十二章 石の目(1)

「殿。お早うございます」


 大椎おおじい権之助ごんのすけは早起きです。毎朝夜明け前に起きて身支度を済ませ、日の出とともに一の丸屋敷のお殿様の居間にうかがい、御挨拶を交わすのがならいでした。ところが今朝のお殿様はまっすぐ前を向いたまま返事をしません。


「殿。いかがなされた」


 もう一度呼びかけると、お殿様が感情の無い声で言いました。


「おまえは誰だ」


「いったいなにをおおせられますか。朝からお戯れはおよしくだされ」


「おまえは誰だ」


 ついぞ聞いたこともない乾いた声でした。いつもなら何を見ても面白くてたまらないというように輝いている瞳が、まるで石のようです。


「これなるは、一の家老。大椎権乃介でござる!」


 家老は大声ではっきりと名乗りました。それでもお殿様はまるで顔色を変えません。石のような瞳はどこか遠くを見ています。家老は脇に控えた末広丸にそっと尋ねました。


「末広丸。殿はどうされたのだ。いつからこうなのだ」


 末広丸は無言で正面を見すえています。


「これ。末広丸。どうした」


 真正面を向いたまま動かない末広丸の目を見ると、お殿様とそっくりに石のようでした。家老の背筋をぞくりと冷たいものが走りました。そのとき。


「一の家老。大椎権之助」


 お殿様が、からくり人形のように顔の向きを変えました。


「おお。やっとわしがお分かりですか」


 ほっとした家老がお殿様の眼差しをまともに受けとめるや、頭の芯が重く痺れました。朝日の差しこむ明るい部屋が、突然に墓穴のように暗くなりました。


「我らは武石を攻め落とす。ただちにいくさの準備にかかれ」


 お殿様は石の目で申しわたしました。


「なんですと!」


 家老の白い鍾馗眉がはね上がりました。


「武石は御親戚ではありませぬか」


「うむ。さぞ油断しておろう。たやすく勝てようぞ」


(バカな!)

 異を唱えようと口を開けましたが、どうしても、ものを言うことが出来ません。視界はさらに暗くなり、どんよりとした痺れがこめかみから頭全体を覆ってゆき、家老の意識を奪いました。それに抵抗しようと思うことさえも辛くなりました。


「ははあ」


 ついに崩れるように平伏した家老の目に映ったのは、朝日に伸びたお殿様の影でした。その影には首がありませんでした。


(こやつは鬼将軍だ)

 家老は死にものぐるいで泥のような痺れと闘いました。

(鬼将軍の魂が殿に乗り移ったに違いない。古文書の「龍の災い」とはこのことか)


 お殿様はさらに言いました。


「武石の次は大須賀。ついで相馬、東條。印波六国をすべて我がものとする」


「しかし、この城には、それほどの戦に必要な蓄えがございませぬ」


「足らぬなら、落とした国から奪えばよい」


 むごい言葉に胸が煮えくりかえります。家老はぎりぎりと歯を食いしばりました。石の目に逆らって己の意識を保とうとすると頭が真っ二つに割れそうに痛みました。


「ただいま支度をしてまいります。しばしお待ちを」


 いま一度平伏してお殿様の前を辞すと、家老はよろめきながら廊下に走りでました。

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