19話 侍女と騎士
扉が閉まり部屋から遠ざかって行く足音にイリーナはもそっと起き上がる。
チラリと扉の方を確認した彼女は口についた赤い血のようなトマトジュースを手拭いで拭き取りそっとカイルの方に歩み寄る。
そしてカイルの肩に手を掛けようとした瞬間、手首を掴まれる。
「……痛いのですが?」
自身の手首を掴む相手を見ながら彼女はそう問いかける。もちろんその相手はカイルだ。
「……何をしようとした?」
尚も蹲った体制のまま、カイルはただの侍女に向けるとは思えないほど疑惑と敵意に満ちた瞳でイリーナに問いかける。
「心外ですね。別に貴方を手を掛けようとした訳ではありませんよ」
「腕に暗器を仕込んだ相手にそれを言われて信用できるとでも?」
カイルの指摘に僅かに彼女の体に力が入る。カイルを見るイリーナの瞳が僅かに細められ、呆れたように息を吐く。
「殺す気ならとっくに仕掛けていますよ。それに私程度、あなたなら片手間で処理できるでしょう?ほら、痛いのですから早く離してください」
イリーナを見つめるカイルの瞳から疑惑の色は消えないが、敵意は無くなったようだ。イリーナから手を離した彼はほんの少し気まずそうに彼女に目を向ける。
「…腕、悪かったな」
「そうですね、まあ痛かったのは事実ですので、何かお詫びでもしていただきましょうか」
その言葉にカイルはイリーナを見る、普段仮面を付けたような表情で笑うか、あるいは無表情なその顔が、にやにやと少し意地悪そうに微笑んでいる。その様子に若干の嫌な予感を覚えながら、普段はまるで本音を見せない彼女が楽しそうにしていることに心が暖まるような不思議な感覚がした。
「…なんですか。その成長した子供を見つめるような目は?」
「気にするな、他意はない」
「…馬鹿にしてるんですか、貴方は。まあいいです。それより、あまり無理はしないことですね」
「っ!……なんのことだ?」
カイルは驚きからか僅かに息を呑み、イリーナへとそう尋ねる。
(誤魔化しているつもりなのかしら?)
あのイズミ様をやり過ごした割には随分とわかりやすい反応だ。これは思ったより限界が近いのかもしれない。とイリーナはカイルの反応から彼の身体的負担がカイルの認識以上に大きいことを見抜く。
「そのような分かりやすい誤魔化し方になっているようでは、イズミ様をもう一度欺くことは出来ませんよ」
イリーナの言及にカイルは驚愕した。イズミ様すら気付かなかった自身の完璧な演技がこの程度の胸囲の輩にばれるとは思っていなかったのだ。
「…私縫い物が得意なのですがその口、縫って差し上げましょうか?
それからあれを完璧だと思っているならカイル様の詰まらなかった冗談も随分と面白くなったものですね」
辛辣なイリーナの言葉が一本の槍となってカイルの心に突き刺さる。
イリーナの言葉に衝撃を受けながらカイルは考える。自身の冗談がつまらなかったと彼女は言った。だがそんなことがあるのだろうか。これまで多くの者達を笑わせてきた(苦笑い)自分の冗談が果たして面白くないなどあり得るのだろうか。
カイルは知らなかった。世の中には心の底から笑っている笑顔のほかにも苦笑い、愛想笑いというものがあることを。
「いや、僕の冗談は常に面白かった筈だ。あとさっきのは冗談というわけではない」
「それだけ喧嘩を売っておいてよく今まで生きてこれましたね。私が終わらせて差し上げましょうか?」
額に血管を浮き上がらせながらも、尚も笑顔を崩さない目の前の女は何をというわけでもなく右腕の裾から針のように細い投擲物をその手に瞬時に取り出し構えていた。
慣れた動作であろうその動きはカイルでもってしてもその挙動を完全には捉えきれない。
間違いなくベテラン、それも暗殺のような裏の仕事に長けた者の動きだ。そのような者がイズミの、聖女専属の侍女としてつけられている。
(護衛だけが目的という訳ではあるまい)
しかし、今はそれよりも先に確認しなければならないことがある。
「…いつから、いや、何故気づいた?」
目の前の侍女はイズミ様ですら気付かなかった自身の異変に気付いていた。自分としても偽装は完璧のつもりだった。
「大したことではありませんよ。
