十五章 怪物の頼み(2)

 大イノシシは雑木林の茂る丘をぐんぐん駆けのぼります。

 立木をさけて右に左に小刻みに向きを変えるので、若様と虎千代は今にも振り落とされそうでした。若様が腕に力を込めてしがみつくと、今度はいきなり頭から真っ逆さまに落とされそうになりました。丘の斜面を下りはじめたのです。

「きゃん」虎千代が前のめりに落ちそうになったので若様は危うく胸に抱えこみました。大イノシシはどんどん速度を上げて走り続けます。その背中に顔を押し当てていた若様の耳に激しく脈打つ鼓動に混ざって、かすかな声が届きました。


「ぼうや。間に合っておくれ」


 ふいに腕の間から青い空が見えました。気がつくと大イノシシは沼の岸に広がるアシ原を走っていました。もう木の梢に払い落とされる恐れがなくなったので、頭を上げて辺りをながめると、花野子ちゃんと渡ったつるはし岬がすぐ右手に見えました。


「花野子ちゃんが一緒だったらなあ」


 ため息をつくと、ふわっと体が宙に浮きました。


「うわあー」 「おーん」


 若様と虎千代は頭から水しぶきをかぶりました。大イノシシが水に飛び込んだのです。イノシシは肩先だけ水から上げて泳ぎだしました。走るのと変わらない速さです。沼に群れていたフナやドジョウが逃げまどい、水鳥たちが飛び立ちました。

 たちまち向こう岸に渡り切ったイノシシは濡れた体をブルブルと震わせて毛皮の水を振り払ったので、水と一緒に飛ばされかけた若様と虎千代は濡れたたてがみに必死にしがみつきました。


 ようやく大イノシシが足をとめたのは、角権現から素羽鷹沼を西へ渡った対岸でした。草深いくぼ地に白いハギや紫のキキョウが風に揺れています。足もとからはじまった古い石段がなだらかな丘の上へとつづいています。その先には、紅葉したナナカマドの木が門番のように根を下ろしていました。


 大イノシシはかがんで若様と虎千代を地面に下ろすと、大声で叫びました。


「ぼうやあ! ぼうやあ!」


 若様は耳を澄ましましたが、返事はありません。

 大イノシシはもう一度呼びかけました。


「ぼうやあ! 助けにきたよお! 返事をしなさい! ぼうやあ!」


 もう一度耳を澄ますと、かすかに泣き声が聞こえました。


「ああちゃあん。ああちゃあん」


 大イノシシは涙を流しました。


「ああ、神様。ありがとうございます。あの子はまだ生きてる!」


 若様に向き直った大イノシシは丘の上を鼻で指し示しました。


「どうぞ、そこの石段を登っていってください。あのナナカマドの木のところまで」


 大イノシシは震える声で説明しました。


「あの場所で、うちの子が亀のこうらのような形をした石を見つけたのです。ひずめで蹴るといい音がするものですから、その石の上ではねて遊んでいたのです。そしたら、いきなり石が砕けて割れて、その下に隠れていた深い穴に落ちてしまったんです」


 大イノシシは後足で激しく地面をけりました。


「やめさせればよかった。あたしが気をつけていれば」


 地面がぐらぐら揺れて、若様と虎千代は立っていられなくなりました。


「イノシシさん、そんなところに穴があるなんて、誰も気がつかないよ」


「そうですよ。イノシシさんのせいじゃないです」


 二人がいっしょうけんめいなぐさめると、大イノシシはやっと暴れるのをやめました。


「あわてて助けだそうとしたら、穴の回りの土が崩れそうになったのです。ここらの地面はとても柔らかいのです」


 大イノシシは前足の間に鼻をうずめて激しく泣きくずれました。


「僕らで見てくるから、ここで待ってて」


 その場にイノシシを残して、若様と虎千代は古い石段を登ってゆきました。

 ナナカマドの根元はイノシシに踏み荒らされて、黒い土があちこちで顔を覗かせていました。そこには緑青ろくしょうをふいた鋳物いものの破片がいくつも転がっています。


「イノシシのぼうやが乗って遊んでいたというのは、これかな」


 かけらをひとつ手に取ってみると、ずしりと持ち重りがします。難しい漢字がいくつか浮きぼりになっていました。


「とても古い匂いがしますよ」


 虎千代がふんふんと匂いをかぎました。


「お二人も穴に落ちないように気をつけてね。草に隠れていますから」


 大イノシシが下から心配そうに言いました。


「はあい」 「はあい」


 二人はイノシシのぼうやが落ちたという穴を探し始めました。


「わかさま。あれはなんでしょうか」


 先に気づいたのは虎千代でした。風もないのに葉がひるがえるシダの一群れがありました。その草陰から、たえず冷たい風が吹きあがってきます。茂りあう葉をかき分けてみると、石積みの井戸が暗い口を開けていました。


「なんでこんな場所に井戸があるのでしょう」


 虎千代があやしんでうなりました。


「昔はここに人が住んでいたのかも知れないね。石段もあるくらいだから」


 若様が言いました。


「なるほど。さすが、わかさまです」


 虎千代は感心して言いました。


「おおーい。助けにきたぞー」


 若様は暗い井戸の底に向かって叫びました。すると。


「ああちゃーん?」


 幼い声で返事がかえってきました。若様と虎千代は顔を見合わせました。


「ぼうやだ!」


「ぼうやですね!」


 若様はもう一度呼びかけました。


「おおーい。おかあさんに頼まれてきたんだよお。怪我はないかー?」


「お腹が空いたよお」


 井戸の底から、ぼうやの声が言いました。


「あんよは動くかあー?」


 若様が叫ぶと、ちょっと間が空きました。動かしてみているのでしょう。


「動くよお」


 どうやら怪我はないようです。


「いま行くから待ってろお」


「こわいよう。ああちゃああん」


 イノシシのぼうやは、またきゅうきゅうと泣きだしました。

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