五章 昔話の龍(1)

「若様。参りますぞ」


 袴の股立ももだちを取った家老は、槍のさやを脇にはらいました。


「はい! お願い申します!」


 刺し子の稽古着けいこぎに着替えた若様は、刀を抜いて構えました。

 ここは二の丸御殿の中庭です。素足で土に降りた二人は向き合って礼をしました。素振りに始まる朝稽古あさげいこの仕上げは、必ず槍と刀の真剣勝負でした。


「えいや!」


「たあ!」


 槍の穂先と刀の刃が朝日にきらめきます。


「それ! それ! かかってこい!」


 身の丈の倍もある長い槍を軽々とあやつって、家老は若様に突きかかりました。


「右。左。そら、右。そら、上。なんじゃ、その屁っぴり腰は!」


 若様はかかっていくどころではありません。大椎権之介といえば知らぬ人とてない天下無双の槍のつかい手なのです。悲鳴を飲みこんで槍の穂先をかいくぐり、跳び越え、身を伏せ、全速力で走って木立の茂みへと逃げ込みました。毎日こうして木に登ったり庭石の陰に身を隠したりして、逃げて逃げて逃げ回るのですが、家老はどこまでも追ってくるのでした。そして今日もまたお決まりの池のふちまで追い詰められました。


「若様。覚悟!」


 槍の切っ先が、ブンとうなりをあげて若様の眉間を貫こうとしました。それを危うくかわしてのけぞると、今度は槍の柄がよこざまに払われて若様の足元をすくいました。あっと思ったときには水しぶきが高くあがって、若様は背中から池に落ちていました。鯉の群れにワッショイワッショイと胴上げされた若様は、池の水を飲んでもがきました。


「ひどいよ。家老」


 またしても全身ずぶ濡れです。水をしたたらせてようやく立ち上がると、打たれたすねがジンジン痛みます。ところが濡れた手をかけた池の縁石に、ズンと槍の石突きが突き立てられました。


「戻れ! さっさと刀を拾わんか!」


 低く腰をためた家老は、今にも突きかからんとする構えでした。


「死にたいか! ここが戦場いくさばなれば、なんとする!」


 若様を睨みすえる目が鬼のようです。


「ごめんなさい!」


 泣き声で謝った若様は冷たい水をザブザブとかき分けて取ってかえし、沈んでいた刀を握りしめました。かじかんだ指が風にさらされて千切れそうに痛みます。鼻水をすすりあげると、家老が吐き捨てるように叱りました。


「これっしきで泣くな! ヘナチョコが!」


 着替える暇もなく真剣勝負は続きます。やがて若様の濡れた刺し子から湯気があがりはじめました。

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