ことイズミ様に関して言えばカイル様の偽装は完璧だったでしょう。イズミ様はその者の雰囲気や言葉の波長から天才的な勘でもって真実を見抜きますが、武芸を嗜んでいるわけではありません。私にはカイル様の挙動がいつもより僅かに精査を欠いていたように見受けられたので、どうやら具合が良くないようだと判断しただけのことです」
なんでもないことのようにいうがカイルの感想としては大したものだ、と褒めたいところである。同じ騎士の中でも今の自分の状態に気づけるのは騎士長くらいのものだ、相手の僅かな挙動の異変を察するというのは相手の動きの癖を理解していなければいけない。
つまりカイルはそれだけイリーナに観察されていたということだ。
「…なるほどな、イズミ様のことしか頭になかったので盲点だった。
しかしそれだけの技量を持つ其方をあの枢機卿がただの護衛ができる侍女に留めておくとも思えないな。……監視、後はいざという時の保険と言ったところか?」
どうだ、と言い当てだろうことを不敵に笑ってそう問い詰めれば、彼女はその能面のような無表情を呆れたような表情へと変えて此方をジト目で見てくる。
「…今の発言を仮にも他の女の前で堂々と言えるところは流石はカイル様といったところでしょうか正直、寒気がするレベルですが、この際どうでもいいです。
だいたいはカイル様の仰る通りですが、いざという時というのはイズミ様だけではなく貴方も含まれるということをお伝えしておきます。」
「…知っているのか?」
感情を削ぎ落とした能面のような表情でカイルはイズミに問う。
「貴方が昨日行ったことは粗方見ていましたので知っていますよ。その反動でも体にきているのでしょう?」
イリーナの言葉にカイルは僅かに顔を下げて、プルプルと体を震わす。その表情をイリーナが窺い知ることはできない。だが想像はつく。自身と最愛の主人を監視し、命令さえ有ればいつでも殺すと宣言され、その上主人にすら知られていない異端の技まで見られていたともなれば、その心中はさぞ焦りに満ちていることだろう。
(……彼との関係も少しは気にいっていたのですが改めなければいけませんね)
内心でイリーナは少し残念な気持ちになる。だが、これまでのことを考えれば当然とも言える。そもそも暗殺者が目標に僅かでも心を開くなど、許されないことだ。気持ちが乱れれば振るう刃も鈍る。それはいずれ自身を殺すことに繋がる。躊躇いや、迷いなど暗殺者が一番持ってはいけないものだ。
イリーナはそう自分に言い聞かせ、暖まった心を徐々に固く凍らせていく。暖かく柔らかい心では冷たい刃はふるえないし、何より自身が耐えられない。
だが、カイルの反応はイリーナの想像するそれとは大きく異なった。
「……く、くっく」
堪えきれない笑いを必死に噛み殺すようにカイルは手元を口で抑えるが、結局耐えきれなくなったのか、突然笑い出す。お腹を抑えるようにして笑う彼にイリーナは驚き頭の中が疑問と僅かな不快感でいっぱいになる。
「…今のどこにそのように笑う要素があったのか、教えていただきたいものですね」
「くっくくっ、あー、すまない。愚弄したわけではない。ただ、そのような形でターゲットに殺すと宣言する暗殺者がこの世にいるとは思わなかったものでな。その上、体の心配までしてくれるとは、少々不意を突かれた」
感じた不快感を隠しもせずに表情に露わにしたイリーナに、カイルは尚も笑いながら告げるが、彼女からすれば自分の思いを馬鹿にされた気分だ。
僅かだった不快感が怒気へと変貌し彼女の口を再び開こうとした時、それを防ぐようにカイルは言葉を、想いを紡ぎ出した。
「そう怒るな、僕は単純に嬉しかっただけだ。この身が、理性をなくし、人で無くなった時、イズミ様に傷をつけることになってしまうかもしれない、イズミ様の守りたい笑顔を消してしまうかもしれない。それが少し不安だったのだ。
……だが其方が僕を殺してくれるというのなら安心できる」
カイルの心底安堵したような優しく、嬉しそうな表情とその言葉にイリーナは一瞬、言葉を失った。目の前にいるのは、氷の人形とそう評されていたはずの青年だった筈だ。だが今目の前にいる彼はあの男に使える道具と評される青年にはとても見えない。目の前にいる彼は、一体、誰だ。
イリーナが今まで、殺してきた者たちにこんな顔をするものなどいなかった。誰も彼もが恐怖し、拒絶し、憎しみの篭った視線と形相でもって自分を見てきた。
なのに目の前の彼は自分に笑いかけてくる。
「……何故、何故笑っているのですか?
