第2話 外へ
試験当日、命は自室を全て片付けた。また、前日に管理政府が運営している不動産会社と解約した。
服装は私服でいいとのことなので、家にあった黒のブラウスとジーパンを着て、パソコンと受験票が入った小さな鞄を持った。
玄関のドアを締めて空を見上げた。まだ霧がかかったような薄暗い空に僅かながら琥珀色の太陽の光が差し込んできた。いつもより作り物の空が広く感じられた。
命は静岡県出身なので、管理塔の『フロア静岡』という場所に住んでいる。どのフロアにも中心には大型エレベーターがあり、そこで他のフロアへの行き来をする。
大型エレベーターに着いた命はイブの職員と思われる男性に受験票を見せた。イブの職員は管理塔に滞在する時は普段着を着ている。やはり管理政府に見つからないようにするためだと思われる。
「本土調査の方ですね。どうぞお入り下さい。座席は自由ですので空いている席に座って下さい」
職員は試験の日程が書かれたプリントを命に渡した。
『本土調査』というのはあくまでも隠語にすぎない。非営利団体が日本列島の自然保護のために調査隊を派遣しているという設定であるらしく、イブはこの内容含んだ嘘の申請書を管理政府に提出し、一応許可はされているらしい。
朝の四時とはいえ、油断は禁物だ。どこで管理政府の関係者やその賛同者が聞き耳を立てているか分からない。
命は大型エレベーターの座席に座った。学校の教室のように座席がところ狭しと並んでいる。周りにはイブの試験に志願したと思われる人たちが大勢座っている。イブに入隊すると衣食住が無償で提供されるらしいが、やはりその影響だろうか。
その顔つきから大半の人間が『世界の平和』とか『アメミットの絶滅』などが目標で志願している訳ではなく、自身の生活の『安定』が目的なのだろうと命は思った。
エレベーターが重たい音を立てて動き出した。フロア静岡は水深の深い場所にあるので、地上の港に到着するにはかなり時間がかかる。
また他のフロアにも志願者は居るので、途中停車しながらエレベーターは港へ向かうのだ。
ふと、隣に目をやると命の席の左に白髭をたくわえた老人が腰掛けていた。老人は全身真っ黒の服装で、命は少しだけ不気味なものを感じた。
老人は、なぜか早朝に大人数がエレベーターを利用しているので神妙な表情をしている。たぶんこの老人は志願者ではないだろう。
「あの、今日はなんでこんなに人がいるんですか」
老人は命のもう隣に座っていた青年に尋ねた。命と歳はだいたい同じくらいである。
「えっと、今日は試験、いやあの、『本土調査』ってやつで」
青年は答えた。『試験』という単語を口にしてしまい、あたふたしている。
「試験ってなんですか」
「あの、『本土調査』っていうのがありまして、そこで、えーそうですね、樹木の試験を行うんですよ」
「なるほど、みんな管理政府の方ですか」
「んーまあ、そうです」
動揺しているのか、青年は驚くほど早口になっている。目があまり良くない命にも、大粒の汗を垂らしているのがよく見えた。
「へえ、管理政府は日本列島の保全にも力を入れていらっしゃるのですか。さすが我らが管理政府ですね」
老人は典型的な管理政府の信奉者であった。こういう人間はかなり危険である。
エレベーターが一階上フロア愛知に到着した。また続々と志願者が乗ってくる。
老人はゆっくりと立ち上がり、エレベーターから降りていった。それと同時に焦っていた青年は手で口を覆いながらため息をついた。
「あの、大丈夫?」
命は青年に近寄って声をかけた。命が座り直したさっきまで老人が座っていた席は少し暖かく、蝋燭のような焦げた匂いが漂っていた。
「はい、突然訊かれたから怖くなっちゃって…」
「まああの老人、勘付いてなさそうだし問題ないよ」
と、命は青年をフォローした。人と対等な感じでこんな風にコミュニケーションをとるのは久しぶりだなぁと思った。
