二十四章 モモンガの助っ人(1)

 とっぷりと日が暮れると寒い風が素羽鷹沼の水面を吹き渡ってゆきました。

 その昔、鏡権現の鳥居があった水際に、今は数千羽の水鳥が芦の間で眠っています。今宵は月の出が遅く、星明かりは井戸の底まで届きません。


「花野子はどうしたんだろう。もうだいぶ経ったが、大丈夫だろうかなあ」


 角権現で用意してくれた道具には、ひしゃくのような形の油の灯明もありましたから、先生は寒さにこわばる指でその灯心に火をともし井戸の底を覗きこみました。すると何か柔らかいものが先生のかかとをつつきました。


「くすぐったいな」


 後ろ手に探るとフカフカした毛深いものが指に触りました。ふごふごという温かい鼻息が手のひらにかかります。振り返ると瓜のように丸っこいイノシシの子どもがこちらを見あげています。先生は思わずにっこりしました。


「ウリボウじゃないか。いい子だね。どこから来たんだい。お母さんはどこに……」


 はっと気づくと、頭の上からぼうぼうという、ふいごのような音が聞こえました。見上げた先生は「うわあ!」と悲鳴をあげました。小山のように大きなイノシシが恐い目で先生をにらんでいたのです。


「ああちゃん。こいつ、ワカの刀を持ってるよ!」


 ぼうやがお母さんに言いつけました。


「なんですって! 泥棒め。あっちへ行きなさい!」


 イノシシのお母さんが後足をドンと踏みならすと、地面がぐらぐら揺れました。


「ひいいっ!」


 イノシシの言葉が分からない先生は若様の刀を胸に抱いてうずくまりました。


「ワカの刀をはなせ!」


 イノシシのぼうやが、あむっと刀のさやをくわえて引っ張りました。


「うわあ。やめなさい」


 先生も刀を取られまいと踏ん張ります。しかし坊やが四肢を踏ん張ってあとずさると、先生はずるずると引きずられてしまいました。


「しっかり。坊や!」


 イノシシのお母さんはハラハラと応援しました。

 そのときでした。森の高い梢から、お手玉ほどの小さな生き物が、手と足の間の膜をひろげて飛んできたかと思うと、ふわりと和真先生の肩に留まりました。


「待った、待った!」


 つぶらな瞳の生き物がイノシシたちに言いました。


「草薙姫、この人は七法師様のお師匠様だ。嘘だと思うなら自慢の鼻で匂いを嗅いでみな」


「ええ?」 「ほんとう?」


 イノシシ親子が鼻を鳴らして間近に迫ってきたので、先生は観念して目を閉じました。


「ふんふん。ほんとだ。ワカとトラの匂いがする」


「ふんふん。あらいやだ、ごめんなさいね。ぺちゃんこにしなくて良かったわ」


 イノシシたちが静かにはなれていったので、先生は、ぺたんと地面に坐り込みました。


「やれやれ助かったようだ。この子のお陰かな」


 小さな生き物は先生の肩から二の腕に移動して、そこから大きな丸い瞳で先生の顔を見上げると愉快そうに肩をすくめました。


「間一髪ってやつですな」


「おお。モモンガだ。可愛らしいなあ」


 先生は目を細めて命の恩人を眺めました。


「わっしは空飛び仙吉せんきちってんだ。リスの倫太郎の兄弟分でさあ。よろしく頼むぜ、先生」


 モモンガはきさくに挨拶しましたが、もちろん和真先生には分かりません。


「なにかしきりに鳴いてるな。意味があるのかな」


「あのドングリ野郎に、お前は夜に強いから頼もしいねえ、なんて、おだてられちまってよ。べらぼうめ、任しとけってなもんで、こうして助っ人に来たってわけさ」


 仙吉は若様の刀に飛びうつりました。


「ええっ? だめだよ、かじったら」


 振り払おうとする先生の手をすり抜けて、仙吉はナナカマドの枝に飛び移りました。


「かじるわけねえだろ。助けてやるっつってんだよ」


「もしかしたら、お前も、あのリスのように私を助けてくれるのか?」


「おうよ。若様は倫太郎の命の恩人だっていうじゃねえか。わっしも一肌脱ぐぜ」


 なにひとつ伝わってはいませんでしたが、先生は目を潤ませてモモンガを眺めました。


「お城はどうなったかね。若様はどこにおられるのか。――ああ、やれやれ。言葉が通じないというのは、不便なものだ」


「そいつはわっしも同感だな」


 和真先生と仙吉は一緒にため息をつきました。

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