3話 選んだ選択 中編

 志願は思ったより簡単に受け入れられた。

 元々命の危険が大きいから撤退をするか否かを議論していたのだ。

 何が起こるか分からない場所の調査など進んでやりたがるものは誰もいない。

 そんな中で志願などすれば、どうぞどうぞとなるのは当然とも言える。


 まして、その相手は最年少で神殿騎士となり、現在では近衛の精鋭である。

 人の醜い、嫉妬の数々を受けてきたこの身ならばそうなっても何も疑問はない。


(むしろ早く死んでくれと言ったところか)


 騎士長など一部のものからは単独で行う任務などではないと同行者を募る言葉もあったが、今まで単独での魔獣討伐を行うことが多かった影響か単独でも青年ならばこなせるだろうと同行者が決まることはなかった。


 まあ決めてになったのは自分が「足手まといはいりません」などといったからだろうが。自分の人付き合いの苦手っぷりは貴族社会では致命的である。


 志願した時、多くの者は奇異の視線で自分を見てきた。

 点数稼ぎだとか、名誉に目が眩んでるだとか言われることは様々だ。

 ただ、1人だけ、彼女だけはまるで何かを確かめるかのように僕の目をはっきりと見ていた。多分、この時初めて僕は彼女に認識されたんだと思う。


 いくら精鋭とはいえ単独で町内全ての調査を行っていては時間がかかりすぎる。そこで門の付近の外壁に即席の梯子をかけて登り、門周辺の内部の様子を壁上で確認、異常がなければ開門に向かい聖女一行を内部に迎え入れる。なんらかの脅威が存在する場合は状況の確認だけしてすぐさま退避。


 それが今回、騎士長から下された正式な命令である。



 たったそれだけのこと。

 お使いのようなものだ。

 町の少し離れた場所に設営された簡易陣の端で1人もの想いにふけっていると背後から僅かに揺れるような気配を感じ、ついで後ろからゆっくりと歩いてくる足音が聞こえてくる。音に反応するようにゆっくりと振り向くと、そこに立っていたのは聖女様ただお一人だった。


 周囲を探るが、本来いるべきはずの護衛は見当たらない。

 いくら簡易陣の中とはいえこのような異常事態に重要人物をたった1人で出歩かせるなど、神殿騎士の引いては近衛の練度の甘さを再確認するには十分な事態であった。


「……聖女様、このような時にお一人で外を出歩かれるのはお控えください。」


 大きな声を出す気分にもなれなかったので静かにそう忠言するが、肝心の聖女様はどこ吹く風よといわんばかりに飄々とこちらに歩いて近づいてらっしゃる。


「うん?

 ……こんな時に私を1人で出歩けるような状態にしておく方が問題じゃない?」


 返す言葉もない。

 全くもってその通りであるが、それを理解しながら隙をついて出歩いている方が言うのはそれはそれでどうかと思うが。


「……なぜ、このような場所に?護衛はどうなされたのですか?」


 このまま騎士団の練度の話を言われるのは青年としてもばつが悪い。話を逸らすかのように疑問に思ったことを伺う。


「うーん、貴方は騎士でしょ?貴方は私のことを知っているでしょうけど、私は貴方のことを全く知らないんだけど?」


 どうやら自分は自己紹介を促されているようだ。

 そういえば、こうして聖女様と2人きりでお話しするのはこの2年で初めてのことである。


 2年間護衛を務めて未だほとんど会話がないというのはある意味では問題だが他人との接触を好まない彼は同じ近衛騎士ですらほとんど会話をしないうえ、通常複数人で挑む魔獣討伐任務などには、なまじ実力が高いが故に単独で赴くことが多く、近衛騎士の中でも仲間であるという認識すら曖昧に思われている節がある。

 また、貴族社会においても伯爵の爵位を持っていて家柄がよく、それでいて最年少で近衛騎士となる優秀さを見せ、なおかつ顔も整った美男子ではあるが、青年のまとう人を寄せ付けない雰囲気から社交界でも高嶺の花扱いされ、遠巻きに見られるのがほとんどで事務的な挨拶以外はろくに行わない。


