十八章 草薙姫(2)
「ワカ。トラ。どっか行っちゃうの?」
ぼうやが不満そうにききました。
「もう日が暮れるというのに」
イノシシのお母さんも、とがめるように小さな目をまたたかせます。うつむいた若様を励ますように、虎千代の濡れた鼻面が手のひらに触れました。
「ごめんなさい。いそがないと、素羽鷹が戦になってしまうんです」
若様は虎千代の頭をなでながら言いました。
「なんですって」
お母さんは息を飲みました。
「どうして? 素羽鷹のお殿様は戦がお嫌いだったではありませんか」
「父上に鬼将軍が取り憑いちゃったんだ。それで僕、助けを呼びに行く途中だったの」
「ええっ!」
イノシシはその大きな体を震わせました。
「なんてことでしょう。申しわけありません。そんな大変なときなのに、うちの子を助けてくださったなんて」
「ちがうよ。ぼうやがセンケツだったもの」
センケツというのは若様お得意の台詞で、一番先にとっかかる仕事のことです。するとイノシシはくるりと背中を向けて膝を折りました。
「さあ、乗ってください。私がどこへでもお連れしますから」
「ほんとうに?」
若様は顔を輝かせました。
「もちろんですよ。どこに助けを呼びにゆくのですか」
「龍宮島です。素羽鷹の龍を呼びにゆくんです」
するとイノシシは大きく鼻を鳴らしました。
「ああ、どうしましょう。あの島には誰も渡れないのですよ。昔から」
「ええっ? そうなの?」
若様と虎千代が顔を見合わせると、お母さんがすまなそうにうなずきました。
「若様はうしとら沼を御存知ですか。龍宮島は沼のまんなかにあるのです」
「行ったことないんだけど、北の底無し沼のどこかなんでしょう?」
「ええ、そうです。うしとら沼はまわりを底無し沼に囲まれているのです」
若様とイノシシの間で、虎千代とぼうやが耳を立てて聞いています。
「沼のまわりが沼なの?」
「はい。底無し沼というのはね、浅瀬のヒシやアカザやガマの茂みでは水鳥たちが巣を作っていますから、ちょっと目には恐ろしくないんですよ。でもね、ぬかるみのあっちこっちから水が湧いてるんですよ。体の重いケモノや人間がそんなところに踏み込んだら、足が抜けなくなって沈むばかりなのです。あんなところに絶対に行ってはいけませんよ」
お母さんは子どもたちの目を見て言ってきかせました。
「そしてね、まんなかのうしとら沼だけは恐ろしく底が深いのです。龍宮島への渡し場には、一年中濃い霧が立ちこめているのですが、誰かが龍宮島に渡ろうとすると、その霧がまるで壁のように押し戻すのですよ」
「泳いでは渡れないの?」
若様が心細げに訊きました。
「水の中にも霧と同じような、見えないけれど触れない壁があるのです」
「どうしよう。虎ちゃん」
若様は泣きそうになりました。すると虎千代が短い尻尾を振りたてました。
「イノシシさんは底無し沼を渡れますか。うしとら沼までならば」
「ええ。龍宮島の渡し場までならば御案内できますよ」
イノシシのお母さんが請け合いました。
「連れていってください!」
虎千代が勇ましく咆えました。
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