第2話 焼かれた橋、夜を渡る船

 パッとしない彼だった。歳もわたしよりもだいぶ上で、なのに年齢相応の落ち着きとか、包容力とか、そんなものもなかった。要するに、普通のおじさん。

 ただ、ひたすらわたしに優しかっただけだ。それが大切に思えた時期もあったのだけど。


 三十代が近付いて、もっといい相手がいれば、と思っていたところに、学生時代にちょっと良い雰囲気になりかけたことのある友人の男と、街の夜景が見えるターミナル駅のスタバでばったり再会した。

 今は会計士で羽振りも良いらしく、見た目もぎりぎり雰囲気イケメンをキープしている。しかも「今、独りなんだ」と男は言った。


 これだ、運命だとわたしは思った。

 別れを告げると、年上の彼はあっさり身を引いた。それで君が幸せになれるなら、と淋し気な笑顔で去って行ったのだった。

 ただ一つ、と彼が私に頼んだのは、お互いの連絡先を完全に消去しようと、それだけだった。「橋を焼くんだ」と彼は言った。おかしな未練が残らないように、と。


 しかしもちろん、わたしは幸せにはなれなかった。

 三度目のデートですでに、「今、独りなんだ」が嘘だということが分かった。他の女と競らされることなど到底我慢できず、わたしはすぐに奴と別れた。


 独りの街は、近付くクリスマスに華やいでいた。

「橋を焼く」ことがある種の呪いであったことに、私はその時になって気付いた。

 アカウントを思い出せないことはない。しかし、連絡を取ることを、彼は二度と許してくれないだろう。あれは、そういう意味なのだ。


 年末進行で、仕事は忙しかった。失恋の痛手で仕事ができません、なんてことを言えるはずもない。そんな人間を、わたしは軽蔑する。

 だから、ひたすらに仕事に没頭した。余計なことなど考えないようにした。


 なのに、今年の二十四日は土曜日、翌日は当然日曜なのだった。

 二十三日から、全く余計な三連休。クリスマス? それが何? 子供じゃあるまいし。それが強がりなのは、自分自身が嫌というほど知っていた。


 どこを向いてもイルミネーションが輝く、こんな都会でクリスマスを迎えるのは耐えがたかった。

 半ば無理やりに、私は旅行の予定を入れた。都心に近い桟橋から出る高速船で、島の温泉へ。橋が駄目なら船という連想で、半ばやけになって決めたような行先だった。


 高速船の船室は薄暗く、出入り口の扉にお義理のようにリースが飾ってあったりはしたが、クリスマスの雰囲気は希薄だった。カップルの姿もない。望み通り、だったはずだ。

 それなのに硬いシートに座り、遠ざかる街の灯を眺めていると、涙が知らず知らずのうちに頬を伝った。せっかく、辛いクリスマスから逃れたはずなのに。

 だけど、やっぱりこれは淋しすぎる。これじゃ、あんまりだ。


 真っ暗な海を、船は進む。その闇を見たくなくて、わたしはずっとうつむいたまま、一時間を過ごした。

 時折スマホで、SNSを眺めた。見知らぬ知人たちが、ツリーの写真を次々とアップしている。一人ぼっちの人などいないだろう。やっぱりこんな旅行などやめておけば良かったと思った。


 間もなく島の港に着く、というアナウンスに、わたしはようやく顔を上げた。潮で汚れた窓を、恐る恐るのぞき込む。目に飛び込んできたのは、意外な風景だった。


 小さな港のすぐ向こうに、大きなツリーがそびえていた。青やオレンジ、白に輝く無数の光点が明滅して、窓のガラスについた塩の結晶を様々な色に染めている。

 越えたのだ、とわたしは思った。暗い海を、渡り切ったのだ。


 桟橋に着こうとする高速船の中から、わたしはツリーの輝きをただ見つめていた。メリー・クリスマス。きっとここから、わたしはまた歩き始めることができる。

(了)

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