第六章 始まりのハッカー
沙織の失敗
あたしが最初にコンピュータに触れたのは、小学校に入る前だったと思う。
時期は昔過ぎて覚えてない。
物心ついたときには、あたしはもうコンピュータを使っていた。
あたしがいた学校はずっと御茶ノ水女子大の付属だから、やっぱり女の子が多い。
一応中学までは男の子もいるけれど、付属高校から上は女の子だけになる。
だから、携帯とかスマートフォンは別としても、出来上がったアプリではなく、コンピュータそのものやプログラミング、ましてはハッキングに興味を持つ子ってあたしの周りにはほとんどいなかった。
あたしがもっぱら勉強したのは、お父さんと、インターネットからの情報が中心だった。
でも、ハッキングに関する情報って言うのは思いのほか少なくて、正確な情報なんてほとんどなかった。
結局、お父さんの部屋から技術書を持ち出したりして、勉強する以外なかった。
そしてあたしが、そこでわかったことが二つあった。
人間はミスをするということ。
だから、ミスがあることを前提に、仕組みを作っていくこと。
これが大事なんだ。
あたしが初めて大失敗したのは、このことを知らなかったからだ。
そのときのあたしは有頂天だった。
あたしは、当時中学校で一番プログラムに詳しい生徒だった。
ハッキングに関しても勉強して、自信を持っていた。
昔と違って、今は技術に詳しいと認知されれば、メンバー制の専門サイトに参加できる。年なんて関係ない。
一番知識として役立ったのは、ハニーポットと呼ばれるおとりサイトを作って、海外から不正アクセスをしてくる輩(クラッカー)の手口を丸裸にした時だ。
クラッカーはあたしには予想外のいろいろな手口を知っていた。
ハッキングとクラッキングの違いを一言で説明すれば、ハッキングはすごいことで、クラッキングは悪いことだ。でも、やっている内容にそんなに違いがある訳じゃない。
よくテレビで言われるホワイトハッカーというのは実は誤用で、もともと悪いことをしないのがハッカーで、悪いことをする人はハッカーではなくクラッカーというのが正解。クラッカーが行う不正なハッキングは、ハッキングではなくクラッキングっていうんだ。
あたしはクラッキングを行うクラッカーが嫌いだった。
技術を何で人に迷惑をかける方向で使うのか、あたしにはぜんぜん理解できない。
悪いやつなんか大嫌いだ。
仲間内でハッキングの技術を競うブラックハットという米国の大規模イベントに参加したこともある。
その時は、最年少のハッカーとして祭り上げられた。
実はお父さんの仕事のことはあまり知らないけど、PCにかかわる仕事をしているらしい。
だけどもう技術的なものや知識面ではお父さんを超えたとあたしは思っていた。
今から思えば、本当に身の程知らずだった。
そのときもあたしは自分の部屋で、いつもの通り、インターネット上で情報交換するために、チャットをしようとしたんだ。
雑談のためのLINEなんかとは違う。
そこは、紛れもなく技術を持つ人しかたどり着けない、専門的な会話が出来る場所だ。
そのチャット室に、何度か騒ぎを起こして、しかもそれを自慢している『SlapStick』っていうクラッカーがいた。そして、その掲示板内ですでに騒動を起こしていた。
あたしは、その時ふいに、こいつのことを調べてみようと思った。
そのチャットルームの管理者とは仲が良かったので、あたしは書き込みをしている人物のIPアドレスを教えてもらえるはずだ。
IPアドレスはインターネット上の住所みたいなもの。
一方的に話し続けるだけなら嘘のIPアドレスを使って詐称することもできる。だけど、そんなことしたら、返事とか回答が自分の所に到着しない。返事を返すのは嘘のIPアドレスになるからだ。
だから詐称したら会話はできない。あたしはそう思っていた。技術的にはそれは正しい。
でも違った。あたしは馬鹿だったんだ。
書き込みをしているクラッカーのIPアドレスはわかった。
すぐにインターネットのアジア地区を管理しているAPNICというホームページに検索をかけた。そして、そのIPアドレスがどのプロバイダーに所属するかを調べる。
その結果は、固定IPアドレスしか提供しないSSSっていう日本のプロバイダーだった。
この瞬間に、こいつ自身か、もしくは遠隔操作の踏み台となっているどこかの被害者のコンピュータが特定できたことになる。踏み台が特定できたなら、後は一つ一つ逆に追っていけば、時間はかかってもこいつにたどり着ける。
ためしに、そのIPアドレスにPINGを投げた。PINGは、相手がいるかどうか調べるだけだから、相手に知られる心配はほとんどない。PINGの結果は、すぐに返ってきた。つまり、今そのコンピュータは動いているってこと。
