第6話   繋がらない電話

 風呂から上がって、濡れた髪をタオルでがしがし拭きながら、部屋の電気を点けて、宿題をするために机に座った。ペンケースからシャーペンを取り出して、いつも通り、黙々と取りかかった。


 後ろの壁にかかった時計の針だけが、カチカチと音を立てて、ときおり俺の意識を、窓の外へと向けた。アパートの三階の、この部屋の窓から見えるのは、閉店してしばらく経つ、コンビニと寂しい駐車場。

 

 ぼんやりと眺めていると、ふと思い出した。今日一日の出来事を。主にう〇こに振り回されていた時を。


『本日のあんちゃんは役割を終了いたしました〜』


『自宅にこもって悶々としながらメシ食って風呂入って宿題して寝るんや』


 あの憎たらしい顔、思い出すだけで腹が立ってきた。それなのに、さっきまですっかり忘れていた自分がいる。今日一番、腹が立ったことって、よっぽどイイ事がないかぎりは普通忘れないよな。


 納得いかない。このままぐっすり眠れるわけがない。


 風呂に入ったときに、あんなにう〇こに痛ぶられた体のどこにもアザができていなかった。赤く腫れてもいなかった。だけどあのとき感じた痛みは、本物だった。


 道路に放り出され、目の前にトラックのバンパーが迫ってきた、あの恐怖心も――トラックが自分を貫通していった感触が蘇ってしまい、風呂上がりだというのに、体の芯が冷える思いがした。


 このまま、あの自称カピバラう〇この言うとおりに、なってたまるか。俺は悶々としたままじゃ引き下がらないぞ。


 ちょっと遅くなったけど、アンリに電話しよう。こんな夜中にどうしたの、って心配させるかもしれないけれど、俺もあいつが心配なんだ。


 俺は机の上で充電している、スマホへと手を伸ばした。充電器とつないだまま、電源を入れる……あれ? 点かないぞ。


 電源ボタン、間違えてないよな、このボタンだよな……あれ〜、何度押しても、画面が点かない。まさか、スマホが、壊れたのか? うっそだろ、これ買い換えたばっかだぞ。


 あー……ダメだ。何度押しても、反応しない。マジかよ、ウソだろ? さいっあく……。


 うちの固定電話を使うか。あー、なんだか、だるくなってきた、体が重いぞ、なんでだ……。


 部屋を出て、暗い廊下の電気を点けようと、壁にあるスイッチを押した。……あれ? 点かない。

 うそだろ、ブレーカーが落ちた?


 あ、そうだった、メシんときに母ちゃんが、廊下の電気を明日買い換えるとか言ってたっけ。ああびっくりした。原因がわかれば、なんてことはない。


 俺は壁に片手をつけながら、真っ暗な廊下を歩いていった。ああ、あった。電話のボタンと、電源が入っている証拠である小さなライトが、あと数歩したら手の届く位置で光っている。


 指先をのばして、触れた固さに、ほっとする。電話は確かにここにあり、俺も確かに、ここにいる。……こんな些細な事に安堵するなんて、俺はそうとう参っているようだ。


 受話器を片手に持って、うっすらと淡く光っているボタンを押す。アンリの番号は、ヘンな語呂合わせみたいになっていて、覚えやすいから暗記してしまっている。


 無言で一つ一つ、押してゆく。あいつが出たらなんて言おう、とか考えていない。とにかく、無事か、元気そうか、それだけが声で伝わってくればいい。我ながらキモすぎだが、どうしても、あのう〇こを幻覚だと思えないから、しょうがない。


 耳に受話器を当てて、ふと気が付いた……受話器から、なんの音もしないことに。ボタンを押したときの音は鳴るのだが、その後は、うんともすんとも、なにも聞こえない。


 えぇ……うちの電話も、故障したのかよ。ガチでヘコむわ。タイミング悪すぎだろ、こんなん。


 あー、どうすっかな……ついクセで、髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き上げてしまう。こんな真夜中に、ご近所さんの電話なんて借りられないし、この近所にはダチもいないしなぁ……。


 ……はぁ、もうどうでも良くなってきたぞ。わけわかんない事ばっかり起きて、くたびれてきたのかも。俺ってこんなにメンタル弱かったっけな。あー、もうそれすらもどうでも良くなってきたぞ。


 宿題もまあまあ終わったし、明日俺が授業で当てられる問題は解いたから、もう寝ていいかな。


 あの悪夢も、俺のスマホが壊れてるのも、うちの電話がおかしいのも、寝れば目が覚めて、全部なかった事になるのかな。寝ると起きるってのも、矛盾してるけど、もうそれに賭けるしか、この不可思議な現象に自分の頭を落ち着けることができない気がする。


 きっと明日には、笑顔でいつものアンリに会える。学校もいつも通りで、ダチと飯食って、俺は帰宅部で、でもたまに部活の助っ人に呼ばれて、帰りが遅くなる。そんな毎日が、きっと待っているんだ。


 うん、そうだ。もう寝よう。


 俺は真っ暗な廊下を戻っていった。今度は少し慣れてきて、壁に手をつかずに部屋に戻ってきた。俺はベッドに寝転がって、天井の電気から垂れている紐を掴んだ。


「じゃあな、ヘンな夢。俺はいち抜けたっ」


 電気の紐をリズム良く引くと、いつものように部屋が暗くなり、俺は目を閉じた。もう絶対に、目覚ましが鳴るまで、まぶたを開けない……つもりだったのに、肝心の目覚ましをかけるのを忘れて、けっきょくまぶたを開けて電気を点けて、床に置いていた目覚ましをセットしたのだった。


 ここにあのう〇こがいたら、これだから当て馬は、とか言ってくるんだろうな。大きなお世話だっつの。


 さて、もう寝よう。今度こそ本当に、俺は一抜けた。


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