 簡単に言えば彼にはコミュニケーション能力が不足しているのだ。

 致命的なまでに。


(やはり、死地を前に緊張しているということか)


 が、本人は自身の異常性に全く気づかない。


 騎士として女性に自己紹介を促されて始めて行うのは少々恥ずかしいものだ。

 という程度にしか認識していない。なんとも残念な青年である。


「……失礼しました。近衛騎士のカイル・エーリッヒと申します。」


 恥ずかしさから頬をかきながらそう答えると彼女は微笑みながら


「カイルね。宜しく、私はコウダ•イズミ。

 こっち風に言うならイズミ・コウダね。

 ちなみに護衛の人なら天幕の入口にいると思うよ」


 そう言って彼女は右手を差し伸べてくる。

 彼女の最後の言葉からして護衛は巻かれてきたというよりはそもそも外に出ていることにすら気づいていないようだ。


(どうやって護衛に気づかれずに外に?)


 単純な疑問が頭を過るが青年にはそれより先に解決しなければいけない疑問点が目の前にある。


「……?

 申し訳ありません。こちらの手は?」


 そう疑問を呈すると、彼女は思いだしたかのような表情で「あー、そうだった、こっちじゃ通じないんだった」と青年が理解できないことを呟く。


「えーっと、初めて会ったもの同士がこれから宜しくって言う意味でお互いに手を握り合う習慣が私の世界ではあってね。つい、癖でやっちゃった」


 そう、困ったような、寂しそうな顔で呟く彼女に何故かこのまま手を引かせてしまってはいけない気がして思わず、パッと彼女の手を両手で握り締めた。


「……これで宜しいのでしょうか?」


 どのくらいにぎっていればいいのか分からず、そう聞いて彼女の顔を見ると彼女は顔を真っ赤にして口をパクパクと開けたり閉めたりを繰り返していて、まるで金魚のようになっている。


「えーっと?聖女様?」


 先ほどまでの飄々とした態度とはあまりにも変化していて、戸惑いながら伺うと


「りょっ両手じゃなくて片手!あっあと、いっ一瞬でいいから!」


 と非常に慌てた様子で彼女は言い放つ。

 聖女といえど女性である、割と顔の良い背の高い好青年に突然両手で手を握られば照れもする。世界が違ってもその辺りの感性は変わらない。


 普通の男なら彼女の反応が照れからきているとさっすることが出来たのだろうが前述された通り、生憎と青年のコミュニケーション能力は低い。

 女性の反応を伺うなどそのような超高レベルな行動は赤ピクミンを引き連れて水の中を通るほど不可能かつ残酷な行為である。


「あー、申し訳ありません。聖女様」


 聖女の慌てた様子に失礼だったかと自分も焦って手を離して返す。

 位の高い者に失礼を働いたなら場合によっては下のものは私刑となることも珍しくはない。まして相手は聖女である。そんな相手に近衛騎士が失礼を働いたとあっては私刑が死刑に変わってもおかしくはない。

 

 最大級の謝罪に見せるべく青年は完璧な角度で頭を下げる。


「えっ?そんなに謝らなくても大丈夫だよ?……うん?」


 無論イズミにはそのようなつもりなど全くないのだが、先程のセリフの中にひとつだけ彼女が非常に気になる点があった。


 一方で青年は許して頂けたかと安心しながらもう一度彼女の顔を見るが何故か今度はジト目になってこちらを見ている。


(うん?赦されていないのか?なんだこの馬鹿を見るような目は?)


 青年にとっても思いもかけない反応で、どう対応すれば良いのか、何故そのような目でみてくるのか、訳がわからず困惑していると


「……ねぇ?私は誰?」


 などと青年には全くもって理解不能な質問が飛んでくる。


「聖女様ですが?」


あまりに不明瞭な質問に青年の回答は思わず問い返すようになる。


「はぁー。ねぇ君、今何のために自己紹介したのよ。

 名前はイズミっていったんだからそう呼びなよ」


 呆れたと言わんばかりに溜息を吐きながら彼女はそう言うが、青年からすればそれはとんでもないことである。


「いっいや、しかし、いくらなんでも自分のようなものが聖女様のお名前をお呼びするなど、失礼に当たるといいますか、その、不敬であるかと」


 青年はしどろもどろになりながら返答するがこれは無理もないことである。


 彼女が言ったのはファーストネームで聖女を呼べということだ。

 もちろんファーストネームで呼ぶような間柄はそれだけ信頼されていることを表しているので普通は光栄の極みではあるが、聖女様のファーストネームを呼ぶなどとなれば、その反響は青年が近衛に抜擢された時などとは比較にもならない。