次に、そのコンピュータのだいたいのネットワーク上の所在地を調べるコマンド(Traceroute)を入力した。
びっくりした。インターネットの基幹ネットワークにものすごく近いところにいる。
そこまで調べてから、あたしはチャットルームで、『SlapStick』っていうクラッカーに高らかに宣言した。
「あんたはSSSからつないでいるでしょ? 踏み台かも知れないけどね」
『SlapStick』はちょっと時間が経ってから、返事を返してきた。
「だったらどうだって言うんだ? お前は警察か?」
『SlapStick』の問いに、あたしはすぐに答えた。
「違うけど、あたしクラッカー嫌いなの」
「俺もお前みたいな奴は嫌いだ。せいぜい嫌がらせされないように気をつけておくんだな」
『SlapStick』はそう言ってからチャットを終えた。
その後、知り合いのチャットのメンバーとちょっとだけ話して、あたしもチャットを終えることにした。
ついでに、このクラッカーの情報が手に入ったら教えてくれってお願いしたんだ。
そしてあたしは、そのIPアドレスをチャットログとともにプロバイダーに送って、それを調査するようお願いした。その結果は一週間後にきた。
ただ、その回答内容をみて愕然とする。
『あなたが指定したIPアドレスは公的組織のもので、個人が持つものではありません。また、外部から侵入された形跡はありませんし、技術的にもそれは不可能と思われます』
そんな馬鹿な話はない。だとしたら、一体誰がどうやってあたしと会話したんだろう。
チャットの書き込みスクリプトに変なところはなかったから、手で書き換える以外に記録を改変する方法はない。でも、チャットの記録を書き換えする時間なんてなかった。管理者にもそれは確認済みだ。
会話が成立していなかったなら、IPアドレス詐称をしてたのかもしれない。だけど、ちゃんと会話できていた。何があったのだろう。
そして、しばらくして、あのときチャットをしていた仲間の一人が、あたし宛にメールを送ってきた。添付ファイル付きで。いわく、添付ファイルに『SlapStick』の情報を書いたという。
ファイルの拡張子を見たら間違いなくテキストであることを意味するtxtで、表示されているアイコンもメモ帳だ。
ファイル名は『SlapStickexe.txt』。
長いファイル名で拡張子の一部が隠れているわけでもない。
だから、開いてみた。
後から考えれば、うかつな行動だっただろう。
テキストファイルなのに、なんだかやたらと表示に時間がかかってる。
そして、ハードディスクが動き続けている。そしてマウス操作を受け付けない。
――なんで? なんでテキストファイルを開いただけなのに?
慌てて、PCをシャットダウンした。そして、恐る恐る再起動しようとする。
だけど起動しない。二度とそのPCは動かなかった。
仕方がないので、あたしはPCのケースを開いて、中からハードディスクを取り出した。そして持っているノートパソコンにつないだ。ハードディスクが認識されたので、中を見てみる。
ディスク上のほとんどのファイルが失われていた。
あたしが大切にしていた日記や、友達との写真も全部消えた。
あたしは震えながら、ノートパソコンからファイル復活ソフトを起動した。
うまくいけば、これで大切なファイルだけは復活できるはずだ。
だけど、ご丁寧にハードディスクに上書きがされていて、ファイル復活ソフトも使えなかった。
復活させたファイルの中身を見ると、どれもこれも「馬」と「鹿」の文字で埋まっていたんだ。
あたしはヘマをしたことを知ったんだ。それも特大の失敗。
あたしが書斎にいたお父さんに半泣きでこのことを話すと、あたしの頭をなでて言った。
「まあ、人間はミスを犯すんだから仕方がない。だからミスを犯しても大丈夫な仕組みを用意しておくんだよ。今回も大丈夫さ」
あたしはお父さんを見て涙目で尋ねた。
「大丈夫? 何が?」
お父さんは書斎の片割れに置かれた目立たない箱を指さしながら、微笑んで言った。
「沙織は知らなかったかもしれないけど、家のコンピュータは全部毎週自動的にバックアップが取られているんだ。そこのコンピュータに複製情報が全部取られてる。後でそこから復元すればいいよ。俺もよく失敗するからなあ」
そのとき、あたしはお父さんがプロフェッショナルであることと、まだお父さんに全然追いついていないことを理解したんだ。
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