第五章 大迫孝江の物語 或る日の温泉
温泉旅行のお誘い
マルス移住から五年がたちました。
愛する康夫さんが、若くして不慮の事故でなくなって二年、少し落ち着いてきた孝江さんに、温泉旅行のお誘いが……
孝江さんは義妹になる、富田沙織さんの勧めで参加することにしたが……
* * * * *
マルスのトウキョウシティ、ささやかな高層マンションの一室に、旧姓大迫孝江は住んでいました。
表札には今でも富田康夫・孝江とあります。
夫である康夫さんは、家業の富田貿易合資会社で、専務として働いていました。
テラの南米地区との貿易の交渉責任者として小笠原に出張し、接待でもある釣りに出かけたところ、乗っていたクルーザーが一発大波に巻き込まれて沈没、帰らぬ人となったのです。
あれから二年、やっと気持ちも落ち着いてきた頃、久しぶりに、仁科雅美さんから電話がありました。
雅美さんは、今ではナーキッドオーナーのメイドとなっていますが、華族女学校の同級生で、薙刀部も同じだった親友です。
忙しそうにしている雅美さんでしたが、どうやら休暇をもらえたようです。
「孝江さん、元気にしてらっしゃる?」
「なんとかね、幸い仕事も忙しいし、そちらは?」
「マーキュリーステーションの管理官府で、事務しているけど、のんびりしたものよ」
マーキュリーステーションというのは、ソル星系内惑星鉄道の、水星にある小型のステーション。
簡易貨物鉄道として設置された、ソル星系内惑星鉄道でしたが、旅客兼用路線となり、ステーションも保線用緊急退避ステーションから変わったのです。
「どうりでルナナイトシティで会わないわけね、ときどきルナナイトシティの管理官府に行くけど、いつもいないからどうしたのかと思っていたわ」
孝江は夫の勤めていた富田貿易合資会社に勤めて、ルナナイトシティにも、時々出向いていたのです。
「半年前に辞令が出たの、でも軍事鉄道のことは機密でしょう、やっと一般宇宙鉄道になったから、こうして貴女ともしゃべれるのよ」
ソル星系内惑星鉄道は、つい先ごろマルス文化圏の住民、つまり一級市民に開放されたばかりです。
もっともまだ許可制ではありますが。
「大変そうね、で、トウキョウにはどれくらい居られるの?」
「二週間なの、丁度、高倉先生も休暇で、私と六日ほど休暇が重なるの」
「でね、高倉先生と貴女と三人で、華族女学校薙刀部のOG親睦会なんて、いかがかと思っての電話なの」
「六日ね……いつから?」
「来週の月曜から土曜日までだから、真ん中の三泊四日になるけど」
「来週の火、水、木、金ね、有給が取れるか、会社に相談してみるわ」
それからとりとめも無い話をして、電話は切られました。
電話の向こうでは雅美さんが、もう一人の女に報告しています。
「会社に相談してみると……」
「ならOKね、富田貿易合資会社には、沙織さんから有給が取れるように根回しされているし、華宮さんも首尾を気にしていたから」
「じゃあ宿のほうに、一人増えたと言っておくわ」
「お願いします、高倉先生」
もう一人の女とは、高倉雪乃さんでした。
「有給?それはご自由に、働くものの権利ですから」
富田貿易合資会社の、総務部人事課の、ありがたいご意見でした。
「お義姉さま、行かれることをお勧めしますわ、たまにはお友達と楽しく過ごされては?」
「温泉なのでしょう、三泊四日?今から旅行準備の買出しに行きましょう」
自分が行くわけでもないのに、テンションが高い沙織さん、
「だってね、女は買い物が好きなのですもの、それにお義姉さまはお綺麗、もっと磨かなければ、新しい恋も生まれませんよ」
「私は……」
「康夫兄様への義理立ては十分です、人は明日に生きるもの、昨日には涙を捧げればいいのです、もっとも美子様のお言葉ですけど」
「……」
なにもいわない孝江さんでしたが、美子さんの名前を久しぶりに聞いて、結婚前の夫とのデートのときの、ある出来事を思い出したのです。
デート中に美子さんに見つかり、強引に呼ばれて二人の仲がバレたのですが、そのときお祝いとして、美子さんが髪につけていた、ヘアクリップをいただいたことがあるのです。
プラチナ製で、小さい人造イエローダイヤモンドが一つはめ込んであり、お祝いの言葉とともに、美子さんが髪につけてくれたのです。
以来、孝江さんはよく髪につけています。
「幸せになって下さいよ、でしたね……」
美子さんがヘアクリップを髪に付けてくれながら、耳元でささやいた言葉を、思わず呟いた孝江さんでした。
「さて、温泉旅行準備の買出しに行きましょう、沙織さん、ご一緒してくださるわね」
そうして、三泊四日の温泉旅行に、参加が決まったのです。
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