十九章 うしとら沼のかぞえ歌(1)

 灰色の霧は深く垂れ込め、龍宮島の島影どころか、砂州に並ぶ沼杉の姿さえ影絵のようにかすんでいました。若様と虎千代はお互いのぬくもりを確かめるように寄り添いました。

 そのとき。虎千代が丸い耳を動かしました。


「あの音はなんでしょうか」


 きいきいと、何かがきしむような音が聞こえます。


「行ってみようか」


 二人は霧の幕をたぐるようにして、砂州の土手を降りてゆきました。


「わかさま。あそこに、なにか、いる」


 先に立って歩いていた虎千代がお尻から後ずさりました。若様が目を凝らすと、朽ちかけた木の杭が波打ち際に突き出ていました。きいきいと音を立てていたのは、その杭にもやわれた小舟でした。


「舟だよ! 虎ちゃん!」


 若様は小舟のところまで駆けてゆきましたが、中をのぞいて、がっかりしました。舟底が腐って大きな穴が空いています。舟の中はすっかり水浸しでした。


「これでは乗れませんね」


 虎千代が悲しそうに言いました。

 ひゅうと寒い風が水面を波立たせました。心細い思いで二人が佇んでいると、どこからか歌声が聞こえてきました。幼い子どもたちが謡っているようなその声は、さほど遠くではありませんでした。



 ――けんけんぱ けんけんぱ

   龍宮島の おきゃくさん

   行ってかえらぬ いつつみつ

   おみやげもらって むつよっつ



 虎千代がありったけの背中の毛を逆立てました。


「なんで、こんな場所で子どもが遊んでいるんでしょう」


 若様も不思議に思いましたが、怖くはありませんでした。


「和真先生が言ってたけど、遠くの声が風に乗って素羽鷹沼を渡ることがあるんだってよ。ほら、僕は聞き耳ドングリをつけてるし、虎千代はもともと耳がいいからね」


 虎千代は褒められて笑顔になりました。ですが、そのとき。



 ――けんけんぱ



 その声はたしかに、さっきよりも近くから聞こえました。


「うわあ!」


 若様と虎千代はしっかりと抱きあいました。


 一陣のつむじ風が、くるくると水面の霧をなぎはらいました。すると波間に小さな平たい岩がいくつも顔を出しているのが見えました。


「虎千代。見てごらん。あの白い岩、お城の中庭にあった飛び石みたいだよ」


 若様に抱きついたまま首をねじ向けた虎千代は、おんおんと咆えました。


「若様。たいへん。あの飛び石、こっちに来る!」


「なんだって」


「怖いよ。おんおん。助けてえ」


 たしかに岩の一団はすこしずつ近づいてきていました。岩たちの寄せるさざ波が、ちゃぷちゃぷと二人の立つ岸辺に届きました。すると、あの歌がもう一度聞こえました。



 ――けんけんぱ けんけんぱ

   龍宮島の おきゃくさん

   行ってかえらぬ いつつみつ

   おみやげもらって むつよっつ



「いやあああん」


 虎千代は若様のふところに鼻面を突っ込みました。すると若様が急にクスクス笑いだしたので、震えていた虎千代はびっくりしました。


「若様。どうしたんですか」


「虎千代。ごらんよ。あれ、亀だよ」


「亀?」


 虎千代がおそるおそる振り返ると、どの岩からも小さな頭がのぞいていました。岩かと見えた亀たちの甲羅こうらはどれも八角形の白いお皿のようでした。亀たちはさきほどの歌をうたいながら、一尺ほどの間隔を空けて一列に並んでやってきます。先頭の亀が岸に着きますと、その亀はうたうのをやめて、ぷくんと頭を引っ込めました。すると他の亀も順々に頭を引っ込め、その場に浮いたまま動かなくなりました。亀たちの長い列のしんがりは霧に隠れて見えませんでした。

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