十二章 石の目(2)
「若様!」
血相を変えた家老が若様の寝間に駆けこんできました。
「はい。ごめんなさい!」
飛び起きた若様はいつもの習慣で家老に謝りました。
「ただちに身支度をなされませ!」
怒鳴りつけられた若様は死にものぐるいで寝間着を脱ぎました。若様と同じ布団で眠っていた虎千代は寝ぼけて足元を駆けまわっています。いつもはお女中のお晴が身支度を手伝ってくれるのですが、今しがた家老に追い出されてしまいました。代わりに家老が着せてくれたのは、遠出の折に着る丈夫な紺紬の小袖と袴でした。それに
「若様。二度とこの素羽鷹城に戻ってはなりませんぞ」
朝稽古では常に汗一つかかない家老が、額から滝のような汗を滴らせていました。
「ええっ! なんで?」
若様は、ぽかんと口を開けました。
「お殿様が鬼将軍に取り憑かれてしまわれました」
家老は驚いてものも言えない若様の目を見つめました。
「これは龍の災いでござる。殿はこれから武石の国を攻めなさるおつもりじゃ」
「叔父さんのとこを?」
若様は家老の頭がおかしくなったのだと思いました。武石のお殿様は素羽鷹のお殿様とは従兄弟同士で大の仲良しです。戦など絶対に考えられません。
「殿は正気ではありませぬ。鬼将軍に魂を操られてしもうた」
家老はうめくように告げました。
「殿だけではございませぬ。この大椎も敵の幻術にかかり、こうして正気を保っておられるのも束の間でござる。よいか、若様。一刻も早く、この城から逃げるのです。万が一、殿と出くわしても目を合わせてはならぬ。儂のように幻術にかかってしまいますぞ」
家老の膝に置いたこぶしはブルブルと震えていました。
「いそぎ武石へお逃げなされ。叔父上様に守りを固めよと伝えるのじゃ。叔父上様なら必ずかくまってくださる。これ、虎千代。きっと若様を守るのじゃぞ」
「なんだよ、それ。家老、家老ってば」
若様は泣いて家老の袖にしがみつきました。
「いやだよ。怖いよ。そんなことできないよ」
いきなりお城から逃げろなどと云う家老の方が、鬼将軍よりもよほど怖くみえました。
「泣いてもどうにもならぬ。さっさと行きなされ。このヘナチョコが」
家老の筋張った手が、若様の両の肩をつかんで引きはがします。
「いやだよお。家老も一緒に来てよ」
「なりませぬ。これよりさきは、わしも敵の手先と思いなされ」
「うそだ!」
若様は目を閉じて泣きわめきました。
「来てくれなきゃ絶対いやだ! 僕一人でなんか絶対行かない!」
家老の鍾馗眉が逆立ちました。
「しっかりせんか!」
激しく頬を打たれて床に転げた若様は、痛みで息が止まりそうになりました。
「素羽鷹の跡継ぎともあろう方がこれしきで
泣くまいと歯を食いしばって目を開けると、家老がこぶしを震わせて若様をにらみすえています。いま、その目から一筋の涙がこぼれ落ちました。
「若様。お許しくだされ。古文書にあった通りに、ただちに若様と虎千代を龍宮島に送りだせば、おそらくこのようなことにはならなかったものを。花野子の忠義を無にしたのは大椎の
生まれてはじめて家老の涙を見た若様は息を飲みました。
「かくなるうえは若様だけでも、なんとしてもお逃げくだされ」
「家老」
小さな若様にもようやく分かりました。家老は若様だけでも助けてくれようとしているのです。でも自分が逃げだした後、父上や家老やお城のみんなはどうなるのでしょう。若様の体がガクガクと震えだしました。しかしそのときふいに古文書のお告げが思い出されたのです。
「家老。龍宮島ってどこにあるの?」
家老の眉毛がいぶかしげに上がりました。
「北の底無し沼の奧、うしとら沼に浮かぶ島でござる。あの光の柱が立ったところじゃ。しかし」
「あそこか。分かった!」
勢いよく立ち上がった若様の足元で虎千代が尻尾を振っています。
「僕が龍を呼んでくる! 絶対戻ってくるから待ってて!」
「ばか者! 武石へ逃げるのじゃ!」
家老が慌てて呼び返そうとしました。
「武石の叔父上より素羽鷹の龍の方が絶対強いよ! 鬼将軍をやっつけてくれるよ!」
若様が負けずに言い返したので、家老は驚きあわてました。
「いかん! うしとら沼は子どもがゆけるところではない!」
「行けるよ! 龍宮島に行けって古文書に書いてあったじゃないか!」
若様は中庭へ降りるつもりで、縁側に向いた障子に手をかけました。
そのとき。家老がかすれた声を絞りました。
「いかん。若様、逃げよ。影じゃ!」
「影って?」
若様が振り返ると、朝日を浴びた白い障子に首の無い黒い影が映っていました。
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