十六章 和真先生、走る(2)

 先生は大きな体をかがめて、リスをしげしげと観察しました。


「そういえば若様が、城山のリスを傷つけてはならぬとおおせられていたな。もしや、お前さんは若様のお友だちかい?」


 リスはコクコクとうなずきました。


「やはり、そうか!」


 ドングリの洪水を思いだして吹き出しかけた先生でしたが、はっと我に返りました。


「すまないが、いまはそれどころではないんだ。これにて失敬」


 ところがリスは先生の袴を駆けのぼり、胸元に挟んでおいた家老の血文字の布をくわえて地面に飛び下りました。


「それはダメだよ! こら、返せ!」


 ツゲの植え込みにもぐりこんだリスを追いかけて、和真先生も大きな体を腹ばいにして狭苦しい木の根元にはいこみました。すると、ちょうどそこへお殿様と家老がやってきたのです。リスのふわふわしたシッポが、すかさず先生の口をふさぎました。


「虎千代は捕まえたか」


 まさか足元に和真先生とリスがいるとは気づかずにお殿様が尋ねました。


「ただいま家中かちゅうの者が追いかけております」


 血のにじんださらしで痛々しく片腕をつった家老が答えました。


「残りの者どもには戦支度を急がせよ。明日は武石を落とす」


 お殿様が石のように冷たい声で言いました。


「かしこまりました」


 武石を落とすだって? 和真先生は息が止まりそうになりました。


「これより武具の蔵を検分する」


「では、こちらへ」


 するとそこへ、お殿様の足元に走りでてきた者がいました。


「なんだ。お前は」


 お殿様の見おろす先には、あの猿の大納言が坐っていました。


「馬屋の猿でござる。なぜこんなところに」


 家老が言いました。すると大納言は手にしたものをお殿様に捧げました。


「なんだ。これは」


 木の間越しにお殿様が手にした巻物を見て、和真先生はぎょっとしました。それは花野子ちゃんが見つけた古文書だったからです。猿の大納言はお殿様の足元から、その顔をじっと見上げて離れません。


「ほほう。なかなか面白いな」


 お殿様は古文書を読むと家老に渡しました。


「武石は後回しだ。この竜宮島とやらへ行く」


「かしこまりました」


 そして二人が歩み去ると、大納言もその後を追いました。




「殿様も、御家老様も、大納言も。いったいどうしたんだ」


 先生は植え込みに這いつくばったまま頭を抱えました。すると、リスが目の前に走りでてきて、血文字の布を地面に置きました。


「なんだい? 返してくれるのかい?」


 リスは顔を左右に振ると、小さな後足で鬼の一文字を踏みました。そして、たったいまお殿様の去っていった方角を片方の腕で指し示したのです。


「なんのことだ」


 先生は首をひねりました。


「ええと。これは、鬼?」


 リスが嬉しげにうなずきました。


「それで、あっちは殿?」


 リスはもう一度うなずき、同じ仕草を何度もくりかえしました。


「鬼。殿?」コク、コク。


「鬼で。殿?」コク、コク。


 賢い和真先生は、はっと思い至りました。


「まさか。殿が鬼将軍だという意味か? 殿は鬼に取り憑かれてしまわれたのか?」


 リスが大きくうなずきました。


「では若様は、どうされたろう? 知ってるかい?」


 すると、リスが別の方角を指しました。


「武石はそっちじゃないぞ。その方角はうしとらだ」


 リスがまた大きくうなずきました。


「うしとら。そうか、若様はうしとら沼の龍宮島に行かれたのだな」


 リスが嬉しそうに前足を打ち合わせました。


「虎千代も一緒なのかい?」


 リスがもうひとつうなずいたので、先生は額の汗をぬぐいました。。


「そうか。そうだったか。ならば若様だけでも助かるかも知れない」


 目を潤ませた先生は植え込みで居住まいを正し、リスに深くお辞儀をしました。


「リス殿よ、よくぞ教えてくださった。この御礼はいつか必ずお返しいたします」


 そして、はっと膝を打ちました。


「そうだ。じきに花野子がここへ来る。あの子が捕まってしまったら大変だ。一刻も早く事の次第を伝えて逃がさねばならぬ。失敬しっけい、リス殿。うちの弟子が危ないのだ。これにて御免ごめんつかまつる」


 駆けていく和真先生を見送った倫太郎は、小さなこぶしで鼻水をぬぐいました。


「ありがてえじゃねえか。こんなちっぽけなリスを相手に最敬礼できるお方なんざ、めったにいねえよ。かかあに怒鳴られた甲斐があったぜ。さて、もう一仕事だ」


 リスは尻尾をひるがえして、たちまち見えなくなりました。

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