっっぁぁぁぁぁ!!!」
その静寂を代わりに埋めるように、オワリが声なき叫びをあげてその場に跪く。
滅多に見せない苦悶の表情で抱きかかえるは右の腕、そこには隠し切れないダメージが見て取れた。
赤く腫れあがった腕、紫にまで変色した指、全身からは汗が吹き出し、呼吸はひたすら荒く、喘いでいた。
エロい。
しかしこれは、至極真っ当な結果だった。
壁ドンは本来、その体を異形にまで鍛え変えて初めて放てる技なのだ。それを、いかに鍛えていようと女の細腕ではこれが限界、まだ一枚しか突破してないとしても、成功したのが奇跡なのだ。
なのに無理して、こんなに弱って、いたずらするなら今が格好のチャンスだ。
突如として舞い込んだ欲望に蠢く私を祝福するかのようにギギギと耳障りな金属音が響く。
何か? 見上げればドンした金属の扉が、ゆっくりとこちらに倒れてだあああああああああああ!!! 潰れる! 潰される! ぺしゃんこになる! 逃げ! 逃げないと! あ! 落ちた美女のパンツが頑張れば見れそう! 生足! 触手邪魔! 影! 潰される! 逃げ! オワリ!
私をひっつかみ、転がるように走り出すオワリ、これまでに比べたら遅く、逃げ切るにはぎりぎりの速度、最後つまずきながら、鉄扉より逃れる。
バフン、とオワリほどではないが挟まれた空気が大きく流れ、同時に下敷きになった美男美女と触手とがスルメになる音が確かに響いた。
間一髪だった。そうだこれこそがつり橋効果、壁ドンではないが心が急接近するには十分すぎるイベントだ。邪魔者はいなくなったし、傷をいやす意味を込めて、と行動する前、オワリは空くりと立ち上がった。
「……まじ、かよ」
一言、呟いた向こうは鉄扉の向こう、新たなステージ、そして触手共がなんやかんやしてた先、緑だった。
色の話ではない。
自然の、植物の、今は失くしてしまった草木が、そこに広がっていた。
痛みも忘れ、私も忘れ、オワリ、ふらりと立ち上がると、それでも右手を押さえながら、催眠アプリに引っ掛かったみたいに奥へ中へと入りこむ。
踏んだのは芝生、その上を飛び回るのは小さな虫、中には黄色や白の花もあって、形は不ぞろい。本物に見えた。
左右には森、には乏しいが林と呼ぶのには十分な量の木々、天井は丸く遠く、ここがドーム状で、灯りはそこに吊るされたライトからだとわかる。
どこからか風が流れ、オワリの汗に湿った髪を弄ぶ。
そして真正面には、薄い青色を基調とした、流線形の、まさに未来を体現したようなデザインの館が、ほのぼのと建っていた。
どうやら私とオワリは鉄扉に押しつぶされて異世界に転生してしまったらしい。
「ここ、だったんだ」
オワリの、まるで子供のような声、浮かび上がる笑顔は、この上なく素敵だが、エロくはないので止めて欲しかった。
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