クゥトゥルル神話

海土竜

第1話 深淵に棲まう者

 人類の文明は繁栄の頂点を極めた。手に入らぬ物はなく、叶わぬ望みもない。それを当然と受け入れ、漫然とした幸福の中で生きる人々は、貧しき者の存在など気にかけてはいなかった。

 彼らの足元、名も知らぬ神を祀る場所。信仰を忘れた人々に捨てられた教会の廃墟で子供たちは暮らしていた。

 いつ、生まれたかも分からず。

 いつまで、生きられるかも分からず。

 いつも泣いていた少女は、うるると呼ばれていた。


「お腹減ったよ……」


「泣かないの、うるる。明日はきっとパンが食べられるよ」


「うん、神様にお祈りして、寝る……」


「人は、パンのみにて生きるにしかず!」


 雷鳴のような怒号が教会の崩れそうな壁を揺らす。ミシミシとしなる柱に恐怖して、小さな体を抱き寄せ合ったが身を守るすべのない子供たちをあざ笑うように、祈りをささげてきた神の像が粉々に破壊された。


「ひゃっはー! ガキどもめこんな所に隠れていたぞ!」


 黒い炎が燃えさかるような禍々しい悪鬼の姿が崩れた壁の穴から現れた。それは一匹ではない。針金のように硬い毛の生えた腕を振り回し、次々と子供たちを掴み上げると泣き叫ぶ子供たちを締め上げる。


「逃げて、うるる!」


 力いっぱい背中を押された。よろけながら走り出す。恐怖から目を背けて、真っ暗な闇の中へ走り出す。悪鬼の腕に捕まらなかったのはただの偶然か。運命か。

 富める者はこの世のありとあらゆる欲望を満たし、快楽をむさぼった。神に救いを求める必要もなく、信仰を忘れた人々は、神の名さえ忘れていた。

 貧しき者には、天に食らいつく顎のような建物の下で、見上げる空さえ残ってなかった。


「この世界には、闇しかないんだ。いくら祈っても、助けてくれる神様なんていなかったんだ。この世界にいるのは、邪悪で醜悪な闇の中で蠢く怪物だけ……。この世界は、邪神に支配されているんだ!」


 うるるの叫びが闇に吸い込まれる。底辺で叫ぶ彼女の声はどこにも届きはしない。ただ深く深く沈みこむ、闇の深淵に……。

 その声に、深淵の中で蠢く触手が身もだえした。

 その声は、光の届かぬ闇の中に棲む、最も邪悪で、最も醜悪な、邪神を呼び覚ましたのだった。


「……呼んだじゃしん?」


「え? 誰?…… 邪神?……」


 うるるの目の前には、悍ましい触手の生えた生き物がいた。頭一つ分低く、頭の上に触手の生えた……。いや、頭の上に緑色の半透明の物体を乗せた、子供? が居た。闇の深淵に住んでいたためか目は閉じられたままだ。そもそも、着ている服に『じゃしん』と書かれていなければ、邪神かどうかなどと疑問さえ浮かばない。


「邪神じゃしん。世界を支配している邪神じゃしん」


「本当に、邪神なの?」


「本当じゃしん」


「嘘よ。邪神がそんなに小さい筈がないわ」


「小さくないじゃしん」


「邪神は、もっと邪悪で、もっと恐ろしくて、どんな事でも出来るのよ」


「何でも出来るじゃしん。手始めに、お前を眷属にするじゃしん」


 触手を蠢かし、うるるに襲い掛かる。見た目に欺かれてはならない、邪神がついに恐ろしく邪悪な本性を現したのだ!

 ――ペタリ。


「ぺたり?」


 邪神の触手によって張り付けられたのは、『じゃしんのけんぞく』と書かれた丸いシールだった。


「邪神のイラスト入りじゃしん」


「こんな物で眷属にされたりしないわ」


 剥がそうとするがぴったり張り付いてて、指が引っかからない。


「邪神の眷属になると、どんな望みでもかなうじゃしん」


「どんな……、望みでも……?」


 あまりにも甘美な誘惑。心の奥底の欲望が真っ黒な影となってわき上がる。全てを奪い尽くし何も与えてくれず、ひっそりと生きる事さえ許されなかった世界に対する恨みが湧き上がる。それは皮肉な事に教会を破壊して全てを奪って行った黒く燃える悪鬼の姿に似ていた……。


「……かなうじゃしん」


「どんな願いでも、かなえられるのなら……、こんな世界無くなってしまえばいい!」


 叫んだ瞬間、うるるの腹を突き抜けるグゥーという音が鳴り響いた!

