十七章 鏡権現の井戸(1)

 若様は知りませんでしたが、その昔、ここには薬師如来やくしにょらい様をまつったお寺があって、いく棟もの僧坊そうぼうが並びたち、大勢のお坊さんが修行していました。さっきの古びた石段もこの井戸も当時に作られたものだったのです。薬師寺の鎮守社ちんじゅしゃとして井戸の脇に建っていたのが鏡権現かがみごんげんと呼ばれるおやしろでした。


 若様は両手で縄をつかんで、少しずつ井戸を下りてゆきました。シダが茂っているせいで井戸の底は見えません。周囲の壁にはわずかな隙間もなく玉石がはめ込まれ、昔の石工の見事な技を伝えておりました。石に生えたコケでぬるりとすべるたび、若様はドキリとして縄を握りなおしました。やがて暗さにも目が慣れたころ、ひやりと冷たい風が足の下から吹いて来てシダの葉をカサコソと鳴らしました。


「きゅうう。きゅうう」


 イノシシのぼうやの泣き声が、とても近くから聞こえました。


「おおい。助けにきたよ」


 若様は井戸の底に向かって呼びかけました。すると。


「ぶうう!」


 若様の耳の穴に熱い鼻息がかかりました。


「わあああ!」


 くすぐったいのとビックリしたので、若様は綱を手放してしまいました。


 ――もの凄く痛いか、冷たいか。それとも両方?


 身を固くちぢめた若様は、柔らかい砂地にどすんと尻もちをつきました。


「はああ、恐かったあ」


 若様は冷や汗をぬぐいました。落ちた高さは、せいぜい大人の背丈ほどだったようです。井戸の底の砂はちょっぴり湿っているだけで水はありませんでした。


「わかさまあ! どうしたのお! だいじょおぶうう?」


 虎千代のきゃんきゃん咆える声が、井戸の中に反響しました。見上げた丸い青空に縁取られた虎千代の黒い影が耳をぴんと立てて、こちらを見おろしています。若様は手のひらで口を囲って叫び返しました。


「大丈夫だよお。井戸の底についたよお」


「ぬれちゃったあ?」


「水、無かった!」


 驚いた虎千代が、おん、おんと鳴きました。


「もう引っ張りますかあ?」


「まだだよお。待っててえ」


「はあい」


 若様は井戸の底を見回しましたが、イノシシのぼうやの姿はありませんでした。


「おかしいなあ。どこにいるんだろう?」


 若様は鼻息を浴びた耳をかきました。すると。


「ココ」


 頭より、すこし高いあたりから声がします。


「どこだあ」


「ココ」


 声のする方を見上げると、石の間から生えたシダの茂みがゴソゴソと揺れます。


「わかった。待ってて。いま行くからね」


 もう一度縄を握ると、若様は井戸を登りはじめました。

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