三章 辰の年辰の日辰の刻(3)

 じきにそこら中が緑色に見えてきてクラクラした若様がまぶたを押さえていると、お殿様の熱い手が若様の肩をぐっとつかみました。


「あれを見よ! 七法師!」


 お殿様のただならぬ声に、若様はびくっと顔を上げました。すると。


「わあああああ!」


「おおおおおん!」


 若様と虎千代は声をそろえて叫びました。

 お天道様の左右に二つのお天道様が輝いていました。三つ並んだお天道様は、見比べようにも眩しくて目がくらむばかりでした。


「こいつは、すげえや。三つとも弓で射貫いたら痛快だろうな」


 お殿様が嬉しくてたまらないように呟きました。とんでもないことを言う父上に呆れていた若様の耳に、花野子ちゃんのつぶやきが聞こえました。


「龍の千年ここに尽きたり」


 何のことか訊こうとしたとき、家老がしゃがれた声で叫びました。


「殿。皆の者。うしとらの方角を。あれを御覧ください」


 みんな眼がくらんでいたので、家老の指差すものを見定めるのに手間取りました。東の空にはお天道様が三つも輝いているというのに、北に茫々と広がる枯れ野には暗い霧がとぐろを巻くようにうずくまっています。


「おお」と、お殿様がうなりました。


 霧にかげった湿原に淡い一筋の光の柱が立ち昇っていました。それはお天道様のような目を射る光ではなく、夜空にまたたく星に似たはかない光でした。真っ直ぐな光の柱は天に昇ろうとする龍の姿にも見えました。


「父上。あれはなに?」


 そっと若様が訊きました。


「わからん。いったいなんだろうな」


 お殿様がささやき声で応えました。

 そのとき、ふいに強く風が吹いて、枯れ野のアシが一斉に葉裏を見せました。霧が風にかき乱されると、光の柱も揺らめきました。幾千もの光の粒がさらさらと風に吹き散らされて、たちまち向こうの景色が透けて見えました。見る間に消えゆく儚い景色に目を凝らしながら、若様は胸が切なくなりました。


「おお。見よ。お天道様が」


 お殿様の声に振り向くと、幻の二つのお天道様が輝きを失ってゆくところでした。二つが同時に青空に溶けてしまうと、あとにはただひとつのお天道様が輝いていました。




 しばらくは誰も動けず、何一つ言うことができませんでした。


「見ものであったな。皆の者」


 お殿様の陽気な声が、張りつめていた空気をぱらりとほどきました。


「いかにも見ものでござった」


 家老が鍾馗眉を上げ下げしました。


「七法師。どうであったか」


「もう一度見たいです」


 若様の元気な答えに、お殿様がカラカラと笑いました。


「もう一度は難しかろうな。またとないものを見た我らは果報者(かほうもの)よ」


「ちがいます! 果報ではありません!」


 花野子ちゃんが叫びました。


「花野子。殿の御前ごぜんではないか」


 家老が叱りつけました。


「しかし。これはお告げの通りではありませんか!」


 家老に言い返すなんてすごい勇気です。若様は花野子ちゃんを尊敬してしまいました。


「ねえ、お告げって、なに?」


 若様が訊くやいなや家老の眉がはね上がりました。それと同時に、お殿様が花野子ちゃんの細い肩をポーンと叩きます。


「花野子! 本日はまことに御苦労であった。さあ、褒美を取らせよう。ついて参れ!」


「さあて、若様。本日も朝の鍛錬をいたしましょうぞ!」


 家老も声を張りあげました。


「それより、お告げって」


「いやはや! 今日も忙しいことよ!」


 花野子ちゃんを横抱きにかかえて、お殿様が梯子段はしごだんを駆けおりてゆきます。


「ほれほれ! 若様、参りますぞ!」


 家老も若様を後ろから蹴飛ばすように追い立てます。

 あっという間に取り残された和真先生の足元で「くうん」と虎千代が鳴きました。


「よしよし。また置いていかれたな」


 虎千代を抱きあげた先生は、かすかなカビの匂いに足を止めました。神棚の端にはひどく古びた巻物が祀られています。カビの匂いはここから立ちのぼってくるのです。昨夜一晩かけて、この巻物と取り組んでいたので一言一句まで覚えてしまった先生の温和な横顔にわずかな陰が差しました。


「虎千代。若様はこれから大変な目に遭うかもしれないよ」


 虎千代は先生の鼻を舐めました。


「これこれ、話を聞け」


「おん」


 舌を引っ込めて首をかしげた虎千代は、澄んだ茶色い瞳で先生を見あげました。


「何があっても我らは若様をお守りするのだ。お前も頑張るんだぞ。犬護法いぬごほうよ」


「おん! おん!」


 小さな虎千代が勇ましく咆えたので、先生は吹き出しました。


「ほんとうに虎千代は人の言葉が通じるみたいだなあ」


 いつもの笑顔になった先生は小さな狼を胸に抱えて梯子段を下りてゆきました。

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