五章 昔話の龍(2)

「――お願い申します」


 若様のかすれた声が四阿あずまやの引き戸を開けました。中庭の一隅にあるこの四阿は、もとは茶室だったのですが、和真先生が若様の学問指南役に召し抱えられたときから、書庫を兼ねた住まいとして借り受けていたのです。


 いつもの坐り机に向かうなり、若様はバッタリとうつ伏せました。


「若様。どうなさいました」


 先生の灰汁あく色の袴の膝でウトウトしていた虎千代が、目を覚まして若様のそばに駆けつけました。


「また家老に殺されかけた」


 突っ伏したまま若様がうめくと、先生ははじけるように笑いました。


「笑うけどさ。先生。毎朝、ほんとに命がけなんだからね!」


 虎千代に顔をなめられながら、若様は泣き言をこぼしました。


「御家老様に毎日鍛えられておられれば、若様はさぞかし強くなられるでしょう」


「だめだよ。毎日、ヘナチョコ、ヘナチョコって言われてるもん」


「あの達人について行けているだけでも、若様は大したものですぞ」


「そうかなあ」


 若様は弱々しく頬杖をつきました。


「そういえば、花野子ちゃんは?」


 いつも若様の隣に坐っている花野子ちゃんの姿がありません。


「まだお殿様のところです」


「先生、花野子ちゃんが言ってた、お告げってなに?」


「え? それは――。ううううーん」


 先生はコガネムシの羽音のようなうなり声をあげました。


「ええと。実は……。御家老様から他言無用とのおおせつかりましたので、まことに心苦しいことながら、申し上げられないのでござる」


 語尾が「ござる」になるのは、和真先生がよほど困ったときです。


「ああ。家老が駄目って云うなら、いいや」


 若様はまた机に突っ伏しました。


「拙者も申し上げられなくて残念ざんねん至極しごくでござる」


 若様の小さなまげを、先生はすまなそうに見つめました。


「では、はじめますよ」


「はあい」


 若様は居住まいを正して、論語の本を開きました。


「昨日の続きを読みましょう。のたまわく、とくならず。必ずとなりり。続けて」


「子曰わく、德は孤ならず。必ず鄰り有り」


「はい良く読めました。さて若様。これはどんな意味だと思いますか」


 先生がにこやかに質問しました。


「はい。先生がおっしゃいました。德さんはキツネじゃありません。あれ、德さんて誰だろう?」


「あはははは」


 先生は上を向いて笑いだしました。僕はそんなに面白いことを言ったのかしら。若様はすこし得意になりました。


「若様。弧は、こ、こここ」


 ニワトリみたいな声で笑いながら、先生は脇腹を押さえています。


「若様、孤はけものへんではなく、子へんでございます。よく御覧ください」


 若様はいま読んだ頁を見直して、はっと目を丸くしました。


「本当だ。キツネじゃないや。弧って、孤舟こしゅう載月たいげつの孤だ!」


「おお! 素晴らしい。その難しい言葉をよく御存知でしたね」


 先生は若様を褒めました。


「家老の部屋の掛け軸に書いてあったの」


 湖に浮かぶ一人ぼっちの舟がお月様を乗せているのですよと、家老から字面じづらの意味を教えてもらいました。そのとき若様は、なんかカッコいいなと思ったものです。


「孤はみなしごのこと。一人ぼっちという意味です」


 先生が説明してくれました。


「德は孤ならず。必ず鄰り有り。つまり德のある人間は決して一人ぼっちにはならない。どんなときにも寄り添ってくれる仲間がいるものだ、ということです」


「そうかあ。僕にも德あるといいなあ。それで德ってなに?」


 先生はまた吹き出しかけましたが、エヘンと咳をして立ち直りました。


「德とは、人徳、道徳などと、人となりの理想を表す言葉に使われます。仏教では、徳を積むことを功徳くどくと云いますね」


「いっぱい善いことをすると御利益ごりやくがあるんでしょう?」


「お釈迦様のおっしゃる德は、ひとつひとつ積み重ねてゆくものですが、孔子様の目指す德は、努力して磨きあげた心そのものとでも申しましょうか。難しいですか?」


「ううううう。わかりません」


 若様は正直に言いました。すると先生は微笑んでうなずきました。


「すぐに分からなくて良いのです。折に触れて考えて参りましょう。徳は生まれつき備わったものではありません。心がけて身につけるものです。例えば、他人の気持ちを思い遣ろうとする心も德と申せましょう。おのれの欲を脇に置いて、相手の身になって考える。難しいことですが、日々心がけておればおのずと備わります」


「徳って、難しいんだね」


「はい。難しいです。私もよく分かっておりません」


「ええ? 先生もわかんないの?」


「易々とは理解できない問題なのです。ですから日々考え続けることが大事です」


「そうか。僕、頑張るよ」


 先生はまた笑いましたが、眼鏡の奥の瞳がふいにきらめきました。


「ときに。若様は素羽鷹沼に伝わる龍の伝説は御存知ですか?」


「なにそれ。知らない。今もいるの?」


 若様は目を輝かせました。


「いや。龍がいたといわれるのは千年も昔のことです」


「なんだあ。そんなに昔かあ」


 和真先生は書物に詳しいだけでなく、この地に伝わる昔話を調べたり、お寺や神社の古文書を読んだり、お年寄りの覚えている言い伝えを聞き集めたりしていました。それにしても、どうして急に昔話なんかするのでしょう。若様はいそいそと坐り直しました。

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