第3話 力餅食堂の聖夜

 会社からの帰り道、くたくたに疲れて重い体を引きずるように、俺は駅からの商店街を歩く。

 都心とは言い難いこんな辺りでも、ちゃんと忌々しいイルミネーションが一帯を支配していた。青やオレンジ、白に輝く無数の光点が、通りに並ぶ古びた街灯の柱に取り付き、侵食している。


 金も恋人も何にもない俺には、クリスマスなんぞまるで関係ない。就職して二年目、名ばかりのボーナスというものはもらえるようになったが、時空の狭間に消えて行ったサービス残業代に比べれば、そんなものゴミだ。

 どこもかしこも不愉快にはしゃぐ街の中で、俺にとってのオアシスと言って良かったのが、家の近所にある「力餅食堂」だった。

 交差した杵の図柄に「力」の文字がトレードマークの、古びた大衆食堂。クリスマスの魔の手も、ここには伸びて来ない。春でも夏でも、古びた店内の様子はいつだって同じだった。


 使い込まれたテーブルの天板、足がすり減ってガタガタする椅子、いつも少しだけ遅れている時計。壁に並んだ、メニューが書かれた木札はすっかり黒ずんで、少々読み取りづらい。

 この場所で静かに天とじうどんでも食べれば、心が平穏を取り戻すのだ。


 しかし、その日。十二月の二十四日。トレードマークが染め抜かれた、紺色の暖簾のれんをくぐった俺は、思わず天を仰いだ。

――力餅食堂よ、お前もか。

 店の奥、給水機とテレビが置かれている辺りに、あの赤と緑に彩られたツリー、忌まわしきクリスマスの尖兵が鎮座していたのである。全高、約30センチ。銀紙の星が、その天辺で鈍く輝いている。


「ちょっと大将、これさあ……」

 思わず俺は、カウンターの向こうに立っている店主に文句を言いかける。

「いいだろ! ハイカラでさ。パリの大学行ってる娘がさ、買ってきてくれたんだ」

 白い調理帽をかぶった初老の店主が、目を細める。そう言われると、さすがに文句も引っ込めざるを得なかった。

 それにしてもこのおっさんに、そんな娘がいたとは。おフランス帰りで浮かれ返って、こんなものを買って来たのだろうか。


 仕方なく俺は、ツリーに背を向けるようにテーブルに座った。今夜は特別に稲荷寿司も、などとは間違っても考えない。いつも通りの天とじうどんだけでいい、当たり前だ。

 黙々とうどんを食べていると、入り口の引き戸がガラガラと開き、暖簾をくぐって、一人のお客が入ってきた。若い、女性。


 その姿を見て、思わず俺の箸が止まった。

 かわいい。幾分小柄で、色白の丸い顔も小さく、ショートボブの黒髪がつややかに光っている。瞳は大きく、口も少しだけ大きめで、極めつけには大きな赤いフレームの眼鏡をかけていた。100%、僕の好みだ。

 通りのイルミネーションを背にした彼女は、まるで天使だった。白いダッフルコートの背中に、羽根が生えていても不思議ではない。


「あれ? お店に置いたのね、お土産」

 例のツリーを指さして、彼女は言った。ということは……店主の娘なのか、この子。

「ああ、みんなに見てもらわないと。このお客さんも、ハイカラだってほめてくれたよ」

 思わずむせ返りそうになりながら、しかし僕は強くうなずいてみせる。


「ほんとに? ありがとう。じゃあわたしも、ここでツリー見ながらご飯にしようかな。オムライスお願いね、パパ」

 隣のテーブルに座った彼女は、「パパ」が作ったかわいらしいオムライスを食べながら、時々僕のほうを見つめてくれた。いや本当は、僕の後ろにあるツリーを見ていたのだが。

 これが、聖夜クリスマスの奇跡というやつなのか、と僕は神様に心から感謝していた。クリスマス、万歳。世界中の人々が、幸せになれますように。


 それから僕は毎年、クリスマスを待ち焦がれるようになった。いつかまた、あんな夜に巡り会えるのじゃないか、と。きらびやかな街に出るのも、もはや苦ではなかった。神様はなかなか、奇跡の使い方がうまいのだ。


 もちろん今でも、僕に恋人はいない。

(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る