十六章 和真先生、走る(1)

 お殿様が若様の寝間に現れた頃、息せき切ったお晴が和真先生の四阿に駆け込んできました。


「兄さん!」


「どうした。お晴。こんな早くに」


 兄と妹は見つめあう目元がそっくりです。


「たったいま、御家老様が若様のお部屋にいらして、すぐにこれを兄さんに届けよと。届けたらその足で母上を連れて東條の叔父上の家へ急げとおっしゃいました」


 お晴は震える手で小さな布の切れ端を兄に渡しました。肌襦袢はだじゅばんの端を裂いたものと思われる白い布切れには、赤く一文字「鬼」とありました。


「これを御家老様が」


 和真先生は顔色を変えました。まぎれもなく血で書かれたものでした。


「若様はどうされた?」


「分かりません。御家老様が障子を立ててしまわれて。申しわけありません」


 お晴は涙ぐんでいました。


「謝ることはない。心配するな。後はわたしに任せなさい」


 和真先生はお晴の肩をたたいてなぐさめました。


「お前は御家老様のお言いつけ通りにするのだ。あの方が間違いを言うはずが無い。母上を頼むぞ。とにかく急げ。荷物など一切持つでないぞ」


「はい。兄さんは?」


「わたしは、若様をお助けしに行く」


 先生は机の古文書を数冊、手早く風呂敷にくるむと着物のふところに押し込みました。


「東條の叔父上によろしくな」


 和真先生は中庭を突っ切って若様の部屋に向かいました。

 すると、向こうからお城の御家来衆が何人も走ってきます。いつもの気安い挨拶は一切無く、みんな先生が目に入らぬかのように、黙って城山を下ってゆくのでした。


「おおい。どこに行かれる」


 先生はしんがりのさむらいの肩をとらえて尋ねました。


「虎千代を捕らえにゆく」


 その男はなんの表情も浮かべずに答えました。


「虎千代を?」


 先生は目を丸くして聞き直しました。


「虎千代が武石へ向かった。追いかけて殺す」


 石のような目をしたさむらいは、先生の腕を振り払って走り去りました。


「何のことだ。いったいどうなってるんだ?」


 首を傾げて歩きだした先生の足元に、小さな生き物が走り寄ってきました。


「おっと、あぶない」


 背の高い先生がつんのめるようにして立ち止まると、可愛らしいリスが後足で立って、こちらをまっすぐに見上げています。そのリスが深くお辞儀をしたので、先生はびっくりしました。


「これはどうしたことだ。私は夢を見ているのか」


 笑っているような顔のリスが、なにか言いたげに先生の目を見返しました。

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