十八章 草薙姫(3)

「竜宮島の渡し場の岸から虎千代が思い切り大きな声で咆えて、龍宮島の龍をお呼びします!」


 若様が目を丸くするそばで、イノシシのお母さんが涙を浮かべました。


「なんと忠義なおともでしょう」


 虎千代のまっすぐな眼差しに励まされて、若様も強くうなずきました。 


「イノシシさん。お願いします。僕らを龍宮島の渡し場まで連れていってください」


「ぼくもいく!」


 イノシシのぼうやも勢いよく鼻を鳴らしました。


「ええ、急ぎましょう。日が落ちる前に行かなくちゃ。みんな、しっかりつかまってね」


 子どもたちが背中に登ってしがみつくと、大イノシシは飛ぶように走りだしました。

 夕空にまだ月はありませんでした。西の丘では日が沈み、東の端から藍色の夜がひろがりはじめました。素羽鷹沼にすむ幾万という水鳥たちは、背中の翼にくちばしを差しこんで、お気に入りの水草の茂みで眠りにつく頃でした。大イノシシは北へ向かってどこまでも走りました。マコモやアシの丈の高い草に埋もれた枯れ野原は夕空に凪ぐ海原のようでした。しばらくゆくと黒い岩山がぬっとそそりたちました。


「首無塚だ」


 若様は虎千代とイノシシのぼうやを守るように、ぎゅっと抱き寄せました。首無塚の手前で、丈の高い草原は切れ切れとなり、ヒシやアカザやガマの隙間に水辺が広がりはじめました。イノシシは立ち止まって地面の匂いを嗅ぎました。大きな鼻先が深い草をかき分けると、雲母うんもがキラキラした乾いた土が現れました。


「大昔の川の跡です。これをたどるのです」


 イノシシはよく利く鼻で確かめながら、細い枯れ川の跡を踏みはずさないように進みはじめました。やがて水面に顔を出す水草も尽きて、とろりと泥の色をたたえた沼になりました。ひづめの先だけを濡らして一筋に突き進む大イノシシは、まるで水面を走ってゆくように見えました。


「ここが底無し沼ですよ。しっかりつかまって。絶対に落ちないように気をつけてね」


 イノシシのお母さんは背中の子どもたちに言いきかせました。次第に生き物の気配が薄れ、ときおり水面から卒塔婆のように突きだした枯れ木が風に寒々と鳴るばかりとなりました。星空から宵闇がおりてくるよりはやく、灰色の霧が水面をおおいました。


「さあ着きました。ここがうしとら沼。龍宮島への渡し場です」


 大イノシシが立ち止まったのは、三日月のような形をした細長い砂州でした。見上げるばかりに背の高い沼杉の影が、霧のなかに一列に並んでいました。


「龍宮島はこの先です。霧で見えないけれど遠くはありません」


 若様と虎千代は、お母さんの大きな背から滑りおりて、霧の奧をのぞきました。


「ここから先もお供したいのですけれど」


 ぼうやを背中にのせたお母さんはつらそうに顔をしかめました。その三日月の形の砂州は狭すぎて、イノシシの親子が休める場所はどこにもありませんでした。


「イノシシさんのおかげで、ここまで来られました。ありがとうございました」


 若様は心からお礼を言いました。


「もう大丈夫です。ぼうやをまた危ない目にあわせるわけにはいきません」


 虎千代も小さな頭を下げました。


 イノシシのお母さんは目に涙を浮かべて若様の頬に鼻先を押しあて、それから虎千代の耳の匂いを優しく嗅ぎました。


「二人とも忘れないで。いつでも味方がいることを。私の名は草薙姫くさなぎひめです。助けがいるときは、野に出て三度、この名をお呼びなさい」


 若様は胸が一杯になって、お母さんの顔を抱きしめました。


「草薙姫さん。このご恩は一生忘れません」


「それは、わたしの言うことですよ。若様」


 草薙姫は笑い声を詰まらせました。虎千代はあおむいて、おおん、おおんと遠吠えしました。


「ワカ。トラ。またね」


 遠ざかる大きな背中から、イノシシのぼうやが何度もこちらを振り返りました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る