 とんでもない嫉妬&尋問を受けることになる上、聖女と密接な関係ともなれば政治的な策略に利用される恐れもある。前者はともかく後者は青年の命の危険すらある。


 現時点でも十分すぎる嫉妬を受けているのにこの上さらに追加発注などすれば在庫が多すぎて処分セールしても余るほどである。


「……こうして許可してるのに呼ばない方がよっぽど失礼だと思うけど?それとも呼びたくないの?」


 不貞腐れたような表情でそう言う彼女に青年は若干の罪悪感がわく。

 確かに許可されていながらファーストネームを呼ばないとなると距離をおきたいといっているような物なので大変に失礼なことではある。


 が、今回に限って言えばそれが正解なはずなのだ。


 しかし、そのように言われては青年も断りづらい、わかってやってるのか、実に巧妙で悪どい手である。


「あーしかしですね、うーん」


 どのようにして上手く断るか普段は使わない気を全力で使いながら頭を働かせていると。


「はぁー。貴方年齢は?いくつ?」


 とこちらが断る言葉を選んでいるのに気が付いたのか、はたまた、ただ待ちきれなくなっただけなのか、急に話題を変えるように歳を伺われる。


「ありがたいことに今年で17になります」


 聖女様の意図が読めず、そのまま素直に答えると、彼女はふーんと先ほどまでの呆れた表情を一転させて笑顔になる。ぱっと見、綺麗な笑顔だが何やら非常に嫌な予感がする。


 危険な笑顔に思わず半歩、青年の足がさがる。


「へぇー、年下かー。私は今年で18だから!年下は年上の言うこと聞かないといけないよね?」


 満面の笑みで、嬉しそうにそういう聖女様に青年は自身の予感が的中したことをさとる。


 確かに年功序列自体は大事な考えではあるが、その考え方はいかがなものだろうか、というか根本的に何か考えがずれている。教育係は何を教えているのか。


 ここで問題なのは彼女が異世界出身であるということだろう。

 元の世界において彼女は普通の女子高生だった。家族との仲も良好で学校ではそれなりのヒエラルキーのグループに所属し周囲の友達と喋りながら、楽しく可笑しく生活していたのだ。

 そんな彼女がいくら2年間みっちりと教育を受け、この世界で生活してきたといっても根付いた常識は簡単には覆ったりはしない、彼女の元の世界では単純なお願いで済むだろうがこの世界においてそれは聖女の命令となる。


 要は彼女自身が自分の発言の影響力の大きさをあまり理解しきれていないのだ。故に社交界では決まった相手としか喋ることを許可されないし、どのような内容を喋るのかもあらかじめ決められたことだけである。


 つまるところ彼女もこの世界においては、コミュニケーション能力が高いとはいえないのだ。



「……年下でなくとも聖女様の御命令とあらばお受けするしかないのですが」


 年功序列もそうだが立場というものがある。騎士である以上、相手が幼子でも立場が上なら命令であれば聞かなければならない。もちろん時には諫めることも必要ではあるが。


 だが青年の言葉を聞いた聖女様は非常に不機嫌そうな顔をしながら


「そういうのは嫌なんだけど?

