十六章 和真先生、走る(3)

 人目を避けて城山を下りた和真先生は、昨日、若様と虎千代が歩いたあぜ道を角権現へとひた走りました。一の鳥居を抜けて二の鳥居へ。神橋のたもとの湧き水で乾いた喉をうるおしていると、急な石段を登っていく大きな風呂敷包みが見えました。


「ややっ? お里ばあではないか!」


 和真先生はうっかり大声で呼びかけてしまって、自分の口を押さえました。


「あらや。分福ぶんぷくでねえの」


 振り返ったお里ばあは、背負った風呂敷包みを揺すりあげました。


「そんなにあわてて、まあ、どうしただね」


「おばあこそ、どうしてここに。まず、それを持つから貸しなさい」


「いいんだよ。これは重かないんだ」


 お里ばあは先生の手から身をかわしました。


「腰に良く効くせんじ薬さ、やっぺしと思ってよ」


「こちらの石蕗つわぶき宮司ぐうじさんにかい。貸しなよ。転んだらあぶないから」


「さわるんでねえよ」


 おばあがすこしも足を止めないので、先生は汗をかいて追いかけました。


「それよりおばあよ。今日はお城にいってはならぬ。大変なことが起きてしまったのだ」


「なんだい、鬼将軍でも出たっけか」


 お里ばあがニカニカと笑ったので、和真先生もつられて笑いそうになりました。


「いやいや。笑いごとじゃないんだよ、おばあ。その鬼将軍なんだ。お殿様が鬼将軍に取り憑かれてしまった。御家来衆も、みんなだ」


「あれまあ。若様は?」


「おいおい。もっと驚いとくれよ。若様は御無事だ。虎千代と龍宮島に向かわれた」


「そりゃ、たいしたもんじゃ」


 お里ばあは嬉しげに目を細めました。


「鬼将軍は戦さを始める気なんだよ。危ないから、おばあはどこかに隠れなさい」


「ばか。おめえ。隠れて何になるね」


 お婆の細い目がキラリと光りました。


「ええっ?」


 先生は驚いた拍子によろけて石段に手をつきました。


「したっけ、鬼の思い通りでねえが。ほれ、いくべ。分福!」


「ええ? ちょっと。おおい、待って。足早いな」


 ちゃっちゃと石段をあがっていくお里ばあの後を、和真先生は息を切らしてついてゆきました。


「こら! このハゼ宮司が!」


 三の鳥居をくぐるなり、お里婆はそこにいた角権現の石蕗宮司を怒鳴りつけました。


「誰がハゼじゃ!」


 くたびれた烏帽子を頭にのせた老宮司が目をむきました。髪にはすっかり霜が降りていましたが、たくましい体躯におとろえは見られず、さむらいのような面構えです。


「なんじゃい。お里ばあでないか」


「お里ばあ! 和真先生も!」


 勉強道具を包んだ風呂敷包みを抱えた花野子ちゃんが、祖父の隣で目を丸くしていました。ちょうどこれからお城へ上がろうとしていたところで、今日は白い小袖に浅黄色あさぎいろの袴をつけて、長い髪を赤い紐で結っていました。


「おめえのような有難みのない宮司はな、いくらでも釣れるハゼみたいなもんじゃ」


 お里ばあが憎まれ口の続きを言いました。


「ひどいのう。それはひどすぎやせんか、お里ばあよ」


 石蕗宮司はやれやれと顔をしかめました。誰もお里ばあにはかなわないのです。


「したっけ鬼将軍が出てきたでねえか! お前の祝詞のりとがへっぽこだからじゃ!」


「ええっ? 鬼将軍が!」


 花野子ちゃんが真っ青になりました。


「どこに出たの?」


「お城です」


 後ろから和真先生が答えました。


「和真でねえか。若様のおそばにおらんで、なんでここにおるんだ?」


 老宮司が、先生にいぶかしい顔を向けました。


「その事を知らせに来たんです。とにかく中に入りましょう」


 和真先生が辺りを気にしながら、みんなをせかしました。


「なんだ、若造のくせに。なんで、わしに指図するんだ」


 気難しい宮司がヘソを曲げました。


「じいちゃん、いいから、早くして」


 ただならぬ気配を察した花野子ちゃんが、老宮司の袖を引っ張りました。


「そんだ。若造はおめえだ。ばかたれ。ぐずっぺ。じきに鬼将軍が来るっぺが!」


 横からお里ばあがののしりました。


「ここに来るんけ? なにしに来るべさ?」


 血相けっそうを変えた宮司が素羽鷹なまりで尋ねました。


「龍の三宝をねらって来るに決まっとるべさ!」


 お里ばあは老宮司の作務衣さむえの背中をはたきました。

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