一章 お城の若様(1)

 素羽鷹に今年はじめての木枯らしが吹いた、あくる朝のこと。

 城山の森を大波のように揺るがせた風も明け方にはおさまり、つづら折れの山道は一晩かけて散りつもった枯葉に厚く埋もれていました。朝を迎えた喜びに鳴きかわす鳥たちの声がふいに途絶えたと思えば、落ち葉を蹴散らす足音がにぎやかに駆けくだってきました。


 あさぎ色の小袖こそではかまを身につけた坊やが転げるように山道をおりてきます。前髪の下の黒いつぶらな瞳と白いふくふくした頬は小鳥のエナガにそっくりでした。つむじで結んだまげの先が足どりに合わせて子犬の尻尾のように踊っています。

 その名は素羽鷹そばたか七法師ななほうし。かぞえで八つになる、お城の若様です。


 若様は太い木組みの山門をくぐるとお堀をまたぐ木橋へと向かいました。敵が攻め寄せてきたときに備えて丈夫な板を二枚並べただけの簡素な橋でしたが、今朝はそこに散り敷かれた山桜の紅葉が目にもまばゆいほどでした。


「うわあ、きれいだなあ」


 思わず若様の足が止まりました。そのときです。


「若さまあぁ」 「若さまあぁ」


 山門の奧から、若様を呼ぶ声が近づいてきました。


「しまった!」


 若様はウサギのように跳ねて木橋を渡ると、対岸のシラカシの根方に飛びこみました。




 足さばきも軽やかに山道をくだってきたのは、白髪を高く茶筅髷ちゃせんまげに結んだ小柄なおじいさんでした。黒い肩衣かたぎぬを羽織り、袴の腰には使いこまれた刀を差しています。この人こそ素羽鷹にその人有りとうたわれる、伝説の勇者、大椎おおじい権之介ごんのすけでした。お殿様の一の家老で若様の剣術けんじゅつ指南役しなんやくも務めています。木橋のたもとでピタリと足を止めた家老は真っ白な眉毛の下から鋭い眼差しを四方に配りました。


「七法師さまああ。どこじゃあああ!」


 その声に驚いた鳥たちが雲のように飛びたちました。若様はやぶの中で縮みあがります。かつて戦場いくさばで大椎権之介がときの声を上げるや、数万の敵の軍勢が一目散に逃げ散ったという武勇伝は「大椎の一人勝ち」として広く語り伝えられています。


 続いて息を切らしてやってきたのは、髪をうなじでくくった背の高い青年でした。幼顔の残る丸顔に円い眼鏡を掛け、着古した茶色の羽織はおりに足首でくくった黒い袴、小脇には丸い毛皮のようなものを抱えています。木橋のたもとで足をとめると山桜の紅葉を見上げて頰笑みを浮かべました。およそさむらいらしからぬこの男は度会わたらい和真かずまといって、若様の学問指南役です。漢籍はもとより古今の文献に通じる英才で、まだ十九歳という若さながらお殿様の相談役にも任じられていました。

 度会先生は深く息を吸い込むと歌うように呼びかけました。


「ご家老さぁまーあ。しばしぃー、おー待ちくうだあさあーい」


 家老は鍾馗しょうき様のような眉を逆立てて、きりりと振りかえりました。


「どうした、和真」


 小さな国のことゆえ、家老は先生が産声を上げたその日から知っていますから、こうしていつも名前で呼ぶのです。しかし追いついた先生が家老の隣に並ぶと、小柄な家老よりも頭三つ分も背が高いのでした。


「申しわけございませぬ。御家老様。足がつりました」


 先生は丸顔をほころばせて謝りました。地顔が笑顔なので、かしこまった顔をするのが難しいのです。


「なにい!」


 敵を串刺しにするような家老の一声に、若様は胸を押さえてうずくまりました。


武士もののふ分際ぶんざいでなんたることか!」


「申しわけありませぬ!」


 先生はおそれいった様子で頭を下げました。


「えい、ほれ。そんなときは親指を引っこ抜く勢いで引いてみよ!」


 この家老は厳しいだけでなく、とても面倒見の良い人でした。


「ははあ。かしこまりました」


 先生はすぐさまその場に膝をつくや、小脇に抱えてきた小さなけものを、そっと地面におろしました。


「さあ、虎千代。足を出せ。ありゃ、親指はどれでござろうか」


 家老の眉がかくんと下がりました。


「なんじゃ。足がつったというのは、虎千代か」


 虎千代と呼ばれたけものは「くうん」と鼻声で鳴いて、黒目がちな瞳で家老を見あげました。笑っているような半開きの口から桃色の舌がのぞいています。小さな丸い耳も頭もおなかも、薄茶色のふわふわした和毛にこげでおおわれていました。


「あわてて若様を追いかけたせいで後足がつったようでござる」


 先生は虎千代の丸くて短い後足を優しい手つきでさすりはじめました。


 ――ああっ! すっかり忘れてた。ごめん。虎千代。

 若様は胸の内で虎千代にあやまりました。今朝はあまり急いでいたので、仲良しの虎千代を連れて出るのをうっかり忘れてしまったのです。

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