 私は聖女だからいうことを聞いて欲しいわけじゃない。」


 聖女だからという部分に非常に力がこもっているように感じる。

 どうやら彼女にとって失礼なことを言ってしまったようだが、何がそれにあたるのか青年にはよくわからない。


 疑問を感じていることが顔に出てしまっていたのだろう。

 聖女様はまた溜息を吐いて、今度は諦めたような顔をしながら


「……じゃあ私から君への最初の命令は、私を名前で呼ぶこと!絶対だよ」


 横暴である。

 だが、自分で命令で有れば受けると墓穴を掘ったのだから拒否など当然しないし、そもそも上役の命令を拒否などすれば、物理的に首が飛びかねない。


「……では、イズミ様とお呼びさせていただきます。」


 さて、周囲になんと言い訳するか、

 近衛騎士の中で聖女様を名前で呼んでいるものは同性の女性騎士以外では見たことがない。つまり異性でイズミ様と呼ぶのは近衛騎士内では初めてということだ。実家に報告が行けば面倒なことになるのは間違いない。


 諦めて策を練ろうと思いながら了承することを伝える。


「うーん?まだ固いけど、その辺が妥当か。まあ、これからよろしくね!

 なにか言いたいことがあったら言ってね」


 先ほどまでは心底呆れているような顔をしていたのに今度は柔らかに笑いながら何故か申し訳なさそうにそう伝えてくる。

 ファーストネームを呼ぶことで僕に起こり得ることを理解しているということだろうか。


 それにしても、呆れたり、不愉快そうな顔になったり、笑ったりと、表情がコロコロと変わっていく。


(どこまでも忙しいお人だ)


 心の中でそう思いながら、騎士が護衛対象に気を使われるようではと空気を変えるべく「では、早速おひとつ」というと


 聖女様は「お、なになに?」とウキウキと楽しそうにしながら、僕の次の言葉を待っている。


「……横暴という言葉をイズミ様はご存知でしょうか?」


 きっと彼女の楽しげな空気に釣られたのだろう。

 いつもなら言わない、先ほど思ったことをそのまま伝えてみる。


「……君、実は性格悪いでしょ。」


 と、聖女様、もといイズミ様はジト目でこちらを見てそう言ってくる。


「お褒めに預かり、恐悦至極に存じます」


 にっこり、笑いながらそう返すと、イズミ様は少し驚いたような顔をしたあとクスクスと笑われて、


「あーあ。あんな作戦に自分から志願なんてするから、

 どんな自殺志願者か殉教者かと思ったら、なんだ。全く違ったかぁー」


 彼女の言葉に青年は思わず目を見開いて固まってしまう。


 その言葉で、初めてなぜここに彼女がきたのかを理解できた。

 騎士に対して自殺志願者とは随分と失礼な勘違いだが殉教者というならそれは女神の信仰者たちにとっては誉め言葉でしかない。


 最も、自分はごめん被りたいが。


 殉教者とは神を信じ神のために死ぬものたちだ。

 自分がこれから向かう場所は確かに死地かもしれないが例えそうだとしてもそれは断じて女神様の為などではないし、今までもこれからも自分が女神の為に死地に赴くことなどない。


「……自殺志願者ではありませんが、殉教者とおっしゃって頂けるなら、それは女神教徒にとっては光栄の至りですね」


 だが、もし自身が女神を信仰などしていない無神論者のような考えであると知れれば、聖都の異端審問会にかけられる可能性が極めて高い。


 異端審問にかけられたものの末路などろくなものではない。

 故に、例え親兄弟といえども自身の思いをその身からこぼしたことなどただの一度もない。


 だからいつもどおりその心を偽り、さも女神様を讃えているようかのように喜ぶ振りをする。ばれたことなどない、一度でもばれればそれが青年の最後となるのだから。



「そっかー。……君さ、今、苦しくない?」


 なのに、貴方は僕の全てを見透かすように、その綺麗な、吸い込まれるような黒い瞳で、この身の内を覗き見る。


「っ!……何故そのような質問を?」


 唐突に顕た彼女のその神秘的な空気とその瞳の美しさに見惚れ、ついでその質問の鋭さに気づき、思わず息をのんで、否定を忘れて問い返す。


「ふふ、君ー。嘘が下手だねー」


 クスクスと彼女は先ほどまでの息を飲むような空気を霧散させて、そう僕に笑いかける。


「……自慢ではありませんが僕はこれまで他人に嘘を見破られたことはありません」


 一瞬垣間みえた鋭さと、先ほど感じた空気は錯覚だったのではないかと思わせるほどの豹変ぶりに青年は警戒心を抱いてそう返すと彼女は呆れたように


「……本当に自慢にならないね。

でも、私からすれば君の顔なんてわかりやすすぎだけどねー。

笑ってるのに笑ってるように見えない、まるで笑ってる仮面でも付けてるみたいな感じ。……ちなみに君、さっき女神の為なんてって感じの顔してたよ」


「っ!」


 驚愕に思わず体が震え、腕に力が入る。

 彼女の聖女たる由縁なのか。人の心の内を覗き見る、そんな能力が聖女にはあるのか?

