七尾と沙織

 翌日、あたしがバイトを終えて、GABホールディングを出てしばらくしたころのこと。

 落ち込んでいるあたしのスマホが鳴った。

『一色さん? もし良かったら今日一緒に飲みませんか? ちょうど時間ができたので……』

 それは七尾さんだった。あたしは、どうしようか迷ったけど、真治のことを考えるのが嫌だったから、その誘いに乗ることにした。

 七尾さんは、待ち合わせ場所に大手町のホテルのロビーを指定してきた。

 あたしは、そんなところに行ったことなんてない。

 好奇心もあって、言われた場所に行ってみた。

 待ち合わせ場所で電話を鳴らされた。あたしがスマートフォンを耳に当てていると、七尾さんが現れた。

「一色さん。ここですよ」

 七尾さんは手を振った。あたしの携帯をじっと見つめてから微笑んで続ける。

「一色さんの携帯、最新型のスマートフォンなんですね。それ、私も買おうかと思っていたんですよ」

 七尾さんはかっちりしたスーツ姿で、いつもくたびれたスーツを着てる真治とは大違いだ。

 二人の年は同じくらいだろうけど、全然違う。

「ともあれ、やっと一色さんと二人で話せる機会が出来ましたね?」

 七尾さんはそう言って笑いかけてきた。

 あたしが小さく頷くのを見てから、七尾さんは聞いてくる。

「食事は取りましたか?」

 あたしは首を横に振る。

 そう言われれば、おなかがペコペコだ。

「じゃあ、ここのメインダイニングで食事を取りましょう。もちろん私が招待(エスコート)しますよ」


 そのホテルのメインダイニングはフランス料理で、メチャクチャ高級そうだった。

 あたしは最初のうち、緊張してほとんど味が分からなかった。

 だけど、七尾さんはあたしに気を遣ってくれて、少しずつ平常心を取り戻すことが出来た。

 七尾さんの話は面白かったし、あたしはかなり気が晴れたと思う。

 来てよかった。同じ公務員の筈なのに真治とは大違いだ。

 ただ、飲み慣れないワインで、あたしは酔っぱらったかも知れない。

 お酒で顔を赤らめたあたしは、レストランの後、少しだけラウンジで話しませんかという誘いを、断れなかった。

 ラウンジは区画が切られた個室で、とっても広い上に景色が良かった。

 あたしが酔っていたのは、ワインだけじゃなくて、非日常の空間に対してだったんだろう。

 そこで勧められたカクテルはとっても飲みやすかった。

 だけど、おいしくて追加した二杯目で、あたしは自分がかなり酔っていることに気付いた。

「七尾さんって、女の人誘い慣れてるでしょ? このお酒、めちゃ強くないれすか?」

 あたしが舌をもつれさせながらも、何とかそう聞くと、七尾さんは答えた。

「まさか。でも、一色さんみたいな美人と飲むのは楽しいですよ」

 やばい。あたし、口説かれてる気がする。

 だけど、それが気持ちいいのが、メチャクチャ危険だ。

 あたし、どうなっちゃうんだろう。

 二人の間にあるあたしのバックを七尾さんは自分の方に寄せた。

 そして不意に、七尾さんがあたしの肩を抱いて言ってきた。

「一色さんみたいなタイプ初めてなんで、ずっと気になってたんです」

「れも、あたし、子供みたいだし、大人っぽくないよ?」

「一色さんは綺麗だし、大人の女性だと思うよ」

 あたしは、その言葉がとってもうれしかった。

 七尾さんがあたしを見つめてくる。あたしは、不意に七尾さんから目を反らした。

「でも、いつも真治にからかわれるし」

「真治? 特捜官の九条真治さんですか?」

「うん。あれ、七尾さんも真治のこと知ってるの?」

 七尾さんは、あたしの問いに答えなかった。

 そして、不意に七尾さんはあたしにキスしようとして唇を寄せてきた。

 あたしは酔いに任せて目を閉じる。

 あたしは大人。キスくらいどってことない。

 だけど、その時あたしの脳裏に真治の顔がよぎった。

 七尾さんとキスしたら真治はなんて言うだろう?

 ――からかうのかな? それとも――?

 そう思って、あたしは突然気がついた。

 あたしは、真治のことを忘れようとしてた。

 でも、気がついたら、あたしってばいつも真治のことばかり考えてる。

 忘れることなんて出来ない。そんなの出来るはずもない。

 それに、真治から逃げ回るなんて、あたしじゃない。全然あたしらしくない。

 ――そうだ。あたしは妹なんかじゃないって仕事で示せばいいんだ。

 七尾さんがあたしの唇に触れる前に、目をぱっちり開けた。

 そして、七尾さんの肩を押して、あたしは身体を離した。一瞬で酔いが吹き飛んだ気がする。

「一色さん?」

 七尾さんは戸惑っているようだ。

 あたしはぺこりと頭を下げて言った。

「あたし、帰ります。明日はガサ入れで早いし。それに、七尾さんのおかげで、あたし自分の気持ちが分かりました」

 立ち上がって数歩歩いた時、あたしは席にバッグを置き忘れたことに気付いた。

 七尾さんはそれに気付いて、席に戻るのを制してきた。

 そして、七尾さんからバッグを手渡される。

「家まで送りますよ」

 あたしは送ろうとする七尾さんを断って、ふらつきながら一人で帰路についた。

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