三章 辰の年辰の日辰の刻(2)

 内廊下の真ん中に天守閣へ登る梯子段はしごだんがありました。

 天守閣とは言っても、平屋の屋根の上に物見櫓ものみやぐらを建て増しただけのものです。先代のお殿様が大工さんに頼んで作らせて、見栄を張って「天守閣」と呼ばせたのです。梯子段の下は昼間も暗くて若様の苦手な場所でしたが、今日はお殿様の背中なので全然平気です。くの字を交互に重ねた梯子段を登っていくと、天井板を四角く切った穴が開いています。これが「天守の間」の入り口です。天守の間では四方の板戸が開け放たれ、風が自在に吹き抜けていました。


 新しいサカキの枝をそなえた神棚の前で、白袴に白い小袖、青海波せいがいはの薄絹を羽織った少女が、自分の身の丈の半分もある長い御幣ごへい(木や竹の棒の先に紙垂しでと呼ばれる紙をたくさん結びつけた、神主さんがおはらいをするとき使う道具)を抱えて行ったり来たりしています。少年のように凜々しい顔がこちらに向けられると、金の髪飾りが涼やかな音を立てて揺れました。


「お殿様。遅いですよ。はじまっちゃいますよ」


 りんとした眼差しが、お殿様の陽気な目にひたと向けられました。


「おう。すまん、すまん」


 お殿様は苦笑いして小さな神官に謝りました。


「あれ。花野子かのこちゃんだ。うわあ、可愛い格好してる!」


 お殿様の肩の上から、若様が目を丸くしました。


「げげ。なんで若様も来たの?」


 眉をひそめて若様をにらんだ少女は、石蕗つわぶき花野子といいました。素羽鷹家の氏神を祀る角権現つのごんげんの宮司の跡継ぎで、若様より三つ年上です。お父さんを早くに亡くし、お祖父ちゃんについて神主の修行をするかたわら、度会先生から漢籍の手ほどきを受けていました。毎日机を並べて勉強しているので、若様にとっては一番の仲良しなのです。


「何だ、花野子か。宮司殿はどうした」


 家老が訊ねました。


「申し訳ありません。御家老様」


 花野子ちゃんがお辞儀をすると、ふさふさした御幣が床をはきました。


「じいちゃん、じゃなくて、宮司は今朝、井戸端でみそぎをしてたら腰をやっちゃいまして、こんなんじゃ天守閣は無理だから、お前、行ってこいって言うんです」


「なんだよ、それ。つかえねえな」


 お殿様が豪快に笑うかたわらで、家老が舌打ちしています。


「とにかく刻限です。あま照らす空を御覧あれ」


 お殿様の背からおりた若様は、みんなと一緒に天守閣のまわえんに出ました。ここは城山の一番高い場所です。素羽鷹沼を遠くまで見渡せました。広大な水面は清明な空を映しています。東の丘から船出したお天道様は、いままさに遮るもののない空へ漕ぎだしたところでした。空はまぶしい光に満たされ、透きとおるような青さです。お殿様は合掌してお天道様を拝しました。


「若様、お天道様をまともに見てはなりませんぞ。目を傷めますゆえな」


 家老は扇子をひさしのようにかざして片目をつむっています。


「はい!」


 若様も急いでおでこに手のひらをかざしました。日差しを一杯に浴びているうちに、若様の冷えた体がぽかぽかと暖まってきました。


「父上。お天道様はありがたいものですね」


 若様はしみじみと言いました。


「ほお。なぜ、そう思う。七法師」


 意外そうな顔で、お殿様が訊ねました。


「だって。お天道様はこの世のはじまりから、ずうっと」


 みんなが若様の答えに耳を澄まします。


「この世の洗濯物をみんな乾かしてくれるから」


 プッと花野子ちゃんが吹き出すと、お殿様と和真先生が大笑いました。家老の肩もかすかに揺れています。


「なんで笑うのさ」


 不満げな若様がくちびるをとがらせたところへ、折良く着替えが届きました。

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