ガススタンドの恋人

沼米 さくら

ガススタンドの恋人

 轟音で大通りを駆け抜ける車を横目に、私は深呼吸した。

 せ返る程の石油の香りが、鼻孔を抜ける。

 ああ、ここに訪れるのは何年振りだろうか。

 私は、ずっと昔のことを思い出した。


 私は昔、ここで働いていたのだ。

 一介のバイト店員だったあの頃の私は、テキパキ、黙々と仕事をこなす、優秀な、しかし無愛想な店員であった。

 しかし、こんな私に話しかける女性がいた。

 あれは、とある春の日。当時二十代の私と大体同じ年頃の、美しい女性だった。

 彼女の自動車にガソリンを注入する作業の間、窓を拭いているときに、私は話しかけられた。

「ねぇ、貴方の名前は?」

「……」

 いきなり名前を聞くなど、失礼だと当時は思った。それで無視してしまったことは、今でも後悔している。

「どこに住んでいるの?」

 彼女は質問してばかりで、私はそれを無視し続けた。

 しかし、何十問目か。もうガソリンもたまって、布巾を畳もうとしたときに、偶然か、私の腹がなり出した。

「あら、可愛い腹の虫だわ」

 彼女がからかった。私は顔を熱くした。

「私、おにぎり持ってるんですけど、よかったら食べる?」

 彼女が聞いた。

 私はしばらく逡巡し。

「すみません。有難うございます」

 恐る恐る受け取った。

「うん。じゃあ、また来るわね。ありがとう」

 それが、彼女との最初の出会いであった。

 それから、彼女はここにガソリンを入れにやってきた。

 なるべく店員として接するように心掛けた。だが、毎回同じような時間におにぎりを持ってやってくる彼女と、つかの間の会話を繰り返すうちに段々と親しくなっていったのである。

 気が付けば、彼女とは毎日のように会っていた。

 彼女はガソリンがあるときでもここに寄っていた。

 徒歩でわざわざガソリンスタンドまでやってくる彼女に、頭を抱えた事もあった。

 そのうちに、シフトの入っていない日でもガソリンスタンドに行くようになったり。プライベートで彼女に会うようになったり。

 いつのまにか、私は恋をしていたのかもしれない。

 そして、最初に会った時から実に一年半が過ぎようとしていたある秋の日。

 私は告白しようと身構えていた。

「私と、結婚を前提にお付き合いをしてください」

 その言葉を言おうと、彼女の車が来るのを待ち望んだ。


 しかし、彼女はいつまで経っても来ることはなかった。


 その日は忙しかったのかもしれない。

 そう思うことにして、その日は帰ったのだが。

 何日経っても、来ることはなかった。

 一ヶ月近くが経ったある日、待ちきれなくなり、彼女に電話をかけた。

 果たして、電話口から聞こえたのは、知らない女性の声であった。

 私は愛していた彼女の名を叫んで、呼びかける。しかし、次に言われた言葉で一気に血の気が引いた。

「……あの子はね、つい先日、自動車事故で亡くなったの」

 ……聞いてみると、電話に出たのは彼女の母親だったそうで、私のことは娘から聞いていて知っていたという。

 命日は、あの秋の日。“いつものガソリンスタンド”に向かっている最中、曲がり角で他の自動車と衝突してしまったのだという。

 私は電話機の前で泣き崩れた。


 ——十年以上前の話だ。

 あれから、すぐにこのスタンドを辞めて、ふさぎ込んだ。いまの妻と出会ったのも、その頃だと思う。

 他の女と結婚してしまった今でも、時々あの儚い恋のことを思い出し、ここにやって来ては彼女との思い出を偲ぶのだ。

 目の前の景色が、あふれ出した涙で歪んだ。

 しかし、彼女が戻ってくることはない。

 私はもう一度、石油の香りの混じった空気を吸った。

 近くの公園でおにぎりでも食べてから帰ろう。あと、墓参りにも行かなくては。

 ハンカチで涙を拭って、私は一歩踏み出した。

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ガススタンドの恋人 沼米 さくら @GTOVVVF

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