十五章 怪物の頼み(1)

「あなた様は妙見菩薩みょうけんぼさつ様のおつかいでしょう?」


 小山のように大きな怪物は優しげな女の人の声で訊ねました。


「ううん。違います」


 若様がぶるぶると顔を左右に振ると、怪物がドシンドシンと地団駄じだんだを踏んだので、また地面がぐらぐらと揺れて、若様と虎千代は慌てて抱き合いました。


「隠さないでくださいまし。狼の従うは、神様のおつかいと決まっています」


「そうなの?」


 若様は目を丸くしました。


「そうですとも。イノシシなら、どんな小さい子どもでも知っています」


「え? イノシシ?」


 そう言われて大きな怪物の姿をよくよく眺めると、泥んこの切り株かと思ったのは大きな鼻面で、めくれ上がった唇から鋭い牙がのぞいていました。そして長いまつげに縁取られた目には悲しげな涙がたまっていました。


「人違いです! こちらはカミサマではなくて、ワカサマです」


 虎千代がキャンキャンと咆えました。


「まあ、なんということでしょう。それでは、うちの子が死んでしまう」


 大イノシシは天をあおいで、小さな目から涙をポロポロこぼしました。

 若様は気の毒になって尋ねました。


「あの、いったいどうしたっていうんですか?」


 大イノシシは鼻をすすって答えました。


「うちのぼうやが深い穴に落ちてしまったんです。助けだそうとしたのですが、あたしはこんな大きな図体ずうたいなもので、穴がつぶれてしまいそうで近づけないのです。どうしたらよいか分からず駆けまわっておりましたら、あなた様をお見かけしたのです」


 これを聞いた若様はむこうずねの痛みも忘れて立ちあがりました。


「それは大変だ。すぐ行かなくちゃ! 案内してください!」


「おお、なんとご親切なこと。どうぞあたしに乗って下さい」


 喜んだ大イノシシは、こちらに背を向けて腹ばいになりました。みっしりと生えた硬い毛をつかんで、その背中に登りかけた若様は、はっと手を離しました。


「ごめん。いま、ぎゅって引っ張っちゃった。痛かったでしょう?」


「いいえ。ちっとも」大イノシシの背中が言いました。

「お優しいのですね。何ともありませんから、どうぞ遠慮なく。さあ登ってくださいな」


「そうか。良かった」


「わかさまあ。置いていかないでよう」


 ぴょんぴょん跳ねて虎千代が呼んだので、若様は戻って抱っこしてやりました。


 山のような体を登っていくと、背筋にそって黒いたてがみがふさふさと逆立っていました。肩の間の一番高いところにまたがって、そのたてがみを両手でつかむと、大イノシシは折り曲げた四肢を伸ばしました。大きな体が立ち上がると地面がぐんと遠くなりました。


「しっかりつかまっていてくださいよ」


 大イノシシはひとつ身震いすると、まっしぐらに走り出しました。虎千代を股に挟

んだ若様は馬に乗るような格好でたてがみにしがみつきました。紅葉した梢が左右に飛び過ぎていきます。大イノシシは馬よりもはるかに早い乗りものでした。


「うわあっ!」


 張りだした枝になぎ払われそうになって、若様はとっさに身をそらせました。


「わかさま。大丈夫ですか」


 虎千代が震えて言いました。


「家老の槍から逃げまくってきたのが、役に立ったかも」


 若様は虎千代の上に低く身を伏せました。


「おーい、まりしてん様のおつかいが出たぞお」


「脇によけろやあ。踏みつぶされるぞお」


 素羽鷹の村人が、口々に叫ぶ声が聞こえました。


「若様。摩利支天まりしてん様のおつかいって、このイノシシさんのことでしょうか?」


 胸元から虎千代が訊きました。


「きっとそうだよ。摩利支天様のおつかいが里に出た年は豊作になるって、お里ばあから聞いたことがあるよ」


「摩利支天様って、どんな神様なんですか?」


「強い女の神様でイノシシに乗ってるんだって。もしも出会ったら必ず道を譲らないといけないんだよ。そうしないとバチが当たって死んじゃうんだって」


 虎千代が耳をピクピク動かしました。


「そんな恐しい方なんですか」


「うん。乗せてもらえて良かったね、虎ちゃん」


「はい。良かったです」


 若様が恐がるどころかわくわくしている気配に虎千代はほっと安心しました。

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