 それともこの身は、それほどまでにその心根を溢れさせていたのだろうか。


(いや、もしそうなら、異端者としてすでに裁かれているはず)


 一瞬浮かんだ不安を否定し、自身の不信が溢れていないことを確信する。

 だがそれは彼女が特殊であることを肯定することになる。


 脳裏に嘗ての異端者の末路が浮かび上がる。


 罵倒され、引きづられ、石を投げられ、そして聖火などという忌々しい炎で磷付にされて燃やされる。それを見て喝采をあげる市民と女神への信仰を確認して喜ぶ聖職者ども。


 あの狂った光景は数年の歳月を経てなお自身の中に正確に残っている。


(あんな最後は、ごめんだ)


 おぞましいという言葉があれほど当て嵌まる光景を自分は知らない。

 その渦中に自身が放り込まれるのは全力で避けなければならない。

 だが彼女の思惑が分からない。単に彼女の思いつきでの行動なのか、あるいは何者かが背後にいて自身の信仰を確認しているのか。


 前者ならともかく後者であるならすでに自分は疑われていることになる。


 再度周囲の気配を探るが、やはりこの場に彼女以外の気配はない。


「……誤解です。僕は女神教徒の一員、聖殿の近衛騎士でもあります。至らない身ではありますが女神の為に死ねるなら、これほど名誉なことはありません」


 ここで、否定は必須だが慌ててはいけない。

 焦りを見せればそれは肯定しているのと同義だ。

 貴族社会での立ち振る舞いを教え込まれているなら、それは彼女にも当然はわかる。


 だからこそ落ち着いていつもどおりに。 

 何度も何度も繰り返してきた嘘。

 自身の外側に苔のように張り付きその本当の色を隠す。

 だが、青年のそんな欺瞞は少女には通用しなかったようだ。


「……警戒なんてしなくていいのに。

 って言っても無駄か。こんな狂った世界でずっと生きてきたんだもんね。

 確かに、本音なんて言えないよね」


 狂った世界、まさにその通りだろう。

 女神を信仰し、女神教徒などと名乗りながら、女神の加護を受けたという聖女を苦しめ、奴隷のように世界の為に使役し、自身の平和を守る。

 聖教国はその長い歴史由なのか、大きくねじ曲がり、その名を穢し続ける。


 異端者や邪教徒であれば、例え子供であろうと例外なく聖火にくべる。

 狂っている、そう思えるのであればきっと彼女のいた世界は正常なのだろう。


 だが、この国では、この世界では、その正常こそが異常なのだ。だから僕は異常でいないといけない。異常な世界に住む人間が正常であればその矛盾は酷く目立つ。


 今の彼女のように。


 だけど、ふと気になった。

 こことは違う、狂っていない世界。

 そこはどんな素敵な世界なのだろうか?

 狂っていない世界からきた彼女はどんな人なのだろうか?


 だから青年は思わず聴いたのだ。いつもならありえない。

 油断に塗れた、本音というやつを。


「……貴方の帰りたい世界なら僕は笑えますか?」


 この時、もし否定し続けていれば、彼女はきっと静かに去ったのだろう。

 この時、彼女に聞かれなければ僕はずっと狂ったふりをしていたのだろう。


 青年の心境を知ってか知らずか、彼女はキョトンと首を傾げた後、それはもう見惚れてしまうような綺麗な笑顔で


「笑えるよ。っていうか私が笑わせてあげるよ」


 そう言った。


 この時、僕ははっきりと聞いた、自身を覆っていた苔が朽ちていく音を。

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