五章 昔話の龍(2)
「――お願い申します」
若様のかすれた声が
いつもの坐り机に向かうなり、若様はバッタリとうつ伏せました。
「若様。どうなさいました」
先生の
「また家老に殺されかけた」
突っ伏したまま若様がうめくと、先生ははじけるように笑いました。
「笑うけどさ。先生。毎朝、ほんとに命がけなんだからね!」
虎千代に顔をなめられながら、若様は泣き言をこぼしました。
「御家老様に毎日鍛えられておられれば、若様はさぞかし強くなられるでしょう」
「だめだよ。毎日、ヘナチョコ、ヘナチョコって言われてるもん」
「あの達人について行けているだけでも、若様は大したものですぞ」
「そうかなあ」
若様は弱々しく頬杖をつきました。
「そういえば、花野子ちゃんは?」
いつも若様の隣に坐っている花野子ちゃんの姿がありません。
「まだお殿様のところです」
「先生、花野子ちゃんが言ってた、お告げってなに?」
「え? それは――。ううううーん」
先生はコガネムシの羽音のようなうなり声をあげました。
「ええと。実は……。御家老様から他言無用とのおおせつかりましたので、まことに心苦しいことながら、申し上げられないのでござる」
語尾が「ござる」になるのは、和真先生がよほど困ったときです。
「ああ。家老が駄目って云うなら、いいや」
若様はまた机に突っ伏しました。
「拙者も申し上げられなくて
若様の小さな
「では、はじめますよ」
「はあい」
若様は居住まいを正して、論語の本を開きました。
「昨日の続きを読みましょう。
「子曰わく、德は孤ならず。必ず鄰り有り」
「はい良く読めました。さて若様。これはどんな意味だと思いますか」
先生がにこやかに質問しました。
「はい。先生がおっしゃいました。德さんはキツネじゃありません。あれ、德さんて誰だろう?」
「あはははは」
先生は上を向いて笑いだしました。僕はそんなに面白いことを言ったのかしら。若様はすこし得意になりました。
「若様。弧は、こ、こここ」
ニワトリみたいな声で笑いながら、先生は脇腹を押さえています。
「若様、孤はけものへんではなく、子へんでございます。よく御覧ください」
若様はいま読んだ頁を見直して、はっと目を丸くしました。
「本当だ。キツネじゃないや。弧って、
「おお! 素晴らしい。その難しい言葉をよく御存知でしたね」
先生は若様を褒めました。
「家老の部屋の掛け軸に書いてあったの」
湖に浮かぶ一人ぼっちの舟がお月様を乗せているのですよと、家老から
「孤はみなしごのこと。一人ぼっちという意味です」
先生が説明してくれました。
「德は孤ならず。必ず鄰り有り。つまり德のある人間は決して一人ぼっちにはならない。どんなときにも寄り添ってくれる仲間がいるものだ、ということです」
「そうかあ。僕にも德あるといいなあ。それで德ってなに?」
先生はまた吹き出しかけましたが、エヘンと咳をして立ち直りました。
「德とは、人徳、道徳などと、人となりの理想を表す言葉に使われます。仏教では、徳を積むことを
「いっぱい善いことをすると
「お釈迦様のおっしゃる德は、ひとつひとつ積み重ねてゆくものですが、孔子様の目指す德は、努力して磨きあげた心そのものとでも申しましょうか。難しいですか?」
「ううううう。わかりません」
若様は正直に言いました。すると先生は微笑んでうなずきました。
「すぐに分からなくて良いのです。折に触れて考えて参りましょう。徳は生まれつき備わったものではありません。心がけて身につけるものです。例えば、他人の気持ちを思い遣ろうとする心も德と申せましょう。おのれの欲を脇に置いて、相手の身になって考える。難しいことですが、日々心がけておればおのずと備わります」
「徳って、難しいんだね」
「はい。難しいです。私もよく分かっておりません」
「ええ? 先生もわかんないの?」
「易々とは理解できない問題なのです。ですから日々考え続けることが大事です」
「そうか。僕、頑張るよ」
先生はまた笑いましたが、眼鏡の奥の瞳がふいにきらめきました。
「ときに。若様は素羽鷹沼に伝わる龍の伝説は御存知ですか?」
「なにそれ。知らない。今もいるの?」
若様は目を輝かせました。
「いや。龍がいたといわれるのは千年も昔のことです」
「なんだあ。そんなに昔かあ」
和真先生は書物に詳しいだけでなく、この地に伝わる昔話を調べたり、お寺や神社の古文書を読んだり、お年寄りの覚えている言い伝えを聞き集めたりしていました。それにしても、どうして急に昔話なんかするのでしょう。若様はいそいそと坐り直しました。
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