私は貴方を殺すと言ったのですよ。それなのに何故そんな、そんな安堵したかのような表情をされるのですか!」
その疑問は、気づけばイリーナの口から溢れていた。溢れた言葉がただの疑問から怒りの感情へと変貌を遂げ、目の前の青年へと叩きつけられる。それが何故起きたものなのか、彼女自身もわかってはいない。
だが、いつもは制御できるはずの感情がこの時ばかりはできなかった。
「うん?先ほど言ったであろう。ただ嬉しかっただけだ。
僕が人でなくなればイズミ様の心に大きな傷をつける結果になるだろう。それはくるべくして訪れる未来で、避けようがないと思っていたが人であるうちにこの命を絶ってくれるものがいるというのなら、僕は躊躇うことなくこの力を使うことができる」
ほんの少し前まで疑惑の瞳を向けてきていた人物とは思えないほどの満面の笑みで話すカイルをイリーナは茫然と見つめていた。
(ああ、彼は、最初から覚悟していたんだ)
自分が理性を失い、化け物になってイズミに殺されるその瞬間が訪れることを。いつか召喚される聖女に殺されると理解して彼はずっとその力を使い続けてきたんだ。
その上で、全てを理解した上で、彼はイズミに誓いをたてたんだ。
枢機卿は聖女に誓いをたてた目の前の彼を都合がいい人形だと言った。全ては自身の思った通りに掌の上だとそう思っている。
だけど、違う。
彼はもうとっくの昔に、いや、きっと最初からこの国の、世界の都合のいい人形などではなかった。氷の人形なんて最初からどこにもいなかった。
(なんて、なんて綺麗な想い)
人の醜い在り方をずっと観てきた。世界を支える柱の悍ましさを何度もこの瞳で観てきた。イリーナの瞳に映っていたこの世界に溢れる人の想いは、狂気や憎悪、悲しみに怒り、そんな暗いものばかりだった。だけど、今自分の目の前にいる彼の想いはイズミ様と同じ、暖かくて、太陽の光のように眩しくて、澄み渡る水面のように清らかだ。
イズミは別の世界から来た人だから、この世界とは違う場所で育った想いだからああも清らかなのだとそうイリーナは思っていた。だけど、カイルはこの世界でイリーナと同じように、いやきっとイリーナ以上にこの世界の悲しみと憎悪に満ちた想いを見てきたはずだ。それなのに……
気がつけばイリーナの両眼からはポロポロと涙が溢れていた。カイルは涙を流すイリーナにそっと近づき、彼女の涙を指でそっと拭う。
「それにこんなにも優しい其方が、イズミ様を想ってくれるならイズミ様を任せて逝くのに何の不安もあるまい」
その言葉にイリーナの涙は一層止まらなくなる。
これは卑怯だ。
彼はなんていうことをしてくれるのだろうか。
こんなにも綺麗な想いを見せられて、こんなにも綺麗な想いを託されてその上で、私に彼を殺せというのか。
それはあまりに酷いではないか。
「……騎士が侍女に護るべき主人を託さないでください」
止まらない涙を流しながら苦言を呈するイリーナに、確かに、と困ったような顔でカイルは呟く。イリーナはそんなカイルに思わず苦笑する。
(困ったの私の方だ)
いつか化け物になってしまう彼に抱いてしまったこの想いはいったいどこに持っていけばいいのだ。
イリーナの心に生まれて初めて、芽吹いたその想いは、今まで世界に絶望し続けていた彼女の心に静かに、響き渡った。
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