二十三章 井戸の黒影(4)

 すると黒影のかぶっていた衣がはらりと落ちました。そこには、あでやかな十二単衣じゅうにひとえをまとった美しい女の人が佇んでいました。背の高さは花野子ちゃんと変わらないくらいの小さな人でした。


「当てると思いました。そなたならば」


 桔梗御前は奥ゆかしげな仕草で袖で顔を隠すと、開いた扇子を花野子ちゃんに差しだしました。見ればそこには、透きとおるような瑠璃色るりいろをした石が輝いていました。花びらのように薄くて小さな石は、わずかな風にも飛んでしまいそうでした。


「約束通り、差しあげましょう。これが龍の鏡です」


 花野子ちゃんが鏡を手に取ると、桔梗御前は引き寄せた扇子で色白の顔を隠しました。


「この櫃の中には、おやかた様の形見の剣が入っています」


「桔梗御前はここでずっと剣を守ってこられたのですね?」


「わらわは井戸に取り憑いたバケモノですから」


 桔梗御前は寂しげに微笑みました。


「あの朝、わらわに龍の鏡を託し、おやかた様は必ず戻ると約束されました。わらわは御首尾ごしゅびをお祈りいたしますと申し上げたのです」


「敵に討ち取られたと聞いたとき、逃げようとは思わなかったのですか」


むなしくなられた方と交わした約束なればこそ、決して反古ほごにはできませぬ」


 その言葉を聞いて花野子ちゃんは胸がいっぱいになりました。


「桔梗御前、おやかた様は昨日甦られました」


 白い扇子が床に落ちました。


「なんと申された」


「おやかた様は素羽鷹のお殿様に取り憑き、戦を始めようとされています。でもそんなことをしたら、あの時とおなじように、素羽鷹は他国の兵に踏みにじられて焼け野原になってしまいます。それで俺たちは、龍の三宝の力でお殿様を止めようと思ったのです」


 桔梗御前は崩れるように膝をつきました。


「おやかた様、なぜそんなことを」


「天子様や陰陽師によほど恨みをお持ちなのでしょうか」


「これだけの月日が経つというのにか。天子様も陰陽師の身内も誰も生きておるまいに。素羽鷹の殿に取り憑いているのは、ほんとうにおやかた様なのですか」


「石の目をして人の心を操っているそうです」


「おやかた様はそんな怖ろしいことをなさる方ではない。あの方は、上から指図されることは嫌ったが、下々の者にはそれはお優しかった」


 桔梗御前は肩を震わせて嘆きました。


「角権現の娘や。どうか頼みます。おやかた様をお止めしてください。そして、ここで桔梗がお待ち申しておりますと、あのお方に伝えてください」


「必ずお伝えします。それから、もうひとつ、教えて頂きたいことがあります」


「なんなりときくがよい」


「おやかた様の奪われたお名前はなんとおっしゃるのですか」


「よくぞ聞いてくれた。あの方のお名は――」


 桔梗御前は扇で口元を隠して花野子ちゃんに頬を寄せました。その答えを聞いた花野子ちゃんは息を飲みました。顔を上げたときには桔梗御前の姿はなく、真っ白な絹の衣がふわりと櫃の上に掛かっておりました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る