それからしばらくして命は特にその青年と喋ることはなかった。長い間まともに人と話さなかったせいで次の言葉があまり頭に浮かばない。脳みそがだだっ広い空間になってしまい、そこが風車の如く回っている、という感覚がここ最近多いのだ。やはりコミュニケーションは適度に直接行わないといけないようだ。だが違うような気もする。忘れたい出来事があったのか、自分が今まで何をしてきたのか、それすらよく分からない。
「はい、管理塔地上部に到着しましたので本土調査の方はここから第七港に移動します。私についてきて下さい」
イブの職員は大声でそう言って赤い三角の旗をあげた。旗には黄色の文字で『本土調査』と記されている。この旗が先頭の目印になる。
エレベーターのドアがずるずると開いた。そして旗を持った職員を先頭に志願者はエレベーターから降りていく。
命はエレベーターから降りて、三年ぶりに本物の空を見上げた。本物の空は曇り空で、雨が降りそうな空模様だった。しかし晴れだろうが曇りだろうが雨だろうが作り物の空より断然ましである。命は「空ってこんなに広かったっけ」と思った。
命はムカデのようにできている列に従って歩いた。エレベーターのある場所は円の中心で、そこから半径を描くイメージで港に向かうことになる。半径とはいえ、とんでもない面積の円なので港に出るだけでも時間がかかると思われる。
裏ネットの情報通り、地上部はガラの悪い繁華街になっている。チカチカと点滅するピンクの看板や、入口がやたら狭くタバコ臭そうな店がぎゅうぎゅうに並んでいた。さらにところどころ全身黒塗りの教会が建っていたりと気味が悪い。教会には大きな文字が書かれた貼り紙が貼られていた。
民間人は地上部には立ち入りできないためここに民間人はおらず、大半は危ない世界の住人だと裏ネットに記載されていた。おそらくここで闇の取引や売買が行われているのだろう。
「うぅっ…」
後ろで歩いていたさっきの青年が手で口をおさえてしゃがみこんだ。青年は顔が真っ青になっており、今にも吐いてしまいそうだった。列が少しだけわらわらと停滞する。この繁華街はドブと悪趣味な香水が混ざったいびつな匂いなので吐き気が押し寄せてしまったのだ。
「おい、大丈夫か?立てるか?」
命はうずくまる青年と同じ目線になって背中をさすった。
(近くにトイレはないかな…)
命は人が行き交う繁華街を見回した。すると錆びてボロボロになったトイレの看板が路地裏にぶら下がっていた。
命は列を抜けて青年の肩に手を回して、トイレに向かった。どうやら【ピンクバーバラ】という店のトイレらしい。
そしてトイレに駆け込んだ。豪華絢爛に見せかけた店の裏はとんでもなく汚かった。得体の知れないゴミやヘドロが床や手洗い場にとりとめのないくらい染み付いていた。
青年は下を向きながら便所のドアを開けて鍵を閉めた。我慢の限界だったのかすぐに嘔吐してしまった声が聞こえてきた。
(にしても酷っでえ匂いだな)
命は心の中でそう呟き青年が出てくるのを手洗い場の近くで待った。こんな場所の下に住んでいたと知り、絶望した。
すると誰かがトイレに入ってくる音がした。その足音はずんずんと重く、数人いると思われる。
色黒の男が四人も入ってきた。いずれも大柄で、腕には虎や風神などのタトゥーが入っている。すると四人の男は命をぎろりと睨む。
「ん?見かけねえ顔だな。ボウズ」
「ここはおめえみたいなガキが入っていい場所じゃねえんだよ。どのツラ下げて来とんじゃ!」
すると男たちは握りこぶしを作った。そして命の方へ近づいてくる。男たちは何度も悪事を働いてきたような強靭な目つきをしていた。
命は青年が入っている便所のドアの方へ後ろ向きで歩いた。
「まだ気分が優れないならもう少し吐いてていいぜ」
そう言うと命は男たちを睨みつけ、力強く腕をまくり握りこぶしを作った。
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