 何日もろくに食事をしていないすきっ腹に力を入れて叫んだためだ。欲望をつかさどる邪神には、そんな事はお見通しだった。


「お腹減ったじゃしん?」


「……うん」


「任せるじゃしん! お腹が減ったら、人間から奪うじゃしん」


 邪神は自信満々に触手を振り上げた。それも当然の事、邪神にとって支配する人間から生贄を徴収するのは当然の事なのだ!


「さて、お昼にするか……」


「クトゥ、クトゥ、クトゥ、あれから奪うじゃしん」


 不気味な笑い声をあげ、この世界に忍び寄る悪意に何の不安さえ抱かず、公園でおにぎりを食べる青年に、触手を振り上げた邪神が這いよる!


「よこすじゃしん」


「え? 何?」


 地面を這う邪神は青年の視界には入らない。だが、その声だけは聞こえる。頭の中に直接響くのは、地の底から魂を絡めとろうとする闇の眷属が発する深淵の声だ!


「お腹が減って死にそうじゃしん、こっちによこすじゃしん」


 下を見ればすぐその姿に気がつく。だが、それこそ邪神の奸計だったのだ。地面に這いつくばる姿、それは何者にも抗い違い、泣き落とし、土下座だ!


「何で地面に……土下座? ちょっと、やめてくださいよ……みんな、見てるじゃないですか」


「おにぎりをよこすじゃしん」


「おにぎり? これでいいんですか?」


「おにぎり、じゃしーん!」


「やったじゃしーん!」


 青年に差し出されたおにぎりを受け取ると、邪神は仰け反るほど雄たけびを上げ、全身で歓喜の情を現わした。


「おにぎりを手に入れたじゃしん! さっそく眷属に食べさすじゃしん」


「あの……、おにぎり、もう一つありますよ……」


 二つ目のおにぎりを差し出す青年に、邪神の触手は総毛だった!


「おにぎりがもう一つ出てきたじゃしん!」


「おにぎりが増えたじゃしん!」


 邪神も増えた。


「おにぎりを増やすとは、ただの人間ではないじゃしん」


「眷属にするじゃしん」


「えっ、何するんですか?……」


 邪神は触手を振りかざして青年にシールを張ろうとしたが、服には届かなかったのでズボンに貼った。


「新しい眷属じゃしん」


「おにぎりを増やす眷属じゃしん」


 新しい眷属が増えた事に大喜びする邪神に、青年は泣きそうな笑い顔を作るしかなかった。そして、邪神もまた増えた。


「眷属が増えたから、新しいおにぎりを手に入れてくるじゃしん」


「いや、僕はいいから……」


 青年が止めるのも聞かず、邪神は次の獲物を探して這いずり回る。四本の手足と無数の触手を使って地面を這い、獲物に飛び掛かるときは猫のように体を縮めるが、勢いはなく後ろ脚は地面に付いたまま体が伸びあがる。それはまるで尺取虫のような動きだった。


「ルルイエで待っているじゃしん」


 そう言い残し、邪神が植木の向こうまで這って行くと、この世の物とは思えない人間たちの悲鳴が上がった。深淵から這い出た邪神の前では、人間は恐れおののくしか出来ないのだから。


「うわぁー! 何か踏んじまった!」


 その後、邪神がルルイエに戻ったかは、人間に知る由もなし。



――――

登場人物

うるる:邪神に世界の滅亡を願った少女。

悪鬼:児童福祉局職員。廃墟に住む孤児を保護して回っている。

邪神:緑色の触手のある邪神。うれしいと倍に増える。

青年:公園で昼ご飯を食べようとしてて、邪神におにぎりを取られる。

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