二十五章 龍の鏡(2)

「ありゃりゃあ! 面白れえなあ、この人たちは」


 仙吉はゲラゲラ笑いました。


「小っこくなっちまった。こいつは便利でいいや」


 モモンガは器用な指で二人をそっとつまんで胸元に運びました。先生と花野子ちゃんは柔らかな毛に埋もれるようにして、モモンガにしがみつきました。


「ちょいとばかし、そこで踏ん張っててくんな。うしとら沼までひとっ飛びだ!」


 龍の鏡を口にくわえた仙吉は、タブノキの天辺まで水が流れるように駆け登ると、蹴って梢をしならせて満月の夜空へ飛びだしました。四肢の膜をぴんと張った黒い影が、輝く月のおもてを横切ります。風が耳元でひゅうひゅうと鳴って、花野子ちゃんは叫びっぱなしです。


「なんでええええ? やめてええええ! たすけてええええ」


「あいよ! 任せろ! お嬢ちゃん!」


 モモンガは器用にしっぽで舵を取り、目指す木へと飛びうつりました。


「花野子、落ち着け! とにかく腹から大きく息を吐け」


 花野子ちゃんの手をしっかり握った和真先生が言いました。


「ええええええ? なぜなぜなぜ?」


 花野子ちゃんは目を見開いて先生の顔をみつめました。


「恐いと思う感情は肺にたまる。まずはそれを吐き出して平常心を取り戻すのだ」


「うっ。そうか。わかりました」


 口をとがらせると花野子ちゃんは大きく息を吐きました。それからゆっくりと吸いました。それを繰り返しているうちに、だんだんと気持ちが落ちついてきました。


「よし。顔色がもどったな。いつもの花野子だ」


 和真先生が頬笑みました。そういう先生も額に汗がにじんでいましたが。


 そんな二人にお構いなく、モモンガはまたスルスルと木の幹を駆けのぼり、天辺から身を躍らせて、また風に乗るのです。まるで鳥に乗っているように景色が流れてゆきます。気がつけば驚くほど遠くまで移動していました。


「おそらく、このモモンガさんは我々の頼みを聞いて、うしとら沼まで連れて行ってくれるのにちがいないぞ。有難いじゃないか」


 和真先生は感激の面持ちで呟きました。


「先生。手を離さないでくださいね」


 ふいに花野子ちゃんが言いました。


「はなさないとも。私がついているから安心しなさい」


 和真先生が手に力をこめると、花野子ちゃんが微妙な顔をしました。


「あれ? どうした、花野子」


「先生、あのね」


「うむ」


「どうしてこんなことになったのか考えてみたんですけど。龍の鏡の力じゃないかと思うのですよね」


「ほう」


「お里ばあが言ってたでしょ。龍の鏡を持つ者は、大入道にでも麦の粒にでも化身できるって。俺、さっき『龍の鏡くらいに小さくなりたい』って言っちゃったんですよ」


「なるほど。それでこんなに小さくなったのか」


 先生は目をまるくしてうなずきました。


「それでね、先生」


 花野子ちゃんが言いにくそうに続けました。


「俺が触ったら、先生も小さくなったでしょ。ということは、この手を離したらどうなるんだろうと思ったらね」


「えええええええっ?」


 最後まで聞かずに和真先生の声が甲高くなりました。


「そ、そ、そ、それはまずい。こ、こ、こ、この高さで元の大きさに戻ったら、モモンガにくっついてなんかいられない」


「先生、落ち着きましょう。とにかく腹から大きく息を吐いて」


「うむ。そ、そ、そ、そうだったな」


 和真先生は大きく息を吐いたり吸ったりしました。


「そうだ。先生、平常心です。いつものように論語を暗唱しましょう」


 花野子ちゃんが提案しました。


「そ、そ、そ、それがいい。よし。のたまわく! はい、続けて!」


「はい。子、曰わく!」


いやしくも仁にこころざせば、しきこと無きなり!」


「苟しくも仁に志せば、悪しきこと無きなり!」


「子、曰わく!」


「子、曰わく!」


あしたに道を聞かば、ゆうべに死すとも可なり!」


「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり!」


「やれやれ、人間てのは、うるさくっていけねえね。どうも」


 声をからして叫ぶ二人を抱えたモモンガは、月夜の森を渡ってゆきました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る